第45話 再会と再戦

 昔の話だ。

 まだ青年だった頃、は鬼と対峙たいじした。

 正確に言うと、それは鬼になる前の子鬼と戦ったのだ。


 越中富山藩前田家家臣えっちゅうとやまはんまえだけかしんである添田宗太夫の弟子――名村立摩は昔のことを思い出していた。

 光陰矢こういんやごとしとはいうが、あっという間の二十年だった。

 今では『鬼宗看』と呼ばれる男との対局を反芻はんすうしていた。


 それは享保元年(一七一六)に行われた対局で宗看はまだ印寿の名前であった。

 そして、名村立摩の角落ちでの将棋だった。

 楽勝ではなく辛勝。しかも、幸運もあった。


 『鬼』というあざなの萌芽を感じさせる才気。

 そして、あの真剣な眼差し。

 今では平手ではとても太刀打ちできないだろう。

 どんな強さを得ているのか――想像するだけでも名村立摩は愉快な気分になる。


 二十年の年月としつきは残酷だ。

 名村立摩のびんには白いものが混じり、正座をしていると膝関節に鈍い痛みが走る。

 年を取ったのだ。

 認めたくないが、それが現実であった。

 加齢による衰えは肉体的なものだけではなく、将棋のの精度にも陰りは見え始めた。

 だが、その分積み上げた経験と地位が名村の実力を支えていた。

 俗に『大局観』と呼ばれるものが完成しつつあった。

 しかし、それが故に不可解な事があった。


 ――何故、俺は六段なのか。


 どう考えても実力は七段に相応しいはずなのだ。

 それは自明の理であり、周囲も認める事だった。

 七段は在野の将棋指しとしては最高位で、師匠の添田宗太夫も七段である。

 これは実力も実績も納得なので異を唱える気はない。

 しかし、有浦印理や宮本印佐は?

 彼らは伊藤門下で優遇されているだけではないか。

 自分よりも優れているとはとても思えない。

 彼らと平香混じり落ちで指す将棋は屈辱の一言である。

 結局、異を唱えたいのは誇りの問題である。

 将棋所に疑義を呈し、昇段の要望を出したのはそれに尽きた。


 享保二十年(一七三五)になるその年、名村立摩は七段昇段を申し出たのだった。


   +++


 将棋家は仕事納めの後、冬の間は休みになる。

 しかし、ただ休みだから何もしないわけではなく、その都度、湯治という名目で各地を旅した。

 これは宗看たちも別ではない。

 その土地の滋養のある美味しいものを食し、温泉につかった。

 ただ、本当に日頃の疲れを癒すために湯治をしただけではなかった。

 どちらかといえば、それはあくまでも副次的なもの。

 徒歩かちでの移動だから遠方へ足を運ぶことがそれほど楽なものではなかったのだ。

 主とした目的は、将棋の才能のある人間を捜し出し、弟子とすることであった。

 そこで宗看は名村立摩と再会した。

 それは享保二十年。

 つまり、名村立摩が昇段を願い出した年であった。


   +++


 ――確かにこちらはもてなす立場だが、ここまで不遜ふそんなのはどうなのか?

