第42話 伝説の破片

 さて、復習だ。

 将棋の家元である伊藤家には現代に残る二つの逸話がある。

 一つ目は後々政福が作ることになる『将棋図巧』があまりに卓越していたため、時の将軍がその頭脳を恐れて、政福に三年間の閉門(謹慎の意味)を命じたという話。

 二つ目が、政福が閉門された件で、宗看が自分の『将棋無双』にあえて解答を添えなかったという話。

 解答がなかったから本当に解けるかどうか分からず、『詰むや詰まざるや』なんて異名が生まれた。


 後者は単純な幕府側の紛失であった。

 問題は前者だ。

 閉門されるほど恐れられる頭脳を持っていた、という逸話が人の口を伝う度に変わっていたのかもしれない。

 しかし、意外とそうではないのかもしれない。

 事実の一端を示していただけなのかもしれない。


 そして、実は宗看や政福に逸話があるように、看恕に関してはある謎があった――。


   +++


「宋寿殿、もう一局指しましょう!」

「あ、ああ」

「次は勝たせていただきますよ!」


 看恕の様子がおかしい。

 そう思っているのは八代大橋宋寿だけだった。

 その日、宋寿は三人の兄弟に混ざっての出稽古を行っていた。

 だが、看恕が妙に悩んでいるように見える。

 いや、正確には元気なのだが、元気

 それは空元気が過ぎるような気がしていた。


 兄の宗看と末弟の政福は看恕の空元気に気づいていないようだった。

 そうやって宋寿が客観視できたのは、大橋家へ養子に入ったおかげで少し距離ができて冷静になれたからだ。

 宗看と政福の二人の詰将棋の才能と実力は際立っている。

 一段や二段なんて測れないほど上手うわてだ。

 看恕も才能豊かなのだ。

 しかし、二人には敵わない。

 それは宋寿自身が二人より劣っていることを認めているからこその評価だ。

 距離があることでそうやって冷静に認めることができたのだ。

 しかし、その天才二人に挟まれ、家を出る事も叶わなかった看恕は――一体、どうやって耐えることができたのだろうと思う。

 いや、案外耐えられていないのかもしれない。

 それが元気過ぎる姿だとしたら?

 考えすぎかもしれないが、宋寿はやや懸念を覚えていた。

 宗看と政福は何やら楽しげに会話をしている。


「兄上、この兄上が作った詰将棋なのですが」

「ああ、それも自信作だぞ」

「はい、見たことのない趣向ですよね。二十七枚が四枚になるなんて素晴らしいと思いますが、これをもっと良い物にする着想を得ました」

「ほう、それはどういうものだ?」

です」

「……それは考えなかったわけではないが、本当にそんなことが可能なのか?」

「私は可能だと考えています。煙のように盤上から駒が消えていくのです。美しいではありませんか」

「煙のように消える、か……呵呵かか、もし、完成したらそれは神業だな」


 宋寿の目から見ても二人の会話は天上のものだった。

 あまりにも高度過ぎて理解が追いつかない。

 チラと見ると看恕は表情が暗い。

 いや、宋寿が見ると笑うのだが、二人を意識しているのは明らかだった。

 聞き耳を立てているが、気にしてないように振る舞っている。


 問題なのは、宗看と政福の二人が楽しそうに会話をしている点。

 宋寿はもちろん看恕も気にしていない。

 いや、気にしていないのではなく見えていないのだ。

 視界に入っていないわけではなく意識のうちにない。

 つまり、相手にしていない。

 そう言うと悪意があるように感じるかもしれないが、自分たちの会話に熱中しているだけなのだ。

 故に、余計に残酷であった。

 宋寿は心配になって看恕に声を掛ける。


「看恕、大丈夫かい」

「大丈夫ですが何か?」


 質問の仕方が悪かった、と宋寿は反省する。

 大丈夫か、と訊ねられて、大丈夫でないと答えられる人間であれば安心なのだ。

 強がる性格だからこそ看恕のことが心配なのだから。

 何か気を紛らわせるものはないかと考え、用意していた一つの図式を見せる。


「そうだ、私も図式を作ってみたんだ。解いてみてくれないかい」


 看恕の顔色が曇った。


「……宋寿殿もですか」

「ああ、私もいつかは献上図式を奉じられるようになりたいからね」

「そうですか……」


 もともとは宗看に改善案を相談するつもりだったのだが、この際は良いだろう。

 いや、考えてみると、この場合は最適ではないだろうか?

