第26話 内調べ

 その日、享保十年(一七二五)十一月十七日に披露する将棋を指すため、大橋宋民は伊藤家へと足を運んでいた。

 そう時間短縮のために生まれた『内調べ』である。


 名人である父の宋与は体調不良で休み。

 やはり、七十八歳にもなると老衰ろうすいの色が濃くなり、起き上がれない朝も目立って多くなっている。

 宗民は将棋所としての仕事を代行することも多い。

 これは前代の宗与名人の際の宗看のような立場というだけで別に変な話ではない。

 玄関で出向かてくれたのは意外な顔だった。


「宋民殿、お待ちしておりましたっ」


 父と大橋宋寿との対局はなくなったはずだった。

 だが、何故かその場には宋寿が既に待っていた。

 まだ幼い顔の大橋家当主は、頬を紅潮させている。

 興奮の理由は――これから行われる『内調べ』への期待だろう。


「……本日、宋寿殿の『内調べ』は取りやめということになったはずでは?」

「はい、兄上……いえ、宗看殿と宗民殿の対局を見学させて貰おうと思い、参りました」


 まだ大橋宋寿は十二歳である。

 つい先日まで伊藤宋寿だった少年は、大橋家の人間になったばかり。

 伊藤家生まれであるために、やはりまだ自分の家という意識が抜け切っていないようだった。


 しかし、それはそれとして、宗民は宋寿を大橋家当主として尊重する立場は崩さない。

 これは宗看も徹底しているはずだ。

 相手を尊敬することで得られる成長もある。

 少なくとも、軽んじて良い面はない。


 ただ、その時の宗民には宋寿のことをそれ以上考える余裕がなかった。

 今から御城将棋で披露ひろうするための将棋を宗看と指さねばならないのだから、余計なことなど考えてはいられない。

 どうすれば勝てるか――とそんな考えばかりが心を支配していた。


「宗看殿は?」

「はい、宋看殿は奥でお待ちです」


 つまり、準備は万端ということだ。

 宋寿の先導についていき、宋看の待つ部屋へ。

 宋看は上座で静かに待っていた。

 宗民はその凛とした態度に一瞬言葉を失う。

 宋寿が楽しげな口調で言う。


「宗看殿、宋民殿が参られましたよ」

「……ああ、宋民殿。すまない、もう来られましたか。宋寿殿もご苦労様でした」

「いえいえ、そんな。私から出迎えに参ったのですから」


 普段の宗看とはやはり何もかもが違う。

 居住まいを正し、はかまにはしわ一つなく、品の良さがにじみ出ている。

 体格の良い宗看がそういう態度を取ると、普段以上の威圧感を放っている。


 いや、と宗民は思い直す。

 普段の無頼ぶらいを装っている方がおかしいのだ。

 本質的にはこれが、これこそが宗看なのだ。

 無理しているわけではないのだろうが、こういう姿の方がに落ちる。

 怪しげな店に出入りしたり放埒ほうらつな振る舞いをしたりも、彼なりの深遠な考えがあってのことなのだろう。

 その考え全ては、宗民では見通せない。

 理解不能な部分が恐ろしかった。


「お疲れでしょう。少し休んでから始めましょう」

「お心遣いありがとうございます」

「甘いものとお茶くらいは用意していますが」

「それではお茶を」

「饅頭は?」

「……いえ、今は」


 正直、喉を通らない。

 そうですか、と宗看は少し寂しそうだ。


 そういえば、鬼宗看なんて呼ばれ始めているくせに、この男は甘党だった。

 基本的に酒をたしなまない。

 御城将棋でも口にしない。

 その代わりとばかりに、甘い饅頭まんじゅうや団子を好んでいた。

 別に酒に弱いということもないはずだ。

 そういえば、宗看の兄である印達は一度御城将棋で醜態しゅうたいを晒したという話を聞いたことがあった。

 その辺りに理由があるのかもしれないが――宗民には分からなかった。


 その時、宗民は気づいた。

 部屋の隅には既に一人の少年が折り目正しく座っている。

 四男の看恕だ。

 宗民の視線を受けて「勉強させていただきます」と頭を下げる。

 彼も非常に才能豊かで、最近は大橋宋寿とも互角以上に指せるようになっているという。

 厳しい変化にも踏み込んでいく、勝負師らしい勝ち気さを持ち合わせている。

 三男の宋寿が真面目な努力家ということを考えると、本当に良い意味での好敵手こうてきしゅとして成長していた。

 年齢的にも将来はこの二人が御城将棋で腕を競い合うに違いない。


 その後、茶坊主をしてくれた五男の政福も同じように着座し、頭を下げた。

 礼儀としてお茶で口をうるおしてから、宗民は「ありがとう」と感謝を述べる。

 政福は嬉しそうに顔をほころばせている。

 宋寿を含めて、三人の少年たちが並んだところを何気なく見ていると、


