第46話 御城将棋~看寿初出勤~

 さて、「レジャー白書2020」(日本生産性本部・編集発行)によると将棋の競技人口は620万人である。

 それに対し、囲碁の競技人口は230万人。

 この三倍弱の差は先入観の問題もあると筆者は考える。

 囲碁は難解だと考える人が多く、なかなか気軽に始められないという先入観だ。

 しかし、実のところ将棋の方が駒の役割を覚える分ルールは複雑である。

 そもそも、レジャー白書による競技人口数は国内に限った話であり、海外も含めれば囲碁の圧勝であろう。


 そして、実は江戸時代でも将棋は庶民の遊びとされ、囲碁は高尚な遊びとされた。

 この理由は明確である。

 囲碁の道具が高価だったからだ。

 碁石にはまぐり瑪瑙めのうを使わなかったとしても、安価なプラスチック素材などなかったのだ。

 転がっている小石や紙をご意思代わりにするのはいかにも難しい。


 それに対し、将棋は紙で駒を作ることもできたので、気軽なものとして庶民でも多いに遊ばれた。

 その結果、文化や作法の広がりという意味で将棋の方が圧倒的に強かった。

 お金のない庶民の方が数は多いのだから、伝播力に差が出るのは仕方のない話である。


 善し悪しの問題ではない。

 遊戯としての特性に差があったというだけの話。


 ただし、庶民と高尚という対象的な扱いだったのは幕府の方でも変わらず、文献を調べてみると、将棋所は碁所に比べると扱いが悪く、極端にいうと

 これは歴史的な事実であり、初代大橋宗桂の時代から変わらない現実である。


 競技人口数の影響とはもちろん言い切れないのだが、宗看たちが生きたこの時代の碁家は有力な打ち手がおらず、あまり栄えていなかった。

 それに対して、将棋家は『鬼宗看』と呼ばれた将棋所を中心として、実力者が顔を揃えていた。

 ちまたでも話題になるのは将棋家のことばかり。

 それに伴い強力な指し手や優れた棋書が生まれていた。

 裾野すそのは広ければ広いほど頂きも高くなる。

 その最高峰といえるのが『鬼宗看』の『将棋無双』や『神童看寿』の『将棋図巧』だった。


 将棋好きに限らず、類稀たぐいまれな天才の話を人は好む。

 未知なる才能の、研鑽けんさんによる発露はつろ称賛しょうさんする。

 人智を超えたわざ憧憬しょうけいの念を抱く。


 それは過去も現在も変わらない。

 おそらくは鬱屈うっくつした現実を蹴飛ばし、軽々と想像を超える偉業を成し遂げるからだろう。

 故に、将棋は江戸庶民を熱狂させる文化の一つになっていた。


   +++


 そして、元文元年(一七三六)、満を持してが御城将棋に初出勤を果たす。


 伊藤看寿政福。

 十八歳四段の若武者である。


 看寿の出勤は、宗看の嗣子ししとしてだった。

 嗣子――つまりは正当な後継ぎである。

 子のいない宗看の順養子として、看寿は既に認められていた。


 対局相手は八代大橋宋寿。

 つまり、養子に行った自分の兄との御城将棋が初出勤になった。

 兄の宗寿が二十三歳の成長著しい指し盛りであったため、手合いは宋寿が右香車を落としての上手うわて

 段位に従っての采配さいはい、順当な手合いだった。

 詰将棋に関して異常ともいえる才能を示した看寿であったが、指将棋については宋寿に一歩ほど譲っていた。

 大橋本家の当主である宗寿は、看恕が心を病んでからめきめきと腕を上げていた。

 責任感が実力を高めたといえた。


 そして、元文元年十一月十七日。

 御城将棋が始まる。


 看寿は攻め七割という棋風に成長していた。

 受けが苦手という意味ではなく、詰む詰まないの見切りが尋常ではなかったのだ。

 負けないと思ったところから果敢に攻め立てる。

 特に、終盤において遺憾なく才能を発揮していた。


 看寿は対局中不敵に笑っていた。

