第30話 八重

 あんなに可愛かったのに!

 人懐っこくて、とても可愛らしく笑う男の子だったのに!


 それが今では三代伊藤宗看。

 立派に成長したのは分かる。

 ただ、鬼宗看なんてあだ名で、恐れられているのが信じられない。

 本当に、可愛らしい子だったのに!


 ――が、元『印寿ちゃん』を見た八重の素直な感想だった。


 久しぶりの再会は驚愕に彩られていた。

 そもそも、再会できるなんて思っていなかった。


 父の弥七が博打で負け、伊藤家の家守を辞めることになった。

 夜逃げ同然でろくに挨拶もできなかった。

 別に八重がなにか悪いことをしたわけではないが、やはり会うことはできなかった。

 正直、合わせる顔がなかったのだ。


 印達くんが死んだ後、印寿ちゃんが死ぬほど努力していたという話は風のうわさに聞いていた。

 会えなかったのは八重の方も生きることに必死だったから。

 弥七は棒手振ぼてふりとして再起しようとしたが、すぐに体を壊してしまった。

 それを支えるために八重は必死に働いた。

 しかし、それも長くは続かなかった。

 父が流行り病で逝ってしまったからだ。


 八重の負担は減ったが、呆然としながら生きていた。

 幸いにも良い奉公先を見つけて、それなりに幸せに生きていくことができた。

 その際に出会った人と子を作ったが――子どもが生まれてすぐに逃げられてしまった。

 一年ほど待っていたが、帰ってこなかった。

 どうやら借金を払うために佐渡に渡って、事故で亡くなったらしい。

 