「末弟の政福も、一丁前に作物図式の講評をするようになりましたよ」


 宗看はそう言って笑った。


「しかも、中々手厳しい」

「ほう、宗看殿がそう言うとは……大したものですね」

「ああ、本当に」


 話題に上った政福は照れ笑いを浮かべてはにかんでいる。

 この末弟は勝負師の家系に生まれたとは思えないほどほがらかだった。

 勝負に負けても笑っているような悪癖あくへきを持つが、才能豊かなのは疑いようもない。

 宗看でも身内褒めをするのだな、と宗民は意外な思いだった。

 宗民も政福の非凡さは知っていたが、まさか七歳の少年が、宗看を瞠目どうもくさせるほど見事な講評をしたなんて、その時には想像もできなかった。

 人心地ついた宗民は言う。


「そろそろ始めましょうか」

「ああ、よろしくお願いいたします」


 先手は宗看になった。

 今年はお互いに居飛車の作戦になる。

 淡々と互いの陣形を組み、宗看が五筋の歩を突いたので宋民も突き返す。


 ――五筋を突き合う形は江戸時代では常識であった。


 いや、この将棋の鉄則ともいえる『中央の位を取る』という形は、昭和十年代まで重視されていた。

 つまり、二百年以上変わらなかったのである。

 むしろ、これに反すると、師匠に「破門するぞ」と脅されることも珍しくないくらい当然の手だったのだ。

 中央を制圧して指すのが将棋の王道だと思われていた時代の指し方である。

 現代将棋と一番の違いは速度感覚だという。

 隙あらば戦いが始まる現代とは違い、駒組みが完成するまで戦いは始まらない。閑話休題。


 先手の宗看は金矢倉の形に、後手の宋民は雁木がんぎの形に組み上がる。

 陣形整備が終わった。

 そして、戦いが始まる。


 宗民が首のりを解すために顔を上げると、三人の兄弟は身動みじろぎもせずに盤面を見ていた。

 行儀が良いというよりも、これからどうなるのだろうと目を輝かせて動くことも忘れているようだ。

 中々将来が期待できて可愛らしいが、局面は微笑ましいどころではなかった。

 本格的に駒がぶつかり始める。

 宗看が銀と飛車を動かして、三筋から攻めてきた。

 宋民も角を一筋から出る事ができるので反撃する手段はある。

 これに宗看が気づかないわけがないので、つまりは罠だ。

 だから、他にも手段を考える必要があった。

 先手の攻めを受けてから、反撃に出るためにどうすれば良いか。


 やはり飛車の力のある八筋。

 桂馬を動かしての七筋からか。

 いや、六筋だ!


 宗看が端の歩を突いた様子見の一手に対して、宋民は六筋の歩を突いて攻めに出た。

 桂馬も跳ね、銀を交換してから七筋の歩も突いて攻めを繋げようとする。

 宗看は宗民の攻めに対して、攻め合いで応じてきた。

 それは激しい将棋であった。

 いや、この時代は受けて勝つという技術が未達だったから自然な攻め合いだった。


 攻め合いの結果、宋民は確かな手応えを感じていた。

 不思議なくらい想定通りの局面に進んでいる。

 やや自分の方が良い。

 このままいけば勝てるかもしれない。


 勝ちを意識した瞬間、宗民は頭の中が真っ白になった。

 勝てるかもしれないという期待は、毒のように手足の先を重たくする。

 今まで宋民はほとんど宗看に勝てていなかった。

 そもそも、宗看はあらゆる相手にほとんど負けていない。

 宋民だって勝利したことが一度もないわけではないが、数えられるほどでしかない。

 逆に、苦汁くじゅうめた回数は数えられないほどだった。


 宗看は現在二十歳。

 つまり、十七歳の宋民の三歳上というだけ。

 段位は今年に入ってから共に六段へ昇段している。

 実績を考えれば、年齢では言い訳できない程の実力差があった。

 同じ段位なのは名人である父の意向が大きかったから。


 ――名人になる為には宗看を超えねばならない。


 実力差はあるが、自分が六段として相応しくないとは思っていない。

 どちらかといえば、宗看の段位が不当に低すぎるだけなのだ。

 それくらい傑出けっしゅつした実力だったのである。

 しかし、宗看の実力は存分に認めつつも、それでは駄目なのだと宗民は思う。

 格上相手でも将棋で負けることは――背筋が凍り、はらわたが煮えくり返る程に悔しいのだ。


 勝ちたい。

 この一局はどうしても勝ちたい。


 時間はたっぷりあるのだから、慎重にこの有利を拡大していきたい。

 宋民は桂馬を取られるが、まだ僅差きんさでこちらが有利だと見ていた。

 銀を急所に打ち込む。

 ここで宗看の指せる手は、銀を打って受けるくらいだろう。

 宗民は確信する。


 この攻めは繫がる!

 勝てる!