 余裕がある。

 多少悪手を指してもその余裕は崩れない。

 才能が認められて後継者になったのだから、それに相応しい態度があった。

 兄の看恕を差し置いて選ばれたのだ。

 そう、看寿も強く成長していた。


 この将棋は看寿の攻めが繫がり、百十手で勝利している。

 だから、勝利そのものよりも看寿にとって大切なことがあった。

 それは自分が鬼宗看に認められたという自信。

 つまり、最強の系譜けいふに連なる覚悟を持って勝負に挑むということだった。

 心を決めた看寿は御城将棋の舞台に上り、称賛を得る。

 それは鬼宗看の秘蔵っ子が表舞台に出た、記念となる日であった。


   +++


「あ」

「ん?」

「空」

「空?」


 御城将棋が終わり、冬も暮れのある日のことだ。

 伊藤家に一茶が来ていた。

 その時、宗看は火鉢を出し、軒下に縁台を出して将棋の研究中だった。

 空を見上げながら彼女は言った。


「寒いと思っていたら、とうとう雪が降ってきましたよ」


 何故か一茶は宗看の縁台の端に腰掛けていた。

 楽しそうにしている姿は幼い子どものようだ。

 しかし、そこで宗看は思い出す。

 むしろ、彼女は子どもの頃は自分に反発してばかりだったような気がする。

 当時は笑顔など見たことがなかった。

 奇妙な感覚に苦笑いするが、それを見た一茶は首を傾げる。


「中に入りますか?」


 確かに寒い。

 寒いが、それも一興。

 そんな、気分だった。

 もう一年が終わることに対する感慨を覚えていたからかもしれない。

 宗看は首をゆっくりと横に振る。


「いや、まだ大丈夫だろう。それよりも一茶さん、いつもご苦労さまだよ」

「いえいえ、これもお手伝いですからね」


 彼女は市十郎の使いとしていつものように手紙を届けてくれていた。

 そして、感心したように言う。


「いつも熱心ですよね」

「まぁな。勝つために準備は必要だからな」

「楽しそうですね」

「ああ、俺の理想が整いつつあるからな」

「政福くんですか? 噂になっていますよ」

「ああ、あいつは天才だからな」

「政福くん、圧勝だったらしいですね」

「まぁな」


 実は序盤を悪くしての逆転だったのだが、宗看はそれを説明しない。

 言葉短く首肯するに留めた。

 代わりに別のことを指摘する。


「あいつのことは看寿って呼んでやれよ。本人もそう望んでいるんだから」

「看恕さんと間違えちゃうじゃないですか。そういえば、看恕さん、まだ帰ってこないのですか?」

「ああ、修行の旅に出ているからな」


 噓である。

 実際、家から出ていないだけなのだが、頻繁ひんぱんに訪れる一茶でさえも気づいていない。

 それは静かな狂気。

 己を傷つけるためだけに、自主的な蟄居ちっきょを行っていた。


「それに、私にとっては『政福くん』って感じなんですけどねぇ。そうだ、宗看さんが手を回したの?」

「何の話だ?」


 一茶は首を傾げながら言う。

 瞳には悪戯を見つけたような光がある。

 粉雪に吸い込まれそうな、優しげな色をしていた。


「だって、どう考えてもま……看寿くんが指した将棋がこんなに有名になるなんておかしいじゃないですか。私の耳にも入りましたよ」

「それは一茶さんが将棋に興味があるからだよ」

「興味があったから耳に入っただけじゃないのか」

「興味があったのはそうですけど、そもそも、看寿くんと宋寿さんの将棋の内容が広まっているのがおかしいと思うのですよ」

「まぁ、確かに顔なじみに並べて見せたけどな。俺がやったのはそれだけだよ」

「噓でしょ。解説しないと素人なんて分からないんだから。きっとあれこれ囃し立てたんでしょう。それに、宗看さんの影響力って凄いですよね。だから、いろいろなところに昔から顔を出していたんですよね」