 宋寿は思う。

 詰将棋の創作をすることは自由なのだ。

 誰にはばかる必要もない。

 結果として不完全作であったり、傑作に程遠い作品であっても構わない。

 誠実に向き合うだけで十分なのだ。


 気負わず、肩の力を抜いて自分の精一杯で十分なのだから――。

 看恕の努力は本物なのだから――。


 宋寿はそう伝えたくて、気を楽にして欲しかったのだ。

 看恕は躊躇ちゅうちょしながら言う。


「宗寿殿は恐ろしくないのですか?」

「何がだい」

「兄上の献上図式と比べられるのが、です」

「怖いさ。決まっているだろう」

「怖いのに創るのですか?」

「怖いことと創作に向き合わないことは別だよ」

「ですが」

「いや、看恕。宗看殿や政福が特別なんだよ。そう嘆きたくなる気持ちは分かるけど、己の実力不足は事実なのだから仕方ないだろう」

「……宋寿殿は強いですね」

「ただの楽観さ。詰将棋をたくさん創って、何度も推敲を繰り返せば、いつか私でも傑作ができるだろう……とね」

「そうですか……それは正論かもしれませんが……」

「人に割り当てられた駒はもう決まっている。なら、前向きに頑張るしかないだろう?」

「そう、ですね」


   +++


 余談であるが、大橋宋寿が後の世で献上した『将棋大綱』は巧妙な作品も多いが、同時に不完全作も多かった。

 三割近くが詰まなかったり、余詰(別解のこと)があった。

 無論、宗看や政福の『定規無双』『将棋図巧』も不完全作がなかったわけではないが、基本的な精度と完成度が違う。

 そこが天賦の才能といえばそうかもしれない。

 しかし、長い年月をかけただけに『将棋大綱』は熱のこもった作品に仕上がっていた。

 宋寿は不屈にして有言実行の人だった。閑話休題。


   +++


「そうだ! 看恕もそろそろ御城将棋に出勤だろう?」

「ええ……」

「政福より先にお勤めなのだから、しっかりしないとな」

「はい……」

「ま、自分にできることがあれば良いのさ。看恕は指将棋も強いし、立派にお勤めも果たせるさ。何が良いのかな?」


 その時、ポツリと看恕は言った。


「兄上は結婚できないだろう、と言いました」

「ほう、しかし、鬼宗看の後継はどうする?」

「政福を順養子にしたい、とおっしゃっていました」

「……なるほど、そういうことか」

「ですから、私は育てることを考えるべきなのかもしれません。非才なので」

「そんなことはないと思うが……」


 看恕の様子がおかしかったのはそういうことか、と宋寿は得心する。

 そこで宋寿は首をひねる。


「しかし、妙だな」

「妙、ですか?」

「ああ、結婚はできるだろうさ。

 殿

 そのまま結婚すれば良いだけだろ?」


 宋寿がそう言うと看恕は目を丸くする。


「え?」

「なんだ、看恕。気づいていなかったのか」

「はい……気づいていませんでした……」

「ま、宗看殿もそういう部分では鈍感だから気づいていないだろうし、いや、政福は気づいているかもしれないな。あいつはああ見えてびんだから」

「そうですね」

「まぁ、男と女は奇々怪々ききかいかい。どうなるか分からないけど、軽く背中を押してやるべきかもな」

「そう、ですね」


 そこで看恕は笑う。

 やや俯き加減だったが、とても楽しそうに。


「気づいていなかったならお前も同じだろ? とりあえず、この詰将棋、解いてくれないか。これでも割と自信があるんだよ」

「はい……」


 看恕は淡々と解き始め、しばらくして苦しげに漏らす。


「……詰みません」


 推敲は怠っていなかったがどこかに瑕疵かしがあったか。

 宋寿はやや落胆しながら訊ねる。


「ふむ、どこが間違えていたのかな」

「いえ、詰まないのです……宋寿殿……」

「看恕……? お前……」


 看恕の顔色は悪く、額に滲み出た脂汗が畳に染みを作っている。

 宋寿の声が掠れたのは、そのあまりに異様な状態に気圧されたからだ。

 こんな姿はおかしい。

 そう思うが、どう言葉をかけて良いか分からない。

 看恕には才能がある。

 正直、小将棋に関して言えば、自分はもちろん政福よりも才能は上かもしれない。

 宗看に匹敵している。

 だが、詰将棋の創作に関しては一歩も二歩も譲り、後塵こうじんはいしていた。

 だが、将棋家としてより重要なのは小将棋の腕前であり、詰将棋は二義的なはずなのだ。

 ここまで追い込まれているのは、天才故の完璧主義のせいか。

 看恕は真っ青な顔で繰り返す。


「詰まないのです……分からないのです……」


 限界はもう目の前にまで来ていた。

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