第7話 将棋家の懐事情
宝永六年(一七〇九)十月二十九日に行われた争い将棋第四番は、先手伊藤印達、後手大橋宗銀。印達の居飛車に対し、宗銀の振り飛車という対抗形になった。
この日の宗銀は並々ならぬ迫力を
それこそ決死という表情で、この勝負に負けたら腹を切らんとばかりの様子だった。
その気迫に気圧されたわけではないだろうが、印達は開始早々劣勢に立たされる。
そのまま逆転も起きず、九十手にて宗銀は勝利する。
宗銀にとって三連敗という厳しい状況の中で大きな一勝となった。
現在、印達三勝、宗銀一勝。
+++
さて、繰り返し伝えてきたが、当時の将棋家は決して
将棋の家元という名前だけで大金が転がり込むわけではないし、幕府からの
弟子からの
しかし、将棋家は将棋に専念する事が求められたので
もちろん、
そもそも、『名人』だの『
仲間内で最も
つまり、実のところ『名人』とはただの
……これは将棋が確かな日本文化として認められる以前の話であり、積み重ねた伝統という
では、将棋家はどうやってお金を稼いでいたのか?
……大橋家は元々京の
しかし、徳川幕府が江戸に移動し、しばらくしてから
関西の
『拝領地』とは幕府が与えた土地の事だ。
家業に専念させるため、また、幕府の管理下にしっかりと置くために、御用達町人などに与えていた土地。
大橋家・伊藤家に与えられたのはそれぞれ
そして、将棋家はそれを最も有効な形で活用していた
+++
麻布日ヶ富の宮村町。
その日、印達は父の宗印に連れられ、弟の印寿と共に拝領地へと訪れていた。
そこは普段から
だから、特に印寿は面白そうに視線を
「印寿、離れないようにね」
「はい、あにうえ!」
全然聞いていないので、印寿の手を引っ張りながら印達はゆるりと歩く父を追う。
印達は先日の敗北は引きずっていない。
宗銀の腕前はよく知っている。
負けることくらいあることは分かっていた。
しかし、正直、
自分の弱さに。
次こそは勝つと根を詰めている中での、拝領地訪問だった。
宗印も、あまりにも根を詰める息子を心配していたのかもしれない。
その時、大きな声が響いた。
「やぁやぁ、
身体の大きな、見るからに
もう寒くなりつつあるのに、上半身裸で
肩から背中にかけて立派な入れ
別にやくざ者ということはない。
その男は『
家守とは土地の
家主に代わり、
家賃管理の他、
現代風に言えば、アパートの管理人が家守の弥七。
伊藤宗印がアパートのオーナーという関係である。
つまり、伊藤家は幕府から与えられた拝領地を
そして、実のところ、将棋家は将棋に関する収入よりも長屋経営の家賃収入の方が多かったのである。
将棋道場を開き、門弟から月謝などを受け取っていても、不動産賃貸業の方がはるかに
これは現代では、大手の新聞社がスポンサーになっていることを念頭に置くとなかなか興味深い事実であった。
そもそも、
一億円以上稼ぐ棋士も存在する現代に比べるといかにも
そこで、減らされた
ちなみに、二十石はもちろんの事、五十石も他の御用達町人と比べて多くはなかった。
例えば、
――とまぁ、将棋家の評価はさほど高くなかったというのが
だからこそ、さまざまな工夫を凝らし、お金を稼いでいたのかもしれない。
+++
普段は家守の弥七に長屋を任せきりであるが、宗印は用事があって足を運んだのだった。
「弥七、相談があって来たんだよ」
と、宗印の言葉に弥七は笑いながら手で奥を示す。
「立ち話もなんですから、さぁ奥へどうぞ」
三人が奥へ足を運ぶと、若い娘が
男物の着物に
器用な手先で、鼻歌交じりの楽しげな様子である。
印達たちに気づくと、顔を上げて微笑む。
「あら? 伊藤様ではありませんか?
