第49話 大岡裁きの後
大岡越前守忠相の裁定により定まった席次は次の通りである。
一 本因坊(囲碁家)
二 伊藤宗看(将棋家)
三 林門入(囲碁家)
四 井上因碩(囲碁家)
五 安井仙角(囲碁家)
六 大橋宗桂(将棋家。大橋本家=宋寿)
七 大橋宗民(将棋家。大橋分家)
八 林門利(囲碁家)
九 伊藤看寿政福(将棋家)
本因坊家を第一位、将棋所を第二位とし、他は相続順となった。
つまり、従来通りという
実際、旧来の文書を多数持ち出して、囲碁四家が宗看たち将棋家に対抗した記録は残っている。
将棋史研究の大御所である三宅青夢氏は宗看に対してこんな一言を残している。
「晩年、稍勢に乗り過ぎて、
『権力を握ったことで調子に乗って棋力が落ちた』とあるが、それよりもこの『碁将棋席次争い』に破れたことが影を落としたのではないだろうか。
人生をかけて積み上げたものが崩れ去ったのだから、その痛心たるや推して知るべしというものだろう。
その結果に――宗看は酒を呑むしかなかったのだ。
+++
酒食で重くなった頭でボーッと考える。
酒の
当時の江戸は独り暮らしの男性が多かったので、手軽に食べられる店が割合多かった。
少し散歩に出たい気分だったのだ。
しかし、雨が降ってきては止むまでは外出するのも
宗看が呑んでいる酒は勝利の美酒として手配していたものであり、質は良いはずなのだが、それほど美味しく感じなかった。
まだ日は高いうちから手酌で酒を呑む。
こんな生活を自分が送るとは思っていなかった。
粘度の高い視線で酒を見下ろし、肩を落としてため息を吐く。
――残念である。
宗看は普段にない態度だった。
それは酔っ払っているからだけではなく、過去に足を引っ張られた事が心労に繫がっているのだ。
積み重ねる事の大切さは理解していた。
だが、自分が将棋所になる前にしでかした事で満願成就しなかったのは皮肉というしかない。
再びため息が漏れる。
肴はないが、酒はある。
もう少し呑もうと思った時、ひとりの女性が表れた。
「重いため息ですね」
「あー、一茶さんか」
「顔、赤いですよ」
「ちょうど良い。肴がないんだ。
「別に構いませんが、ちょっと飲みすぎじゃありません?」
「そうか? そうかもな。普段はあまり飲まないからな」
「酒嫌いなのかと思ってました」
「いや、嫌いじゃないんだがな。酒は美味しいから苦手だ」
「美味しいから好き、じゃ駄目なんですか?」
「美味しくてもな、酔って憂さを晴らすのは俺の流儀じゃないんでね」
「じゃあ、今の宗看さんは流儀を崩しているってことですね」
「そうだな。らしくない、か」
「いえ、そういう時間があっても構わないと思います」
「そうか……」
部屋に戻り酒宴を再開する。
一茶は沢庵と一緒に、山菜を炊いたものも持ってきてくれた。
これを持ってくるためにわざわざ宗看の家にまで来たらしい。
案外、宗看のことを心配して、というのも事実かもしれないが、その心の中までは分からなかった。
一茶はポツリと呟く。
「まだ将棋はお嫌いですか?」
「……俺、一茶さんにそれを言ったことあったっけ?」
「否定しないんですね。ずいぶん昔に言ってましたよね」
宗看はいつ言ったのかも覚えていない。
しかし、確かに口にした感触があったため、一茶の指摘に驚くことはなかった。
だから、素直に答えることができた。
「嫌いだったけど、今はそうでもない」
「それは看寿くんのおかげですか?」
「ん?」
「あんなに将棋が好きな弟がいるから好きになれたというか……」
「そうだな。あれだけ将棋が好きな人間がいると多少は感化される」
「それだけですか?」
「いや、どうだろうな……」
「では、どうして宗看さんは将棋が嫌いなのに、そんなに強くなったんですか?」
「嫌いだから強くなれたんだよ。俺は看寿とは逆だ」
――宗看にとって将棋が敵だった。
兄を奪った憎い存在だった。
憎み、徹底的に倒してやろうと思ったからここまで強くなれた。
それは異常な事だったのだろう。
普通、人はそこまで強くないし、強くあり続けられない。
何故なら憎悪は意外と難しい事だからだ。
好きで情熱を持つ事も難しいのに、憎んで情熱を持ち続ける事なんて正気の沙汰ではない。
その強さは、生来の才能があったからに違いはないだろう。
誰よりも才能があった人間が誰よりも努力したのだ。
環境が良かった事もあるが、強さが必要だったのだ。
父の死で宗看はわずか十八歳で伊藤家を継ぎ、二十三歳で将棋所になった。
その時、周囲には幼い弟が三人と血の繫がらない母。
あまり友好的とはいえない将棋家の先達。
四面楚歌で鍛え上げられた。
弱さを捨て、強くなる以外の選択肢がなかっただけなのだ。
「だから、宗看さんが最強なのですか」
「ああ、そうだ」
「でも、そんな強さをこれからも続けられるのですか」
「当然だろう。俺は『鬼』だからな」
「鬼だから大岡越前守に退治されたのですね」