「俺は悪たれだからな。呵呵」


 一茶はじっと腹の底を覗くような視線を向ける。

 宗看は視線を逸らす。


「……宗看さんが考えていること、当ててみせましょうか」

「ふむ、なんだ」

寿

「ああ、それは当たり前だろう。あれほどの才能を自慢しないわけがない。それが答えか?」

「いいえ、今のはただの前提です。本当は看恕さんたちも土俵に上げたかったんだと思います」

「ふむ、その意味は?」


と知らしめたいのです」


 宗看はニヤリと笑った。


「正解だが、当たり前だろう。将棋ほど面白い遊戯ゆうぎはこの世に存在しないからな」

「いえ、一般的には賽子さいころの方が容易で、囲碁の方が高尚でしょう?」

「一茶さんは言葉が不自由なのか? 俺は面白いと言ったんだが、容易は面白いか? 高尚は面白いか?」

「意地悪ですね」

「まぁ、賽子も囲碁も面白いかもしれないが、やはり王は将棋さ。間違いない」

「それは宗看さんの立場ならそう言うでしょうよ。それに、将棋は難しいですよね。あ、難解は面白いか、なんて言わないでくださいよ。難しいものは面倒じゃないですか」


 気軽にするには将棋は難しすぎます、と一茶は言う。

 将棋は八種の駒の動きを覚えなければならない。

 それが意外と難しいという人間も一定数いる。

 そして、難しいと感じる人間が将棋で遊ぶ可能性は低い。


「面倒なものほど面白かったり気に入ったりするもんだと思うがなぁ」

「それはちょっと分かります。そういえば、昔、将棋が嫌いって言ってませんでしたっけ?」

「いいや、そんなことを言った記憶はないぞ?」

「そうですか? まぁ、良いですけど……」

「話を戻そう。それで、一茶さんは『将棋家が凄い』と広めて、俺が何を考えていると思ったんだ?」

「はい、将棋家の凄さを知らしめて、。違いますか?」

「ふむ」

「そして、準備はようやく整った、と。何をするか分かりませんが、勝ちに出ているんですよね? 勝利は目前だって言いたいのです」

「君は本当に聡いんだな」


 宗看は肩を竦める。

 一茶は自慢気に胸を張る。

 にわかに雪が強くなってきた。

 宗看は中に入ろうとする。


「手紙ありがとうな。気をつけて帰ってくれ」

「ええ、いつでも」


 そして、前々から注意しようと思っていた事を告げる。


「ところで一茶さんよ、いくつになった?」

「二十一ですが」

「君も大人になったんだ。そろそろ、俺のような独り身の男の所に来るのは止めるんだな」


 一茶は目を丸くする。


「あら、まさか宗看さんの口からそんな言葉が聞けるなんて思いませんでした」

「こう見えても体裁は気にする方でね。誤解されたくなかったらもう少し君も体裁を気にするんだな」

「そう思うのでしたら、いい加減奥方をめとればよろしいではありませんか。ご母堂様も大変ではありませんか? 最近、肩が痛いとおっしゃっていましたよ」

「君はそんな事を聞いたのか」

「はい」

「義母には悪いと思っているよ。しかし、将棋ばかりで気がついたらこんな年になっていたからな。なかなか難しいもんだ。将棋は少し前まで博打の一種だったし印象は良くない」

「あら、その為に将棋を押し上げようとしているのではありませんか」

「違うよ。本当に将棋の素晴らしさを広めたいだけなんだよ」

「そうですか」


 一茶は立ち上がりながら微笑む。


「大丈夫ですよ、きっと私には父が良い縁談を持って来てくれると思いますから」

「それなら良かったよ。まだまだ大丈夫さ。ちょっとくらい遅くなっても君なら引く手数多てあまただろうさ」

「はい、それではまた……」

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