第50話 終章『未来を生きる』

 赤子の泣き声が部屋に響いている。

 それは幸せの響きであった。


 宗看は珍しく感極まった様子で、布団に横たわる妻へ声をかける。


「よくやったぞ! 元気な男の子だ!」

「……ええ」


 一茶は出産の疲労を見せながらも嬉しそうに笑う。

 元文五年(一七四〇)、伊藤宗看三十五歳にして待望の長男が誕生する。

 その子には得寿という名前が与えられ、将棋家の子として成長していく。


   +++


 しかし、確かに宗看に子供は生まれたが、後継者は相変わらず看寿であった。

 その圧倒的才能が認められての特別扱いに異を唱える者はもう何処にもいなかった。


 宗看は成長しつつある息子に将棋を教えながらも、弟の看寿と切磋琢磨せっさたくましている。

 その天才の結晶は宝暦五年(一七五五)に完成される。

 看寿が『将棋図巧』を完成させ、幕府に献上したのだ。

『将棋図巧』――その素晴らしさから後の世で『神局』と呼ばれる傑作詰将棋作品集である。


 後世、永世棋聖の資格を持ち、将棋連盟会長も務めた米長邦雄よねながくにお


『僕の語録の一つに、「看寿の詰将棋を解いた者は必ず四段になれる」というのがあるんです』


 と言わしめるほどの出来だった。


 この素晴らしい作品集が生まれた結果、後の時代の名人たちは将軍への詰将棋の献上を止めてしまう。

 何故ならば、『将棋無双』『将棋図巧』に比べられる事を恐れたのだ。

 絶対に越えられない壁として、

 あまりにも高すぎる頂きとして、

 『将棋無双』と『将棋図巧』は存在感を発揮し続けた。

 完璧過ぎる存在が、詰将棋文化を停滞に導いたのだ。


 事実、それを示したあるデータがある。


『将棋図巧』に掲載された第九八番『裸王はだかおう』、第九九番『煙詰』、第百番『寿』についてだ。

 あまりにも素晴らしい『図巧』の中でも、これら三作品は特別なものだった。


『裸玉』は詰将棋の分類のひとつで、盤面に玉将一枚だけが配置された状態のものの総称である。

 完全な裸玉の第二号局は、岡田秋葭氏によって昭和一七年(一九四二)に『将棋月報』にて発表された。


『煙詰』は初期状態で全ての駒(三十九枚)を盤上に配置し、必要最低限の枚数(三枚)で詰め上がる詰将棋の総称である。

 盤上に配置された駒が煙のように消え失せて最後の詰み上がりとなる事からこの名称で呼ばれるようになった。

 昭和二九年(一九五四)に黒川一郎氏の『落花』が発表されるまで誰も再現できなかった。


『寿』は出題図から詰みに至るまでの手数が六一一手という超長手数の作品である。

 昭和三〇年(一九五五)に奥薗幸雄氏が創作した八七三手の『新扇詰』に記録が更新されるまでの二百年間にわたって詰将棋の最長手数の記録を持っていた。


 余人が『将棋図巧』に並び立つまで二百年かかった。

 言い換えると、寿だった。


 そして、現在も宗看と看寿の生み出した『将棋無双』『将棋図巧』の価値は減じていない。



                了

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【大江戸将棋家物語】~200年誰も追いつけなかった天才棋士~ はまだ語録 @hamadagoroku

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