「いや、桃太郎じゃないんだから」
「そもそも、無理ですよ。いくら強くても勝てない時はあります」
「それは認めるさ。でも、負けても戦い続けるしかない。負けを認めなければ負けではないさ。俺は失敗したのかもしれないが――将棋が負けたわけじゃない」
「…………」
「それに、きっといつかは看寿が俺を超えるさ。正しく将棋に向き合っている人間が超えてくれる」
一茶は胸を痛める。
投了する文化のある将棋指しのくせに、負けても負けを認めないなんて潔くない。
しかし、この執念が宗看を磨いてきたとしたら、なんという悲劇か。
強い事は悪くないかもしれない。
しかし、そこまで強くあり続けるしかなかったなんて、それでどれだけ偉業を残し続けたとしても幸いなわけがない。
「そんなあり方、幸せなわけがありません」
「勝手に決めるなよ。俺は俺の生き方をしているんだからさ」
「では、その辛さの一部を私が肩代わりしましょう」
「えっと?」
「だから、その、傍で支えるというか――」
言葉が途切れて、一茶の顔が真っ赤になっている。
恥ずかしくなったらしい。
言葉を失って、もどかしそうに膝辺りを掴んでいる。
宗看も押し黙る。
意味にようやく気づき、ああ、と呻きながら頭を掻く。
「あのな、俺はな、うーむ」
「特定の方がいるのですか?」
そんな人がいない事を知っているので、一茶の口振りは
宗看は腹を割って話す事にした。
「ところで、俺が将棋を憎しみで指していたと言ったが、一番腹を立てた事はなんだと思う?」
「それはお兄さんが亡くなった事ですよね?」
「そうだ。そして、兄上が命を賭して戦ったものが囲碁よりも下という事を覆すために尽力した」
「ですが、それは仕方のない事ではありませんか」
「納得できないから
宗看は嘆息する。
「そんな人生を送ってきたんだから、人らしい幸せなんて想像できん」
「……
一茶は沸々と湧き上がるものがあった。
どこまで強いのか。
いや、これは弱さを捨てているだけだ。
腹の底から生み出されたそれは、純粋な怒りだった。
彼のあり方に心底から怒っていた。
弱さがないから強いだけで、それは強さを見誤っていたのだ。
強いのかもしれないが――あまりにも
「宗看さん、貴方は莫迦です。大莫迦です」
「おい、何だその言い方……俺のことがその、好きじゃないのか?」
「大っ嫌いです!」
「え」
「莫迦な部分は許せません! あなたは自分から鬼になろうとしているだけです。そんな事私は認めません!」
「認めないってなぁ……」
宗看の言葉が尻すぼみになる。
真剣な表情の一茶に気圧されていた。
「貴方は将棋の為に尽くして来ました。ですから、その分、貴方も報いられるべきなのです」
「……どうして一茶さんが?」
「はい、決まったことです。貴方はこれから私のお世話になるのです」
「どうして、君はそこまで……」
「ところで、宗看さんは言っていましたよね。勝つためには準備が必要だって」
「ああ、いきなりどうした」
「私がしょっちゅうここに足を運んでいた理由は分かりますか?」
「それは市十郎の奴に頼まれたからだろう」
「私は宗看さんがいない時も来ていたのですよ」
「は?」
「未婚の女性が日参する、その意味が分かりませんか?」
そこまで言われて、ようやく宗看は一茶の意図を理解する。
積み上げるために尽力していた人間が、ここにもいたのだ。
通い妻として認識されるために、彼女は努力していたのだ。
「私は宗看さんのお義母様とも仲良くなっていました」
「俺はそんな話を聞いていないぞ」
「それはもう。宗看さんとお義母様の仲が良くない事は知っていましたから漏れる心配はないと思っていました」
漏れても構わないと思っていましたけどね、と一茶は呟く。
「つまり、一茶さんは既に……?」
「ええ、世間的には宗看さんの通い妻だと思われているでしょうね。そういう噂が流れるように振る舞いましたから」
「どうしてそこまで……」
「そこまで言わないと分かりませんか?」
「いや、さすがにそこまで鈍感ではない」
「やっぱり、莫迦ですね……」
一茶は苦笑する。
なんとなく宗看は目が見れずに逸らすしかなくなる。
「それに、宗看さんもお子様が必要でしょ? あなたの業を受け継ぐ人は絶対に必要だと思います」
「看寿がいるが……」
「絶対に必要なのです!」
一茶は朗らかに笑う。
それは宗看が、大昔に大好きだった少女の浮かべていたものと酷似していた。
「さぁ、貴方の負けですよね?」
投了するかどうか、すこしだけ逡巡する時間が欲しかった。
宗看はため息をつき、天を仰ぎ、それからひとつの答えを出した。
仕事も何も自分から選べない時代に、それは自分から望んで掴んだ答えだった。
それは宗看の人生で初めての経験であり、幸せなことだった。
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