第27話 詰将棋
伊藤家四男、伊藤看恕は詰将棋の創作が苦手だ。
正直、あまり好きではない。
いや、正確に表現すると『好きではなくなった』。
兄は真剣に詰将棋の創作に勤しんでいる。
名人就位を見据えて、万全の作品を仕上げようとしていた。
看恕は宗看のような人間になりたいと思っていた。
しかし、その一点。
詰将棋の創作に関してだけは真似しようと思えなかった。
食指が動かなかった理由は、何なのか?
自問自答の必要などなく、そんなことは自分でも分かっていた。
分からない振りをしているのは、認めたくなかったから。
決して宗看のようにはなれないという事実に直面するのが辛かったからだ。
創作の
それがどういう資質なのか分からないが、もしかしたら、生まれつき欠けているのかもしれない。
その反面、詰将棋を解くことは好きだった。
明白な答えがあるかどうか、という点が分かりやすかったからか。
不完全作品ではないか、余詰はないか、そういうことなら正誤の二択でしかない。
実際、解答能力に関していえば、かなりの実力を有している自信がある。
つまり、詰将棋そのものが嫌いなわけではない。
では、得意になれない原因は何なのか?
創作にはある種の美意識が求められていた。
正しいか、間違っているだけではない、いや、それよりも大切な事がある。
独自の世界観が、美しさを追求する心が必要なのだ。
忍耐と信念の先になるもの。
それは善し悪しや正誤、優劣など一言で片付けられない
看恕には今ひとつ理解できない世界だった。
+++
それはよく晴れたある日の事だった。
うつ伏せに寝転んだ政福が詰将棋を解いていた。
短い手足をパタパタとさせながら、鼻歌を歌いながら考えている。
やたらめったら楽しそうだ。
行儀の悪さを注意すべきか。
いや、その集中を邪魔するべきではない、と看恕は考える。
没頭している弟は微笑ましい。
しかし、それは本当だろうか。
政福は可愛い弟だ。
それは間違いのない事実である。
しかし、それ以上に、得体の知れない恐ろしさがあった。
そこに引け目を感じて注意できなかっただけではないのか?
将棋を指していてもまだあらゆる点で拙い。
看恕は現時点では負ける事がほとんどない。
だが、終盤で稀に恐ろしいほどの鋭さを見せる事があるのだ。
それは喜ばしい事であり、恐れるような事ではない。
ただ、政福は負けても全く泣かなかった。
兄の宋寿も看恕自身も将棋に負けると泣いていたのに弟は違った。
悔しさを堪えているわけでも、敗北から目を逸らしているわけでもない。
勝っても負けても楽しそうに「どうすれば勝てたのか」を純粋に追い求めている姿は異様だった。
将棋は楽しいものであり、怒ったり悲しんだりするようなものではないとばかりに安定している。
弟のそういう性格が看恕は恐ろしかった。
必死に努力する人間からすれば、努力に苦痛が伴わない人間は得体の知れない怪物に見えるものだ。
政福は楽しそうにしていたが、観察する看恕に気づくと更に破顔した。
「看恕兄、いらっしゃったのですか」
「ああ、ずいぶんと楽しそうだな」
「はい……あ!」
そこで自分の体勢を思い出したのか、恥ずかしそうに飛び起きて座り直す。
慌てて
「一体、何を解いていたんだ」
「詰将棋です」
「いや、それは分かるが、誰のだいって、兄上の作品に決まっているか。まだ
「はい、とても素晴らしいものです」
「それは兄上が創ったのだからね。ん? 解けないのかい」
「いいえ、解けましたよ」
「それなら何を考えていたんだい?」
「はい、どうすればもっと美しくなるかを考えていました」
美しい……その言葉に看恕は怯む。
あまりにもそれは難しいことだからだ。
恥を忍んで弟に質問する。
「ひとつ教えて欲しいんだが」
「はい?」
「美しさと正しさが違う時ってあるよな、そういう時って――」
「ありません」
断言だった。
「え」
「美しい時に正しいのです」
そして、迷いのない瞳だった。
政福は自分の言葉を全く疑っていないようだ。
どうしてそんな事を疑問に思っているのだろう、と不思議そうにしている政福が理解できない。
看恕が言葉を失っていると、宗看がやって来た。
「おう、どうした、二人共」
政福は目を輝かせる。
「はい! 兄上。兄上の作図を推敲しておりました!」
宗看は即座に応じる。
「ふむ、どう見る?」
「はい、面白いと思いました! ですが、完璧だとは云えません」
「どういう意味だ?」
「はい、この作品は初形が美しくありません」
「その心は?」
「はい、最初の形が、これでは可哀想です」
「可哀想とはどういう意味だ?」
「えっと、この図はもう少し無駄が多いと思うのです」
「具体的に続けてくれ」
「兄上が考案した
「ああ、そうだろう。玉と馬が離れていくのは美しいだろう」
「ですから、この初形が惜しいと思いました」
そこで宗看は何かに気づいたように表情を変えた。
そして、楽しそうに訊ねる。
「もっと具体的に。解るように言葉にしてくれ」
「はい、同馬と取らせるための趣向だとは分かるのですが、この位置に桂馬があるのがいただけません。こちらに置いた方が作意は伝わると思うのです」
「ふむ、それだと手順が変更になるのか」
「はい、桂馬を二つ先に取る事になります」
「……なるほど、だから、初形が可哀想か……」
「はい」
「吟味しないと分からないが、参考にさせてもらうよ」
「絶対に変更した方が美しいのです」
看恕の理解できない領域の会話。
いや、説明されれば理解できるのかもしれないが、自分から生まれる事はない次元の会話に目の前が暗くなる。
幕府の儒者・大学頭である林信充はこう記している。
――
宗看恐愕して、非常の児たるを知るなり……。
一言で説明すると『宗看は政福の才能に驚愕した』である。
政福の指摘の傍で看恕は慄えていた。
宗看の横顔が喜色に溢れていたからだ。
嬉しくて仕方ないとばかりに、鬼のように笑っている。
指摘されたことが嬉しくて仕方ないようだ。
看恕はそれが恐ろしい。
どうしてこんな表情になるのか理解できない。
不十分だと指摘されて、自分よりも遥かに年少の弟に指摘されて喜べる感覚が分からない。
矜持が邪魔しないのか、としか思えない。
宗看は恐ろしく強い。
本当に鬼のように強いのだ。
しかし、弟の、政福の天才性はそれさえも凌ぐかもしれなかった。
今のやり取りはそれを表していた。
自分を凌ぐような才能の出現に喜ぶ理由が、看恕には全く理解できない。
勝負師は自分が一番である。
そういう生き物のはずなのだ。
なのに、自分を脅かす存在を喜ぶ理由が分からず、看恕は震える。
その兄の達観ぶりも、弟の天性の才能も恐ろしくて、看恕はただ震える。
伊藤家五男、政福。
その本名は、伊藤看寿政福。
後の世で、詰将棋の
+++
その時、宗看が感じていたことは
――金棒だ。
だった。
とても素晴らしい金棒を手に入れた気分だったのだ。
それは自分を超えるほど素晴らしいものだからこその
だから、宗看は鬼のように笑っていた……。
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