第3話 帰り道
江戸時代、将棋の家元としての職を奉ぜられていた三家があった。
すなわち、『大橋本家』、『大橋分家』、『伊藤家』である。
そもそも、
将棋の技芸・地位向上に大きく貢献したことが認められたのだ。
『大橋本家』に引き続き、
――とまぁ、そんな詳しい話を覚えておく必要はない。
将棋家元は親戚同士だったということだけ。
ただ、非常に密な繋がりがあったからこそ、さまざまな
そして、これが現代にも通じる、『将棋名人制』の始まりであった。
+++
伊藤家は
まだ自動車も電車も存在しない時代だ。
将棋家はさして裕福ではなかったので、
つまり、移動手段は基本的に
現千代田区永田町にあった井伊掃部頭別邸からはそれほど離れていないので問題なかった。
しかし、大橋本家は
両家の距離は地図上でおおよそ十キロメートルほども離れていた。
争い将棋は両対局者の家が使われる事もあったが、大体が互いの中間地点で行われたようである。
つまり、争い将棋の
これは十二の少年には辛い距離であろう。
老齢の宗印も辛かったはずだが、印達は健脚とは真逆の
全霊を込めた勝負の後で疲れているということもあるが、現在の印達は
ちなみに、大橋分家は伊藤家の隣であったが、勝負相手は大橋本家の宗銀だったのであまり関係はない。
「
印達は顔を
「ありがとうございます」
「だが、まだまだ修練せねばならぬ」
「はい」
「ただ、また明日も勝負がある。今日はこれで佳い。帰ってしっかり休もう」
「はい」
印達が短く頷くばかりだったのは、疲労のせいばかりではない。
魂を注いだ将棋に心がまだ奪われたままで、気持ちが浮ついていたからだった。
将棋の盤面が
あの時ああ指していたらどうなっていただろう……そんなことをどうしても考えてしまっていた。
実際、帰っても休める気はしない。
おそらく将棋盤を前にして、前半から中盤、終盤の入り口までどうしてあそこまで
そういう生き方しか印達はできなかった。
そして、宗印の言うように、争い将棋は明日も続けて行われる予定だった。
これは予定にないことだった。
元々、井伊大老は十局ほど若武者二人に指すよう要請しただけ。
そこまで密な予定ではなかった。
しかし、すぐ翌日に行われるのは、大橋本家からの要望である。
四世名人である大橋宗桂の
――明日も対局をするぞ。
いろいろと
負けが納得できない――ただ、それだけである。
誇りが何よりも大切な時代だったので
敗北という屈辱を宗銀も早急に拭うしかなかったのだ。
大橋本家の
伊藤家の若造には負けない――そういうことである。
しかし、やはり印達の顔色は明らかに悪い。
序盤からの劣勢を
心身ともに
明日は厳しい勝負になると印達自身既に覚悟していた。
印達の口から病人めいた咳が時折苦しそうに漏れる。
生来、印達はあまり身体の頑丈な方ではない。
大根のように生白いのは、部屋に
それは家業として必要だったことも、将棋の才能に恵まれすぎていたことも、将棋を愛しすぎてしまっていたこともあり、あらゆる点で印達にとって当然の日常。
その結果が、他の
比類なき
全てを将棋に捧げる生活をしてきたからこそ、十二歳にして五段の認可を受けることができたのだ。
息子の体調を
ただ歩調をやや緩めて態度で
印達は十二歳とまだ年若いが、その父親である宗印はかなりの老齢だ。
一説によると、宝永六年(一七〇九)の時点で六十五歳といわれている。
つまり、印達は
必ずしも正確とは限らないが、孫くらい年が離れていたことは確かなようだ。
それには宗印の生い立ち・経歴が関係している。
印達の父である宗印は
母方は
宋銀と同じように、宗印も将棋の腕を見込まれて初代伊藤宗看に引き取られているのだ。
だから、宗印は宗銀に対して同情する面もあった。
終盤、あれだけ必死に強手で応じたのは分かる。
逆転はあそこで冷静になれない状況のせいだ。
どうしても意地を張りたかったのだ。
いや、張るしかなかったのだ。
ちなみに、当時は養子として才能のある子を引き取ることは珍しい話ではない。
あらゆる家業のお家が、家を存続するために養子を取っていた時代である。
だから、宗銀が養子である事を引け目に感じたわけではない。
ただ、認められた己の才能を皆に知らしめたかっただけである。
むしろ、純粋に自分の実力と才能が認められたのだから、それは
宗印はそういう面もよく理解していた。
だからこそ、あの局面から勝ち切った息子の勇姿が誇らしくて仕方なかった。
「印達よ」
「はい」
「お前なら宗看の名を継ぐことができる」
「はい」
「この勝負を勝ち越せば、きっとそれに一歩近づくだろう」
「はい、父上」
宗印は宗看の名を継ぐことができなかった。
しかし、印達は違う。
ここまで才能のある子どもは、そうそう生まれるものではない。
三代伊藤宗看。
そう呼ばれるに相応しい天才こそが、伊藤印達だった。
大老の
それは命のやり取りに等しい、刀を用いない真剣勝負。
宗印は既に息子の勝ち越しを確信していた……。
「ちちうえ、あにうえ、おかえりなさい!」
二人が伊藤家に帰宅すると、幼い少年が出迎えてくれた。
息も絶え絶えに大きな声で出迎えるのは印達の弟の
まだよちよち歩きしかできないが、幼い顔を嬉しそうに綻ばせている。
宗印も思わず、顔が緩むのを理解する。
年を取ってできた、可愛いもう一人の息子だ。
まだ数えで四歳だから判断には早すぎるかもしれないが、長男である印達は既に同じ頃には将棋に強い興味を示していた。
比類なき天才ということではないかもしれない。
だが、将棋家として恥ずかしくない程度に強くなれば、それで構わない。
そういう生き方もある。
宗印は次男である印寿のことをそう温かく見守っていた。
……これは印達に対する期待の裏返しでもあった。
長男の圧倒的な才能を信じたからこその、次男への
「おつかれさまです」
印寿は頭を丁寧に下げ、そして、すぐに顔を上げながら言う。
「あにうえ! かちましたか!?」
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