 それが名村立摩の宗看と再会した時の素直な感想だった。

 名村立摩から頭を下げて出迎えた時だ。


「お久しぶりです、名人」

「……ああ、久しぶりだな」


 目を細めて言う宗看に、名村は少し苛立ちを覚える。

 確かに将棋という分野では上の立場かもしれないが、年齢はこちらの方が上なのだ。

 一昔より更に過去の話だが、こちらが上手を持って勝った事もある。

 しかし、それらを飲み込み、名村は笑顔でもてなす。

 正直、不満は感じていたが、へそを曲げられても困るので名村は慇懃を心掛けた。

 心掛けねばならない時点で慇懃無礼いんぎんぶれいのような気もしたが、少なくとも態度には出していないはずだ。


 ただ、名村立摩は「あの少年がこんなに大きくなるのか」と内心で目を剝いていた。

 それは達人が発する気配や存在感という意味だけではない。

 将棋所を継いだということは当然知っていたし、あれから二十年だ。

 子鬼が本物の鬼になるだけの歳月だから何があっても驚くべきではない。

 そういう理屈は分かっている。

 しかし、物理的にここまで成長しているとは思わなかったのだ。

 大工や火消しと比べても圧倒的に立派な体格で、侍でも稀有な方だろう。

 名村があまり身体の大きい方ではなかったので、見上げる形になる。


「本日はご足労頂き誠にありがとうございます」


 将棋所がわざわざ加賀にまで足を運んで稽古をつけてくれるのだ。

 この機会を大切にしたかったし、荒立てる事なく昇段の話を進めたかった。

 加えて、彼が創り上げた献上図式についても詳しく話を聞きたかった。

 加賀にまで話は及んでいたのだ。

 曰く、『鬼宗看』が信じられない傑作を生み出した、と。

 将棋指しとしては好奇心が抑えられない。

 宗看もニヤリと笑った。


「なぁに、俺も楽しみだったんだぜ」

「? 何がでしょうか?」

「あんたの名前は江戸にもとどろいている。『加賀では敵なし。壮年に達して益々冴えている』ってな」

「それは……光栄です」


 言葉遣いは気に食わないが、こちらに対する敬意はあるようだ。

 意外とすんなりと話は済むかもしれない。

 名村立摩は期待を寄せた。


「それでは名人、既にあなたと指したい者が集まっています。よろしくお願いできますか?」

「任せろ」


 宗看は軽く請け負った。

 事実、『鬼宗看』の名に偽りなし。

 駒を落としていても、宗看はほとんど負けなかった。

 そして、夜が更ける。


 その後、宗看による、加賀の将棋好きへの稽古の時間が過ぎ、ちょっとした宴席が設けられた。

 北の海の幸を肴に酒を与えると、宗看は顔を赤らめながら快活な笑い声をあげるようになっていた。

 気分が良いのか大法螺おおぼらを吹いている。


「俺の献上図式は比類ない傑作だ。しかし、俺の弟の看寿はそれを超えるぞ」

「そうなのですか?」

「ああ、なんといっても十三の年に六百十一手詰めを創りあげたからな」

「ははは、ご冗談を」

「冗談なものか! ええい、頭の固い野郎め!」

「そんな素晴らしい作品をどうして貴方の献上図式に取り入れなかったのですか」

「そんなもの、人の手柄を奪うような卑怯者に見えるのか、この俺が」

「見えませんね。貴方はとても公平な人間に見える」

「うむ、そうだろう、そうだろう」


 上機嫌になったのか、頬を紅潮させながら宗看は破顔はがんする。

 ここが頃合いを見て、名村立摩は切り出した。


「……名人にお願いしたい事があります」

「? 何だい?」

「私を七段に昇格させてください」

「ああ、手紙の件か。いつ切り出すかと思ったぞ」

「はい、何卒何卒……」


 名村は先程よりも素直に頭を下げることができた。

 実際に将棋を指してみて宗看が自分よりも強いと理解し、お願いする立場だと弁えたからだ。


「ふむ……」


 宗看は面白そうに片目を上げ、唸った。

 しばし虚空を睨んでいる。

 そして、ポツリと言った。


「あんたは加賀じゃ実力者として実績十分だ。だが、まだ多少の疑問があるな」


 先程稽古を付けて貰った時には十分以上に実力を発揮できた気がする。

 確かに香車を落としても負けたが、それでも歯が立たなかったわけではない。

 角行落としでは勝てたのだから、実力的に七段はおかしい話ではない。


「……では、どうすればよろしいとおっしゃるのか」

「さてね。相応しいかどうかは力を見せて貰うしかないからな」

「力は先程お見せしましたが? ご不満ですか?」

「不十分だと言ったが、これ以上の言葉が必要かな」

「……無礼という言葉をご存知か?」

「呵呵、俺に言う言葉かい」


 いい加減腹が立ってきてすこし噛み付いたが、すぐに頭が冷える。

 安い挑発の理由は何かを名村立摩は考えた。

 単純に中身が餓鬼ということもないだろう。

 いや、案外、それも理由の一つかもしれないが、流石に将棋所がそこまで単純とは思えない。

 名人なのだ。

 天下一の将棋の達人なのだ。


 ――では、どういうことか?