 幼子を抱えて途方に暮れていた時に出会ったのが市十郎だった。

 市十郎は元々まともに働いていなかった。

 しかし、八重にお金をタカったりしなかったし、それどころか、家計を支えてくれていた。

 ただ、そのお金もほとんどは将棋で稼いでいたようだ。


 将棋。

 その遊戯に対しては八重は思うことがあった。

 昔好きだった人が大切にしてきたもの。

 父が破滅した原因となったもの。


 良いとか悪いとかではない。

 重いものだった。

 そして、重さと同じくらい懐かしいものだった。

 懐かしさにこんな重みがあるなんて知らなかった。


 そして、今。

 市十郎と番になり、伊藤家の家守として安定した生活の結果――八重は幸せと言っても問題ないものを手に入れていた。


   +++


「やぁ、八重さん。元気かい」

「はい、宗看さん。おかげさまで」

「市十郎はいるかい?」

「あ、こやしを売りに出ていますよ。多分、もう少ししたら帰ってくると思いますけど、待たれますか?」

「……んー、じゃあ、そうするよ」


 その日、宗看はお土産を片手に八重たちのところにやってきた。

 お土産はお饅頭だった。

 甘いもの好きな一面は子どもの頃から変わっていない。


「ありがとうございます。早速お茶を淹れますね。一緒に食べましょ」

「あー、それは家族で食ってくれ。俺はもう食ってきたから大丈夫だ」

「一緒に食べた方が美味しいですよ。一茶もそうだよね?」


 幼い娘に話しかけるが、寝息を立てていた。

 こちらに背を向けている。


「あらあら、さっきまで起きていたんですけど」

「一茶ちゃん、俺が来る時、いつも寝ている気がするよ」

「そうですか?」

「寝る子は育つって言うしな。政福とあんまり年に差はないか」

「いいえ、看恕ちゃんの一つ下ですよ」

「そうなのか。寝顔のせいかやけに幼く見えるよ」

「伊藤家の方々が大人びているだけですよ」


 年齢に比して、一番幼かったのは目の前の男だった。

 印寿ちゃんは本当に無邪気で可愛らしい子どもだった。

 全面的に兄である印達のことを信頼し、何も考えてないような顔で、楽しそうに棒切れを振り回していた。

 そう考えると、今の三人の弟たちは生真面目で大人だった。


「前から聞きたかったことがあるんですよ」

「なんだい」

「宗看さんはどうしてうちの旦那を家守にしたの?」


 宗看は困ったように頭を掻く。


「言葉にする必要あるかい? 実際、俺の目は間違っていなかっただろ。市十郎は俺の想定以上に働いてくれている」

「ええ、あの人は働き者ですからね」


 市十郎は隻腕であることを差し引いても十分有能だった。

 働くことが、誰かに必要とされることが楽しくて仕方がないのだろう。

 あまり昔の話は聞いたことがないが、育ち自体が良いのだと思う。

 そこからああまで落ちていたのはいろいろとあったのだろう。

 夫婦だからと立ち入れない話もあった。


「ま、八重さんがいるからそれなりに任せられるだろうって目論見もくろみがなかったわけじゃないがね」

「そうですよね」


 発想が逆なのだろう。

 市十郎が有能だったのは棚から牡丹餅ぼたもち

 自分たちの暮らしを助けてくれた、それが先だったのだろう。


「……まぁ、そんなことはどうでも良いじゃないか」


 宗看はごまかすように「饅頭食おうぜ。市十郎が帰ってくる前に。一茶ちゃんが起きる前に」と先ほどと違うことを言っている。

 しかし、人間なんてそんなものなのだろう。

 矛盾した言動に振り回され、言葉にならない感情を抱えても――生きていくしかない。


「なら、もう一つ気になっていることを教えてくれない?」

「答えられることならね」

「宗看さん、『鬼』なんてあざなをつけられて、一体、どうなりたいの?」


 それを聞くかね、と宗看は苦笑する。

 答えたくないなら良いですよ、と八重は柔らかく言う。

 しばし悩んだ末に宗看は口を開く。


「八重さんだから教えるよ。市十郎にも言わんでくれよ」

「ええ、約束します」

「まずは将棋家をどうにかする必要があった」

「どうにかって?」

「とにかく、旧態依然きゅうたいいぜんとしていたからね。一から立て直そうと思ったんだよ」


 確かに記憶の中では、将棋家の人間たちはかなり年配で構成されていた気がする。

 もちろん、直接面識があったのは宗看たちの父である宗印くらいだったが、話には聞いていた。

 変わらなかったのではなく、変えられなかっただけなのだろう。


「ま、放っておけば、すぐに死んでしまうとはいえ、あまり悪い影響を受けてもらっても困るんでね。俺は親父殿が死んだ後、現在の宗与名人に対して徹底的に反抗することにしたんだ」

「何故、そんなことを……」

。それをうちの弟たちにも理解して欲しくてね」


 悪ぶっているのも、全て計算の上だったのか。

 それは宗看らしいと思った。


「で、大橋家の宗桂殿は全くやる気がなかったから致仕してもらった。代わりにうちの三男の宋寿を送り込んだ。あいつは真面目で向上心もある。任せられると思ったからな」

「それでは、たまにお話に出る宗民さんは……?」

「宗民は俺との実力差を理解させるだけで十分だったよ。これであいつは俺に逆らうことができないだろ」


 先達が絶対的に正しいわけではないと言っているのに、自分の正しさを疑っていない様子に、八重は少し空恐ろしいものを感じた。


「一体、そこまでして何がしたいんです?」

「簡単に言えば、将棋家の掌握しょうあく。それも目的のための手段でしかないけど」

「名人になることが目的ではなくて、一体、どうなりたいんですか?」


 将棋家の掌握自体はほぼ完了しているようだ。

 その結果、もう間もなく、名人に就任するのは間違いない。

 しかし、名人は将棋において最高の称号ではないのか?

 では、それさえも目的のための手段だとしたら、一体、何を目指しているのだろうか?


「笑わないなら言うけどさ」

「笑いませんよ」

「え?」


 笑うことはなかったが、耳を疑った。

 しかし、宗看は淡々と続ける。


「英雄、天下無敵、無双……なんでも良いけどね。俺は将棋の世界で伝説的な存在になる。今までの名人とも一線を画す存在――だから、名人さえも手段でしかない。


 伊藤一刀斎のようにね、と宗看は同姓の剣豪の名前を口にする。


「どうしてそこまで……」

「そうすることで、俺はね、兄さんの名前も残したいんだ」


 その時の宗看の表情は子どもの頃に見たものとよく似ていた。

 しかし、決定的に何かが違っていた。


「『鬼宗看』の兄はとても強かった。ってね」

「そこまでして……」

「それがなければ、俺はここまで将棋が強くなれなかったよ」

「……どういう意味?」


「え?」


 ――宗看はそう口にした。


「その憎しみをかてにすることで、俺は努力できたんだよ」

「そ、そんな……」

「ま、元から天禀てんりんに恵まれていた部分も否定はしないけどな」


 八重はめまいを覚えていた。

 印寿ちゃんだった頃とは異なり、将棋が好きになっていると思っていた。

 実際、鬼という字を得るくらい強くなっているのだから。

 それなのに、好きでもないものに対して、そこまで頑張れた執念が恐ろしかった。

 先程感じた、子供の頃の表情との違いをそこで理解する。


 それは氷のような情念。

 酷薄さを下敷きにした信念があったからだ。


「そんなの……辛いだけでしょ」

「そうでもない。将棋家の人間として強くあることは必要だった。それに幸運にも、俺が最強になれる根拠がもう一つできた」

「根拠?」

「政福だ」

「末っ子の?」

「ああ、あれは天才だ。おそらくは俺や兄上さえも超えている」

「そうなの?」

「ああ、あいつを上手く手伝わせることで、俺の創る献上図式は今までにないものになるだろう。正に金棒を手に入れた気分だよ」


 そのあたりの根拠は分からない。

 実際的な技術面の話は分からない。


 ただ、弟さえも手段のように扱う。

 それは鬼の思考である。


 そして、一つだけ気づいたことがあった。


 多分、宗看をこうさせてしまった理由のひとつは――八重のせいでもあった。

 それは考えての結論ではない。

 直感によるもの。

 だから、八重は訊ねる。


「……なにか私にできることがないの?」


 何も、と宗看は首を横に振る。


「ただ、幸せに生きてくれれば良いさ」


   +++


 それは宗看が市十郎とどこかへ連れ立って行ってからのお話。


「あら、一茶起きたの」

「かあさま、あの人」

「あの人? あ、宗看さんのこと? 起きていたの?」

「うん」

「宗看さんがどうかしたの?」


「あたしは、あのひとがキライです」


 八重は娘の嫌そうな顔を見て、思わず笑い出した。


「かあさま?」

「ええ、嫌いですか。それは良いわね」

「?」

「いつか直接そう言ってあげなさいね」

「はい」




 第二部『支配編』了

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