第48話 大岡裁き
寺社奉行に新たに任ぜられた大岡越前守忠相は非常に優秀かつ公平な男であった。
おそらくは江戸時代の奉行の中でも、後世に名を残した最も有名な人物であろう。
その高名轟く代表的な例が『
『大岡裁き』という通称の方が一般的には馴染み深いかもしれない。
この『大岡政談』は大岡越前による人情味があり、公平な裁判がまとめられた物語だ。
現代では逸話を基にした時代劇も数多く制作されており、人気コンテンツのひとつといえる。
特に有名な『実母継母詮議』は誰しも一度くらい耳にした事があるはずだ。
実母と継母が子供の手を引き合い、どちらが本当の母親か決めるというお話である。
なお、有名すぎるため、オチについては割愛させていただく。
しかし、実の所『大岡政談』は大部分が創作である。
例えば、先ほど例に出した『実母継母詮議』は中国宋代の一二〇七年に成立した『
そもそも、『大岡政談』全一四一話のうち大岡越前守が担当したという記録が実際に残されている話は享保十二年(一七二七年)に裁許された『白子屋お熊』一つしかない。
しかし、公平で有能な人間であったが故に、そういう逸話が生まれた事は紛れもない事実だった……。
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緊迫した空気があった。
そう感じるのは宗看の心の裡にある緊張がさせていた。
大岡越前守忠相と初対面というわけではない。
寺社奉行として仕事を始めた際には当然だが挨拶に行った。
しかし、呼び出された理由が『碁将棋席次争い』について、ということで緊張していた。
宗看は何かを見落としている気がしたが、それが何か思いつかなかった。
ただ、何か警告されているような気分で、大岡越前守忠相との対話に赴いていた。
「大岡越前守忠相殿、伊藤宗看です」
「ああ、入れ」
宗看は囲碁家の人間も呼び出されたかと思ったが、一人きりだった。
後から呼び出すのか、それとも、別々に呼び出すのか。
考えてみるが、今ひとつ見通せない。
大岡越前守忠相はもう六十という老齢だったが、非常に理知的な瞳をしていた。
猛禽類のような、遠くを見通す目だ。
高い理性と強い意志の持ち主である事は間違いない。
宗看はその姿に父親を思い出していた。
挨拶もそこそこに大岡越前守忠相は言った。
「さて、お主らの席次争いの訴えについて今一度話を聞きたくて呼び出した」
「はい、お手間を取らせます」
「構わんよ、それが拙者の仕事だからな」
「ありがとうございます」
宗看は平身低頭したまま穏やかな様子の忠相を伺う。
穏やかな口ぶりだったが、視線だけは鋭い。
かなり手強い相手であることを感じ取っていた。
大岡越前守忠相は本当に特別な存在だった。
まず町奉行が寺社奉行に就任するという事がおかしい。
町奉行は三千石以上の旗本が就任する役職だ。
それに対して、寺社奉行は一万石以上の譜代大名が就任する役職だ。
同じ奉行職であっても格は段違いなのだ。
普通なら、町奉行が寺社奉行になるなんてありえない事態だったが、しかし、納得されるくらい大岡越前守忠相は優秀な役人として活躍していた。
ちなみに、大岡越前守忠相の不足していた
その結果、譜代大名と同等の扱いが保証された。
これが以前も軽く触れたが、享保八年(一七二三)に徳川吉宗が制定した『
こんな
そして、大岡越前守忠相には特別扱いに相応しいだけの信頼と実績があった。
時の将軍、徳川吉宗からも圧倒的な信任を受け、問題が発生しても「忠相に任せれば大丈夫だ」と片付ける事さえあったようだ。
とても優秀な相手だ。
おそらくは今まで生きてきて最も手強い。
数多くの天才と渡り合い、自身も『鬼』の
忠相は穏やかな様子で話し始める。
「お主の訴えの内容は
「そうでございますか!」
「しかし、一つだけはっきりさせねばならないと思ったのだよ」
「はい、何なりとお答えさせていただく所存でございます」
「その答えで結論は変わると思って真摯に答えて欲しい」
「はい」
「さて、質問というのはこれだ」
「それは――!」
宗看は見覚えのある文字を見て、血の気が引く。
鼓動の音がうるさい。
顔色が変わった事を大岡越前守忠相に悟られた事を理解する。
宗看は一度目をつむり、動揺をなかったように平静で返す。
「私どもが作った文章です」
「そうだ。拙者はお主らの提出した事蹟調査の由来書を読ませて貰った」
それは享保十二年(一七二七)正月。
もうずいぶん昔、寺社奉行のひとりであった
昔すぎて何を書いたのか思い出すのに時間がかかる。
そうだ、あれは――。
再び血の気が引く感覚を味わう宗看。
忠相は質問してきた。
「この事蹟調査はどれくらい
「……それはどういう意味でございますか?」
宗看は平静を取り
事蹟調査の由来書は昔、囲碁家の林門入を招いて宗看達が作成した資料だった。
分かりやすくするために、盛りに盛った資料だ。
大岡越前守忠相であれば、それを容易に見抜くだろう。