印達よりも少しばかり年上の少女だ。
髪を肩口で切り揃えた、可愛らしい娘である。
印達はその笑顔を見て、即座に背筋が伸びる。
視線は真っ直ぐだけを見ているが、視界の端には少女を
頰もわずかに熱を帯びている。
まるでぜんまい仕掛けの
「やえちゃん!」
「はいはい、印寿ちゃん、こんにちは」
「こんにちは!」
「今日も元気ねぇ」
「うん! げんき!」
「でも、針仕事中は気をつけてね?」
「うん!」
八重という名前のその女性は弥七の娘である。
妻に先立たれて、男やもめの弥七の生活を影から支えている、年齢以上にしっかり者の娘だった。
見え見えだが、印達は八重に
もしも、彼にとって将棋を超える存在があるとすれば、それは彼女だった。
「はい、父ちゃん。服」
「うむ。それより八重。茶を出せ、茶を」
「はいはい。伊藤様、すこしお待ちくださいませ」
「思いっきり熱いのなぁ」
「はいはい」
父娘の軽快な会話が飛び交う。
弥七は寒かったと言いながら着物を着ている。
江戸時代、衣服は高級品だった。
ちなみに余談ではあるが、江戸時代の町人の入れ墨は、衣服でお
時間の経過でひとつの文化の評価や価値観が変わってしまう実例である。
「いや、
「そんなわけにはいきませんよ。あらあら、ちょっと水が足りませんねぇ」
印達は八重の後ろ姿を
我が息子ながら本当に分かりやすい、と苦笑しながら宗印は弥七に話を切り出す。
「実はな、ちょっとお金が
「へい。と言いましても、集金はまだですぜ?」
「いや、すぐじゃない。将来的な話なんだがな。印達の争い将棋も始まったしな」
「あー、なるほど。付き合いというやつですな」
「それもあるが、いつ
「いやいや、旦那はまだまだ元気じゃないですか」
「心構えは必要だろうさ。それに、早く
見た目はかなり若々しいが、六十代半ばの宗印は江戸時代の平均寿命からするとかなりの高齢で、先の事を心配するのも仕方なかった。
弥七は
「しかし、印達坊っちゃんも、もうそういう年頃ですかい」
「い、いえ、僕はまだまだです……」
御用達町人である将棋の家元は多様な付き合い、行事で
たとえば、家督を譲る際にも
そして、その
有力者との関係を強化するための贈り物以外にも、
これは
息子を
「印達の才能は天性のものだよ。
「いえいえ、父上……」
印達は照れて顔を伏せる。
そこへ帰って来たのは、湯の準備をした八重だった。
「印達君も将棋が上手なんですよね」
その顔は褒めているとは真逆の、
そんな娘の態度に、父の弥七は苦笑する。
「おいおい、八重。この人たちは偉い将棋の先生だぞ。当たり前じゃないか」
「でも、父さん。将棋って
当時は将棋も博打の一種――というのが一般的な認識だった。
別にこれはおかしな話ではない。
将棋も
むしろ、お金を賭けない方が少数というほどだった。
将棋三家はそこで何もしなかったわけではない。
たとえば、家元が弟子たちに手紙を出して『お金は賭けるな。もしも、賭けるとしたら
逆に言えば、それくらい
この実力差があっても公平性を保つ為に
しかし、残念ながらそれを守らない人間もいた。
つまり、自分の手合いよりも弱い手合いで将棋を指す弟子である。
二枚落ちの相手に、飛車落ちで指すなどしてお金を巻き上げていたのだ。
だからこそ八重の態度は
事実そうであったのだ。
そういう空気、文化が当たり前だったのだ。
入れ墨と同じ。
そういう時代だったというだけ。
賭博が厳しく罰せられるようになるのは、これからもう少し下った
話を戻す。
お茶を配る八重は少しばかり
やくざ者のような事を年下の少年が行っていて
宗印が
「違います! 僕たちはお金など賭けません!」
「そうなの?」
「はい!」
「まぁ、印達君はそうなのかもねー」
そこで一旦切って、父親を意味ありげな横目で見る八重。
「でも、男の人って博打が好きですよね?」
「あー、まぁなぁ」
弥七は気まずげに視線を逸らす。
実は彼も最近は将棋を指すようになっていた。
弥七は
江戸っ子らしくその日の稼ぎを全て吐き出してしまう事も少なくない。
故に、
八重がしっかりしてきて、弥七の悪い虫が少しずつ騒いでいた。
自分が多少羽目を外しても大丈夫だろうという安心感が、彼の悪癖を刺激するのだった。
段位を与えられるような門弟とは違うが、弥七も宗印から多少の手ほどきを受けている。
だから、素人相手にはかなり勝てるので、余計将棋に熱中していた。
そんな事情を知らない印達は宣言するように言う。
「お金は確かに大切です。しかし、僕たちはもっと大切なものを賭けて戦っておりますから」
「それはなぁに?」
「誇りです」
家名の為に生きている事がこの時代の人間の常識であった。
特に徳川幕府に認められていた将棋家は、その為なら死んでも構わないくらいの必死さで将棋に向き合っていた。
印達の言葉は、心から発した者にだけ備わった重さがあった。
だから、宗印は嬉しそうに笑い、弥七は感心したように頷いた。
印寿は不思議そうな顔で首を傾げている。
真剣な兄の視線が理解できないのだ。
そして、八重は偉いわねとばかりに印達の頭を撫でる。
「まぁまぁ、立派ねぇ」
まるで子供扱いであった。
印寿は羨ましそうに「僕もぉ」と言っているが、印達は赤い顔で固まっている。
この辺りもまだまだ子供であった。
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