第10話 春の日差し

 春の日差しが印達をつつんでいる。


 温かい。

 そして、心地よい。


 印達は縁側で本をりながら、一つ頷いて、横に置いた将棋盤の駒を動かす。

 外界と切り離されたように静かで、駒音と衣擦きぬずれの音以外はひたすらに遠い。


 印達は自宅にて療養りょうようしていた。

 将棋の勉強は続けていたが、それは書物の図式などを並べてみる勉強方法で、実戦からは遠ざかっていた。

 労咳ろうがいは伝染するので、快癒かいゆするまでは人との対局を禁じられていたのだ。

 休んだおかげで心身ともに回復し、印達の顔色も悪くはない。


 その時、印達が勉強に使っていたのは『象戯綱目しょうぎこうもく』と呼ばれる美濃形みのがた五巻の書き物である。


 第一巻は隊伍(駒組み)。

 第二・三巻は奇戦(実戦譜)。

 第四・五巻は図式(詰将棋集)という内容だ。

 それぞれ整理され、かなり詳しく踏み込んだ内容が書かれている。


 印達はその本を読み込み、駒を並べて考える事で作者の苦心と強さを理解する。

 この中でも、元禄時代に活躍した盲人棋客もうじんきかくの将棋にいたく感心していた。


山崎匂当やまさきこうとうか……」


 強いのである。

 もう亡くなっているが、石田検校いしだけんぎょうもかなりの腕前うでまえだ。


 ちなみに、検校も勾当も目の見えない人の役職名であり、名前ではない。


 目が見えないという事は将棋においてもやはり不利になる。

 まず、盤上を一瞥いちべつで把握できない。

 これは想像以上に厳しい足枷あしかせである。

 そもそも、駒の配置をずっと覚えておかなければならないのだ。

 盤面だけではなく、自分の持ち駒も、相手の持ち駒も全て。

 記憶しながら、次の一手を考えなければならない。

 これらは相当厳しい条件になる。


 しかし、山崎匂当も石田検校も目が見えないということが問題になっていないように強い。

 これは素晴らしいことであった。

 才気を感じさせる手があちらこちらで見られ、印達にとっても非常に勉強になる。


 そして、それは印達に将棋という世界の、無限の広がりを感じさせるものだった。

 目など見えずとも、将棋はどこまでも強くなれる。

 それは病床びょうしょうに伏せるしかない自分でも、まだまだ上達する事を示しているようであり、勇気づけられた。


 しかも、残された棋譜は将棋という文化が有る限り未来永劫みらいえいごう残っていくのだ。

 こんなに素晴らしい事はない。


 余談であるが、石田検校が考案したとされる『石田流』と呼ばれる戦法は、現代でも使用されている。

 もちろん、その間の棋士が創意工夫そういくふうらしさまざまな点で進化しているが、根底こんていに戦法としての優秀さがあったから伝えられたのであろう。


 印達は将棋の勉強を無心むしんでしていたが、ふとした瞬間に心がとらわれそうになる。

 それは病魔びょうまよりも邪魔じゃまな考えだった。


 それは


 角落ちの上手うわてとはいえ、第五十四番は負けていたのだ。

 敗北した事を思い出すと、悔しさがこみ上げてくる。

 一刻いっこくも早く恥をそそぐ必要があった。


 休んでいるだけでは駄目なのである。

 体調を戻す事と上達する事は同じくらい重要な事だった。

 意地でも両立せねばならない。

 印達が己の心の刃を研いでいた、その時だった。


「印達君、いますか?」


 女性の声が聞こえてきた。

 いや、それは少女の声だった。

 幻聴かと思ったのは、たまに――いや、頻繁ひんぱんにその声を夢想むそうするからだ。


「おやまぁ、無視ですか?」

「え?」

「ひどい人ですねぇ」

「は?」


 しかし、信じ難い事に幽霊でも幻覚でもなく、両足のある人間が眼の前にいた。


「や、八重さん?」

「はいはい、こんにちは」

「こ、こんにちは」


 どうしてこんなところに、と印達は思う。

 印達は密かに懸想けそうしていた。

 もちろん、八重にである。

 柔らかい笑顔も、ほがらかな人柄も好ましい。

 正直、将棋と同じくらい好きだった。

 これは彼にとって最大級の賛辞である。


 ちなみに、印達が八重のことを好きなのは印寿すら知っている、周知の事実であったが、まぁ、それはそれ。

 密かだと思いたいくらいの見栄は、十三歳の少年にも当たり前にある。

 事実、どこか鈍感な八重も気づいてはいない。


