第17話 うたた寝

 それは冬のある日のことである。


 伊藤宗印はうたた寝をしていた。

 そして、夢を見ていた。

 それは過去の光景である。


 名村立摩との練習将棋。

 印寿の御城将棋初出勤。


 それらは今から七年以上も昔の話。

 印寿との記憶――当然だが、将棋に付随ふずいした記憶である。


 宗印は印寿のことを、印達に比べて平凡な子だと勝手に考えていた。

 いや、半ば決めつけていたのだろう。

 しかし、それも仕方のない話。

 将棋にはろくな興味も示さず、棒切れを振り回していただけ。

 その評価がくつがえったのは、長男の印達が死去してからのち

 真剣に取り組む鬼気とした姿に加えて、着実に棋力を高める努力から周囲が評価していったのだ。


 ――そういえば、印達は印寿のことを随分ずいぶん高く評価していたな。


 もう十年以上昔に死んだ印達は、真なる天禀てんりんの持ち主であった。

 だから、弟の真の才能、実力を見抜けたのだろう。


 ――そういう意味でも自分は劣っていた。


 宗印は印達の言葉をまるで取り合わなかった。

 子どもの戯言ざれごととして捨て置いた……いや、違う。

 印達は優しい子どもだったから、兄のひいき目でしかないと思ってしまったのだ。

 名人のうつわというものがあるとしたら、印達は紛れもなくそなえていた。

 先入観と偏見で判断してしまう自分なんかとはまるで違っていた。


 ――そんなことはありません、


 奇妙な出来事が起きた。

 それは夢の中の話。自分のうちなる声のはずなのに、で響いていたからだ。


 ――印達、久しいな。

 ――はい、父上。印寿はとても強かったでしょう?

 ――そうだな。とても強い。お前は最初からあの才能を見抜いていたのか?

 ――いいえ、あそこまでとは考えておりませんでした。想像以上です。


 印達の声はどこか誇らしげであった。

 弟の成長を心より喜んでいるようで、その心根の優しさに宗印は嬉しくなる。

 そうだ、印達は優しくて強い子だったのだ。


 ――ただ、あそこまで強いのは良くないのかもしれません。

 ――ほう?

 ――破格の才能があり、不断の努力を続けている。素晴らしいことです。ですが、あの強さは鬼の強さです。

 ――鬼?

 ――はい、全てを壊しかねない強さ。それはいけません。


 印達の心配は理解できた。

 印寿は強さだけで将棋を指していた。

 それが懸念けねんになるのは宗印も同意見であり、理解できる。


 ――印寿の将棋に向き合う態度としては『義務感』でも構わないと思います。

 ――それは、仕事として覚悟を決めろ、という意味か?

 ――はい。そうであれば、冷静な判断が下せます。印寿は必要なことを適切に行える、立派な名人になるはずです。

 ――やはり印寿のことを一番評価しているのはお前なのだろうな。

 ――ですが、印寿には才能があり、圧倒的な強さがある。他人より圧倒的に優れているものを捨てることはできません。

 ――つまり、印寿が強さに溺れる、と?

 ――はい。印寿は強すぎるのです。


 そうなのかもしれない。

 宗印は何故か印達の言葉をすんなりと受け取った。

 自分の裡なる声というだけなのに……滑稽こっけいだ。。


 ――印寿は鬼のように強いからな。

 ――はい、鬼よりも強い僕の強さを証明するために将棋を指しています。


 そういえば、そんな軽口を聞いた覚えがある。

 もう随分昔の話であるが。


 ――印寿は将棋を憎んでいるのかもしれません。

 ――そんなことは……。


 ないとは言えない。

 勝利の喜びも、達成感もなく、ただ勝つ。

 それが印寿の将棋に向き合う態度であった。

 何の報酬ほうしゅうも得ずに最大限の結果を出し続ける――正に鬼の所業しょぎょうだ。


 ――僕がもっと一緒にいてあげられれば、そんなことはなかったと思います。

 ――それは違う。もし、それができていないとしたら、自分だ。名人に至った大橋宗印の責任だ。


 生きている人の仕事だ。

 死んだ人間の責任ではない、決して。


 印達は笑う。


 ――はい、そうですね。思い上がりでした。

 ――それに心配しすぎる必要もないさ。印寿なら大丈夫だろう。

 ――……何か根拠でも?


 ――だ。信じるに足る根拠だろう?


 印達は一瞬呆気にとられたようだが、すぐに腹をかかえて笑い出した。


 ――そうですね! 父上が正しいと思います。


 印達はそれからスッと消えていく。

 最後に明るい態度を崩さずに一言。


 ――それでは先に逝って待ってますね。


 宗印も同じくらい軽快に答える。


 ――ああ、すぐに追いかける。一緒に将棋を指そう。


   +++


 てつく風が吹き抜けて、印寿は身震いを一つした。

 手を擦り合わせて暖を取る。


 師走しわすというが、印寿も年末を目前にして忙しかった。

 疲労はあるが、それと同じくらい充実感もある。

 目的に向かって近づいている手応えも大きい。


 今日も外で腕を磨いていた印寿は、帰宅して宗印の様子を見に行く。

 老齢の父は食も細くなり、最近は寝てばかり。


 体の弱まった宗印は将棋を指す機会そのものが減少している。

 つい先日行われた御城将棋も印寿と宋民が指しただけだった。

 それに伴い、他の将棋家・囲碁家とさまざまな調整する役目も印寿が請け負うようになっている。

 印寿が外へ出るのは、刺激を求めてという意味もある。

 いつもと違う環境・違う相手との将棋は楽しい。

 弟子たちの将棋とは違うものを得ている感覚はなかなか貴重だった。


「親父殿ぉ。生きておるかぁ」


 そんな軽口を叩きながら印寿は宗印の寝室へ足を運ぶ。

 ふすまを開けて、そこで安らかに眠る父親の姿を見た。

 あまりにも静かだった。

 寝息も聞こえない。


「親父殿……?」


 まるで死んだように眠っていた。

 いや、まるで、ではなかった。

 眠るような穏やかに、宗印は息を引き取っていた。

 何か楽しい事でもあったかのような、柔らかい口元で死んでいた。


「…………」


 印寿は息を呑んで瞑目めいもくする。

 動けずに佇む。

 しばしの時間が静かに流れた。

 その場に軽く腰を落として、嗚呼と呻く。

 ヒューと細く高い音を漏らし、ため息混じりに呟く。

 しかし、涙は流さない。いや、流れない。

 彼が涙を流すのは、まだまだ先の話である。

 ただ、いたみの言葉をねぎらいで表現する。


「親父殿、ご苦労様だったぜ……」


 二代伊藤宗印こと鶴田玄庵は在野の達人だった。

 その腕を見込まれて伊藤家に婿養子として迎え入れられ、五世名人として『将棋勇略しょうぎゆうりゃく』と『ならず百番』の作物図式(詰将棋の作品集のこと)を徳川家へほうじた。

 正に将棋に生きて、将棋のための人生であった。


 享保八年(一七二三)十二月二日、死去。


 この時、伊藤印寿はまだ十八歳だった。

 三男の宗寿は九歳。

 四男の看恕は八歳。

 五男の政福に至ってはわずか四歳。


 印寿は義母との仲も良好ではなかった。

 更に、幼い異母弟三人を将棋家の人間として恥ずかしくないよう育てなければならなかった。


 あまりに若い印寿の当主就任は、順境じゅんきょうとは言い難い始まりであった。

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