 名村立摩は考えてみて、そこで気づく。

 こんな安い挑発に乗ってどうするのか、という思考がそもそも間違いなのだ。

 安かろうが高かろうが、挑発の内容を吟味するべきなのだ。

 そして、宗看は『相応しい実力を示せ』と伝えているのだ。


「……香落としで貴方に勝ちます。それで満足かな」

「そうだ、それが正しい作法だな」


 宗看は大きく頷きながら言った。

 それで良いとばかりに笑う。

 確かに最初会った時の宗看は子供だった。

 しかし、今は世に名が轟く名人である。

 まだあの当時の面影を思い浮かべていたのだ。

 それが名村立摩の瑕疵かし


 それに宗看が献上した図式の一部を先程見せてもらったが――神業としか思えない出来だった。

 あれを創った相手だと考えるだけで、ふてぶてしい態度に対する立腹も収まるというものだ。


 将棋の世界も野生の獣と大差なく、強い者が偉いのだから。

 その相手に対して、ただ段位の話をしてどうするのか。

 確かにいきなり段位を上げてくれというこちらの方が無礼だった。

 反省する。

 宗看は居住まいを正し言う。


「だから、こちらとしては、名村立摩という将棋指しがまだ六段だということを証明しなきゃならんわけだ」

「ええ」

「香落ちでは不満という事を証明した方が分かりやすいだろう」

「つまり?」

「ま、角香だな。それぞれ一番ずつ指そうか」

「そうきましたか……」

「不満か?」

「いいえ、貴方の矜持きょうじを見誤っておりました」


 宗看は角と香車を落とした状態でそれぞれ勝つと言っていた。

 角落ちを指すとしたら、二十年前とは全く逆の立場になったということで、それは感慨深いものがあった。

 人は成長するし、ここまで強くなれるものなのだ。

 あの当時は勝てたが、成長しきった鬼が退治できるか。

 名村は満面の笑みで宣言する。


「ははは、絶対に勝ってみせましょう!」


   +++


「――お前さん、加賀の名村立摩の話は聞いたかい?」

「ああ、凄い強いらしいじゃないか。加賀じゃ知らない者がいないとか」

「将棋家をぶっ倒して全国制覇を目論んでいるらしいぞ」

「ははは、それは凄い。今の名人はあの『鬼宗看』だろう? 弟の看寿はそれ以上の天才だと噂だが、それに本当に勝てるのか?」

「どっちが勝つと思う?」

「そんなの分からないさ。あの『鬼宗看』も人の子。最近は女を連れ込んでよろしくやっているそうじゃないか。油断しているかもしれんぞ」

「ほう。しかし、それでもあの『鬼宗看』が負けるとは思えないが……」

「しかし、その本人が名村立摩は凄腕と褒めているそうじゃないか」

「そうなのか。なら、賭けないか。どっちが勝つか」

「ああ、俺は『鬼宗看』な」

「……賭けにならんじゃないか」


 それは巷で流された会話だった。

 さて、加賀の名村立摩は確かに達人として有名だったが、それは本当に一部での話である。

 将棋に興味のない人間にも広まっていたのは何故か?

 積極的に噂の流布を行っている者がいたからだ。


 強くて優れた者を人は信頼する。

 美しく清らかな者に人は惹かれる。

 残酷かもしれないが、それが現実だ。


 更には強くて優れていると者、美しく清らかだと者に惹かれる人間もいる。

 その点で灯りに誘われる蛾と大差ない。


 これは名村立摩が持ちかけた話だった。

 しかし、それを幸甚とばかりに


   +++


 享保は二十年四月二十八日を以て、元文に改元された。

 名村立摩と三代伊藤宗看の角落ち将棋が指されたのは元文元年(一七三五)五月十七日の事であった。

 宗看はその将棋を百三十七手で勝利する。

 あれだけ高らかに勝利を宣言したくせに、名村立摩は圧倒的に敗北した。

 名村は角落ちの下手という圧倒的有利な状況で敗北したのだ。


 その後、六月二日に指した香落とされの将棋を名村は辛くも勝利する。

 立摩流と呼ばれる師と共に編み出した奇襲戦法がうまく炸裂したからだ。


 しかし、角落ちで負けたのであれば、七段への昇段は諦めざるを得なかった。

 この勝利により、宗看の名声はより一層高まる。

 図式を作成する能力も将棋の強さも類を見ないほどの存在。

 将棋を指す者で宗看の名を畏れない者はいなかった。

 そして、その流れは宗看から看寿へと受け継がれる。

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