 宗看も劣勢を感じ取ったのか、手が止まった。

 刻々こくこくと時間が過ぎる。

 手を止めて考えているが、他にどんな手があるのか。


 8五に銀か。

 いや、3三に銀を打ち込んで攻め合うか。


 それくらいしか手段はないはずだが、さて、宗看はどれを選ぶのか。

 どちらにせよ、宗民の形勢が良い事は間違いない。

 勝利は目前まで迫っていた。


 宗看はずいぶんと長いこと考えていたようだったが、実際は宗民がそう感じただけでそれほどでもなかったのだろう。

 次の手が気になって、宋民の気が急いて長く感じただけだ。


 宗看は「ふむ」と呟いて、軽い手つきで駒台の駒を打ち込んだ。

 それは桂馬だった。

 そして、3五の位置に打ち込んでいた。

 3五桂打ち。

 宗看の指したそれは、宋民が全く考えていない手だった。


 空白。


「え」と思わず声が漏れた。

 いやいや、この手で勝てるというのか。

 攻め合いで活路かつろを見出すのは分かる。

 だが、この手はいかにも受かりそうな手なのだ。

 宗民の第一感は『上手くいかない』と叫んでいる。


 試しに、宋民は一つひとつ変化を読んでみた。

 読んでみた……。


 ぽたり、ぽたりと脂汗が畳にシミを作る。

 熟慮の結果、宗民は絶望する。

 攻めると駒を渡して後手の宋民が詰むし、このまま攻め続けても銀や角などの斜め駒がないので先手の宗看は詰まない。


 つまり、この状況では受けても攻めても宋民が負ける。

 先程まで自分の方がやや良いと思っていたのに、それが勘違いだったと突きつけられていたのだ。

 読みの全否定。

 頭をぶん殴られるどころではない。

 それはとてつもなく衝撃的で、絶望的なことだった。


 頭の中がかき回されるような心情から、宋民は天井を仰ぐ。


 ――もう投げるか。


 だがしかし、宗看が読み切っているとは限らないのだ。

 そもそも、ここで負けと読んだ自分も正解とは限らないのだ。

 まだ他に手があるかもしれない。

 宗民は必死になって勝ち筋を読むが、絶望感は増すばかりだった。

 負けを長引かせる手は潔くないが、それくらいしか見えない。

 そこで横目に見えたのは、


 真剣な面持ちの大橋宋寿、

 難しい顔の看恕、

 呑気な様子で欠伸を噛み殺す政福の三人だった。


 政福はさすがに幼くて飽きたかと思ったが、


 ――しっかり見なさい、政福。

 ――こら、政福。ここが大事なところじゃないか。


 兄二人に対し、口を尖らせて政福は小声で反論する。


 ――ですが、もう兄上の勝ちですよ。


「                      」


 その言葉で、宗民の思考が空白で塗り潰される。

 まさか。

 そんな莫迦ばかな。

 この子も読み切ったというのか!


 この幼さでそこまで読めるわけがない。

 実際、二人の兄は分かっていないようだ。

 それはおかしなことではない。

 偶然だろう、と信じたい。

 気が散ってしまっている。

 目の前に座る宗看は盤上に没頭している。


 敗北を悟り、ここで集中力を欠いてしまっている自分は――非常に辛い。


 負けたくない。

 ここで負けたら名人が遠のく。

 しかし、金輪際こんりんざい勝てないと叩き潰されている気分だった。

 父には次の名人は貴様なのだ、と期待されているのだ。

 心をふるわせるが、理性的な部分が敗北を認めていた。

 それは甘い誘惑だった。

 投了は悔しいことだが、同時に楽へと繫がる道でもある。

 敗北の中、必死に足掻あがくのは精神的な苦痛が伴うのだから……。

 それでも諦めきれないもののために宗民は手を動かす。

 心を折らないよう、あらがいながら最後まで考える。


 宗民は何とか続きを指すが――正直、勝てると思って指していなかった。

 相手の失策を願って指しているだけだった。

 そして、誰の目から見ても明らかに宋民の負けの局面にまで来て、頭を下げる。


「負けました」


 百一手で宗看の勝利。


 宋民に才能がなかったというわけではない。

 この3五桂馬があまりにも絶妙手だっただけである。


 事実、後世に残されているこの棋譜を解説した大山康晴十五世名人も絶賛している。

 曰く、天才の一着だ――と。

 現代の天才と呼ばれる棋士達も、


(佐藤康光)

「この終盤の切れ味は恐ろしいですね」


(森内俊之)

「少なくとも私より強い」


(谷川浩司)

「読みきってこの手順を指したとしたら、間違いなく現代でもトップの終盤力です」


(羽生善治)

「すごい切れ味ですね。自分ならこの局面は受ける手しか考えられない」


 等々、称賛の声を上げている。

(『イメージと読みの将棋観』鈴木宏彦 日本将棋連盟 二〇〇八年 『テーマ・鬼宗看の妙手』より 敬称略)


 終盤力という点で宗看は正に怪物であった。


   +++


 宗民が項垂うなだれたまま動けなくなっているのを、宗看は見下ろして呟く。

 それは誰にも聞こえないように、口の中だけでの呟きだった。


 ――勝った。


 それはこの一局という意味ではない。

 完全に心を折ることに成功したことに対して宗看は――鬼のようにわらった。

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