 ところで、印達が年上女性に弱いのは、母を早くに亡くしているからだった。

 印寿を産んだ際に、その引き換えに命を落としたのだ。


 父宗印の現在の妻であるイネは所謂いわゆる後妻ごさいだ。

 イネの場合は逆であった。

 子供を死産して離縁されたばかりで、印寿の乳母として伊藤家に雇われたのだ。

 それなのに、いつの間にか宗印と夫婦めおとの仲になってしまったのだから、男女の関係とは真に複雑怪奇ふくざつかいきである。


 しかし、理由がないわけではない。

 耳順じじゅんをとうに超えた宗印が自分の年齢の半分にも満たない娘のような女性と再婚するというのは、単純に寂しかっただけではないだろう。


 まだ子供が欲しかったからだ。

 印達はそう考えている。


 いや、これはただ宗印が年齢に似合わず助平すけべえというわけではない。

 印達にもしもの事があったらという懸念けねん

 そして、印寿にも才能はありそうなのだが、あまり将棋が好きではないという問題。

 それら二つの困難を解消するには新しい子を作るのが手っ取り早いのだ。

 養子という線もあるが、印達の才能を見れば、自分の子どもに期待を懸けるのも分からない話ではない。


 別に印達は父が酷薄こくはくとも無情とも思わない。

 むしろ、逆。

 家を守るためには仕方のない事で、引退を考えておかしくない父に無理をさせている自分の不甲斐ふがいなさが憎いくらいだった。


 印達はイネに上手く甘えられず、印寿は悪戯いたずらばかりであまり好かれていない。

 彼ら二人は母の愛情に飢えていた。

 その反動が、年上の女性全般に対する憧れを育んだのだろう。


 八重は呆然としている印達の目を見ながら、不思議そうに首をかしげる。


「印達君? どうしましたか?」

「いえ、そのぅ、それの中身は何ですか?」


 言葉に困った印達は、咄嗟とっさに八重の持ち物を訊ねる。

 彼女の手には風呂敷ふろしきがあった。

 八重は微笑む。


「うちの父が農家に行った際に分けて貰ったんですよ」


 以前も少し触れたが、江戸時代、人糞じんぷんは肥料として重宝ちょうほうされた。

 家守はその売買の権利を伊藤家から購入し、店子たなこ達の出したモノを農家へ売っていた。

 その際の事を言っている。

 そして、今は春で、野草やそうには困らない時期だ。


「ほら、立派なふきです。今がしゅんですよ」


 しかし、それでも貰ったものをわざわざ届けてくれるという行為は手間である。

 嬉しそうに見せる八重。

 印達は大げさではなく喜ぶ。


「やあ、これは立派ですね!」

「美味しそうでしょう」

「はい、その、とても」


 印達も八重に釣られるようにして笑う。

 それは久しぶりに心から笑えた瞬間だった。

 こちらの事をおもんぱかる八重のその心根こころねが何よりも嬉しかったのだ。

 しかし、笑い合ってから印達は気づく。

 慌てて口元を隠す。


「あ! わ、私は労咳なのです! 一緒にいてはなりません!」

「大丈夫ですよ」

「駄目です! すぐに帰って、しっかり口をすすいで下さい!」

「大丈夫です、分かっていますから」


 八重は少し寂しそうな表情になる。

 そして、漏らすように一言。


「私の母も労咳でしたからね」


 弥七と八重の父娘は母が欠けている。

 その理由を印達は初めて知る。


「私は父に似たのか、丈夫なんですけどねぇ」

「そう、でしたか……」


 印達は八重が母を喪った理由が自分と同じ病状とは思わなかったので言葉を失う。

 親近感など全く覚えず、病魔への怒りが湧き上がる。

 だが、それも己の病弱びょうじゃくさに対する不甲斐なさの裏返しでもあった。

 八重は表情を柔らかなものへ戻した。


「ああ、でも、良かった。印達君今日は元気そうですね」

「ええ、今日は体調が良いのです」

「……でも、あまり無理はなさらないでくださいね」

「はい」

「こんなに痩せて……」


 そっと八重は枯れ木のような印達の手首を取る。

 その視線は痛々しいものを見る目だったが、同情しているわけではない。

 ただ事実を分かっている目だった。


「……しっかり食べて栄養をつけないと」


 触れられて緊張している印達も「え、ええ、そうですね、いや、もう大量に食べます、はい、ありがとうございます」と早口で頷く。

 正直、八重の手の柔らかさで自分が何を言っているのか分からない。

 八重はそこでどこか呆れたように言う。


