第11話 結末
更に年を跨ぎ、再び冬が訪れていた。
宝永八年(一七一一)二月二十八日、争い将棋第五十七番。
ちなみに、第五十六番はその前日に行われたので、二日続けての勝負である。
七月に行われた第五十五番から七ヶ月以上も間が空いていたのは、印達の体調を考慮した結果である。
印達は小康状態。
相変わらず顔色は良くないが、どうにか対局できる程度には回復していた。
ただし、対局できるから完調というわけはなく、手合いは印達が角落ちの上手のままだが、第五十五番、第五十六番と負けている。
現在印達の三連敗中なので、今日も敗北した場合、角香の手合いにまで戻る事になる。
試合中、印達は青い顔のまま視線は盤面へ落としている。
時折、苦しそうに咳き込んでいるが、現状維持できているだけまだ良い。
問題は相対している大橋宗銀の方であった。
宗銀も時折咳き込んでおり、顔色も優れない。
それに、成長期の真っ只中のはずなのに、昨年より明らかに痩せている。
正座していること自体も辛そうだった。
そう、長い時間、向き合っている将棋の弊害で、宗銀にも労咳が感染していた。
印達に比べるとまだ軽度だが、適切な
つまり、病人二人の将棋である。
しかし、とてもそうとは思えない程二人は攻めっ気に溢れていたし、将棋の内容自体素晴らしい、若々しい才能の
そこに弱さなど欠片も見えない。
特に宗銀の手付きは荒々しかった。
宗銀の手付きは『せめて角香落ちに戻したい』という心の叫びが盤上に現れていた。
同じ段位なのに角落ちなんて
それに対し、印達は落ち着いて対処している。
金を前進させ、浮いている宗銀の飛車を
しかし、それは宗銀が攻め、印達が受けるという単純な構図ではない。
印達は受けながら、相手の攻め駒を攻めていたのだ。
その後、印達は金を上手く使う事で端に手を付け、と金作りに成功する。
相手陣地に入る事で、歩は金と同じ働きになる。
それがと金だ。
しかも、と金は相手に奪われても、歩としてしか使えない。
小判と小石を交換するような事が可能だから、『と金は金と同じで金以上』なんて格言が生まれたのだ。
その手を見て、宗銀は弱気になる。
角落ちの印達は初期配置の時点で角がない。
つまり、最初はそれだけ宗銀が優位なのだ。
しかし、宗銀から見れば、優位を維持できねば負けるという事でもある。
そして、往々にして人は優位な状況を畏れる。
自分から不利な状況を求めて安心しようとする事は別に珍しくない。
予め絶対に達成不可能な目標を掲げて、失敗しても仕方なかったと開き直る心理。
人は弱い生き物だ。
絶対に成功するなんて保証はないのだから予防線は仕方ない。
有利だから勝たねばならない。
不利だから負けても仕方ない。
これは表裏一体で、対等な状況でなければ全力を発揮できない人間もいる。
宗銀は印達のと金の進撃を見て、安心したがった。
そこで角を引いたのだ。
弱気が顔を出してしまったのだ。
それが
角を引いてからはもう宗銀の負け筋だった。
もちろん、将棋は最終盤で逆転が起こるものだ。
どうしても悪手は存在するという前提に立つと、最後に悪手を出してしまった者が負けるのが道理。
しかし、天才少年二人によるこの争い将棋において、最早優劣は決していた。
将棋では『信用』というものが勝負を決する事がある。
玄人同士の試合では完全に詰む前の段階で投了する。
将棋は自分から負けを認める競技なのだが、これは相手だったら間違えないだろうと
その『信用』は「この相手なら自分が読んでない手を放つかもしれない」という畏れにも繫がってくる。
事実、そこから一方的に印達の攻めは繫がり、百七手にて印達が勝利する。
終局後、二人は会話をしない。
「…………」
「…………」
ただお互いの顔を注視していた。
何度も顔を合わせてきたはずだが、ここまで視線が交差したのは初めてだったかもしれない。
倒すべき敵としてずっと想いを捧げてきたのに、まるで初対面のような表情で互いを見ている。
印達は
互いにそこで直感する。
――ああ、これが最後になるかもしれない。
事実、その直感は的中し、争い将棋はこれが最後になる。
全五十七局を指しての最終的な結果は次の通り。
平手で十八戦して、印達十四勝、宗銀四勝。
香落ちで二十九戦して、
角落ちで十戦して、上手の印達四勝、下手の宗銀六勝。
総計、印達三十六勝、宗銀二十一勝。
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