もしも、過去に
そして、作り直したい。
宗看は後悔の念に捕らわれていた。
こんな状況がくるとわかっていれば、あの時にもっと違った文書にすべきだったのだ。
失敗である。
しかし、まだ致命的ではない。と思いたい。
宗看は胆力を発揮し、暴れていた心臓を落ち着ける。
ここでの受け答えは非常に重要になる。
宗看は破れかぶれの気分で畏れずにはっきりと言う。
大岡越前守忠相の目を見ながら告げる。
「全て事実にございます」
「ふむ。そう答えるしかないのは分かるが、それは妙だな」
「……どこが妙にございますか?」
「そうだな、一言でいうと――全てだ」
「ッ――」
大岡越前守忠相は法典を
これらの政策の結果、官僚制度の発達と支配の合理化・客観化が進んだ。
現代に通じる、官僚制度の基礎を作った人物のひとりと言っても過言ではない。
これは歴史的な事実である。
以前にも少し触れたが、文章を大切にしていたのは南町奉行大岡越前守忠相の手により、偽造防止を目的として本の奥付が義務付けたことからも明らかだろう。
書類の文化が現代に通じている事を考えると先見の明もあった。
非常に合理的な人間だったのだ。
更に言えば、文書を整理し、理解・判断する能力に長けていたに違いない。
本に奥付をつけるようにしたのも、先の世のことを考えてそうした方が良いと判断したからだろう。
誰がどういう文書を書いたのか、はっきりさせる事の重要性を理解していたのだ。
だが、現状宗看の立場からすると、それはあまり歓迎できないものだった――。
全てといわれて、宗看は言葉を失う。
忠相は苦笑のような顔で言う。
「囲碁の方は古い記録が大量に残っているが、将棋はせいぜい百年程度のものだな。松平主殿助家忠公の日記が一番古かったか……。とにかく、こちらではお主らの事実の根拠となる文書が何も確認できなかった。つまり、言葉を裏付けるものは何もないのだよ」
「それは……将棋に関する秘術ですから、寺社奉行殿がご存知ないのも無理はありません。そもそも、事蹟調査をわざわざ命じられたのは、資料が不足しているからではありませんか?」
「一理ある」
苦しい事は分かっていたが、宗看としてはどうにか言い逃れするしかない。
「ならば、将棋家が事蹟調査をした際に使用した資料を持って来い。それから評定を下す」
「それは……その、秘術ですので……」
宗看は苦しい言い訳だと自覚していた。
忠相は面倒くさいとばかりに手を振る。
「言葉には注意する事だ。それと拙者は正確かどうかを
忠相のこちらを見る視線は冷たい。
いや、それは情を交えないで物事を判断するという理の輝きがそう見せているだけだろう。
そして、引け目を感じる宗看の弱い立場のせいもある。
宗看は敗北を理解しながら投了できないでいた。
ここまで潔くないことは将棋では考えられないほどだった。
「ああ、言い忘れたが、先に囲碁の林家から話は聞いている。確認の為に話を聞いているのだ。それだけで判断を下す事はないから安心して答えよ」
「……それは……」
「そうか。では、客観的に証明できないのであれば、お主らの訴えの正当性についても疑わざるを得ない。残念ながらな」
「……この文書一つで、ですか」
たった文書ひとつで今まで積み上げてきたものが崩れるのだ。
あの当時は外連味のある、面白いもので耳目を集めることが最善だと感じていた。
しかし、それだけで足をすくわれるとは思わなかった。
意気消沈する宗看に、大岡越前守忠相は穏やかなまま言う。
「ああ、伊藤家からの、いや、将棋家からの訴えの理由も理解できないわけではない。現在の将棋家の人気は大したものだ。それは認める」
「……ありがとうございます」
「しかし、それは永続的なものではあるまい。囲碁家は確かに現在、力のある者が減っている。それも事実だ。だが、やはり一時的なものであろう」
「……はい」
「つまり、大切な事は『格』というものだ。そして、それは歴史的な積み重ねが優先される。囲碁は証明できたが、将棋は証明できなかった」
江戸時代に学ばれた学問は儒教――朱子学。
中でも朱子学は『年長者を敬うもの』が基本思想だった。
封建社会にとって都合の良い思想だが、大岡越前守忠相の判断はそれに沿ったものだった。
宗看はそれを理解していたので反論できなかった。
「…………」
「個人的には、お主の境遇には共感できる部分があるが、それはそれ。これはこれだ」
ああ、と宗看は嘆息する。
こんな結果になるとは思ってもみなかったのだ。
万全を期すために、用意を入念にし過ぎた。
井上河内守がこんな早く亡くなるなんて考えてもいなかったのだ。
そして、町奉行が寺社奉行に抜擢されるなんてありえないはずなのだ。
不運が幾重にも降り積もった結果だった。
大岡越前守忠相が「元の通り」と沙汰を出し、伊藤宗看は敗北した。
人生初めてかもしれない、完敗だった。
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