「それでも将棋ですか」


 将棋盤と転がっている本を目にしての発言。

 そこで印達はようやく冷静さを取り戻す。


「はい、勉強せねば弱くなります」

「そんなに勉強しないと駄目ですか」

「はい、とてもとても大切です、一日も休めません」

「倒れてもですか」

「ええ」

「そこまで無理をして……まるで将棋と心中しんじゅうするつもりみたいですね」

「それは、まぁ……悪くないですね」


 心中。

 つまり、愛し合った男女が合意ごういの上で一緒に死ぬ行為である。

 転じて、ある物事と運命をともにすることも意味する。

 

 現代とは異なり、当時の心中は相愛そうあいの情を示す最高の表現と考えられていた。

 近松門左衛門の世話浄瑠璃せわじょうるり(風俗・人情を主題とした音曲語り物)などの影響から、むしろ心中は好まれていた。

『命を賭して目的を叶える』という意味では、『赤穂浪士あこうろうし』なども同じ枠組わくぐみに入るかもしれない。


 だから、印達は褒められたのだと思っていた。

 しかし、八重はどこか呆れたように嘆息たんそくする。


「そこまで根を詰める必要はないではありませんか」

「……それは叶いません」

「……どうしても、必要な事なのですね」

「はい」


 印達は少し考えて続ける。


「人にも、旬というものがあると思うのです」

「この蕗のようにですか」

「はい、だから、今頑張るしかないと思うのです」

「そうですか。私には分かりません」


 そうだろう、と印達は思う。

 自分自身でも、理解しての行動ではない。

 では、育てられ方が原因だろうか?

 将棋の子として生まれ育ったからだろうか?

 半分はその通りだと思う。

 しかし、結局、そこに意味を見出したのは印達自身なのだ。

 選択、いや、決断したのも印達。

 だから、最終的な喜びも悲しみも責任も義務も楽しさも辛さも――全て印達のものである。

 こんな幸せ、他にはない。


 だから、一度決断した以上、降りることなどできなかった。


「印達君はそれだけ将棋を頑張って、それで、どんな大人になりたいですか?」

「え?」

「やはり、将棋の名人ですよね?」

「それは――」

「私には、そこまで痩せて頑張るほどとは思えません」

「名人は、はい、そうですけど……」


 名人になることは既定路線。

 だから、それは理想ではない。

 理想があるとすれば――。


を幸せにしたい、ですかね」

「え?」

「将棋の名人になることは決まっていることです」

「き、決まっていることなんですね」

「ですから、それ以外の部分で言えば、誰かのために生きたいと思っています」

「誰かのため?」

「はい、大切な人と一緒に暮らしたい。幸せにしたい。それは自然な考えだと思いませんか?」


 印達は近くにあった八重の手を自然と取っていた。

 そして、とても優しげに微笑む。


 そこで八重はようやく何かに気づいたかのように「あ……」と呟いて頬を染める。


「えっと……?」


 その予想外の反応に、印達は自分の言動を思い返し、「あ……」と硬直する。


 二人が硬直する。

 しかし、その間に流れる空気は決して悪いものではなかった。


 八重はそそくさと荷物を整理する。

 照れた様子で、かんざしの位置を修正する。


「そ、その、また来ますね」

「は、はい」

「お、お大事に」

「八重さん、その、本当にありがとうございます」


 印達が手をついて深々と頭を下げると、八重も深々と頭を下げる。


「無理はしないでください」


 そう笑顔を残して去って行った。


   +++


 それは二人が知らないこと。

 二人の会話を物陰で印寿が聞き耳を立てていたことを、印達も八重も気づかなかった。


「あにうえ……やえちゃん……」


   +++


 印達はしばらく八重の背中の幻想を、頭の中で追っていた。


「……良い天気だ」


 さて、この蕗だ。

 義母に渡す前にそばに置いて、幸せを噛みしめるくらいは許されるだろう。

 印達は頂いた野草を撫でてから将棋の勉強を再開する。

 印達の心の中に温かいものが芽生え、体調の良くなる兆しを確かに感じていた。




 ……しかし、印達が争い将棋を再開できたのはそれから三ヶ月も後、七月になってからだった。

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