第43話 神童
『神童』『非常の児』と評された政福は将棋に関して抜群の才能を発揮した。
だが、日常生活においてはただの
将棋に熱中するあまり、一度局面が思い浮かぶと他のことが何もできなくなるのだ。
その熱中する姿はひと言でいうと危うい。
雨に打たれながらもそれに気づかず、将棋について思いを馳せる姿は狂気一歩手前だろう。
いや、普通の人間はそこまで熱中するものを持たない。
既に狂気の世界へ足を踏み入れていたからこそ周りの目を気にせず没頭できたのだ。
雨に打たれて動かなくなっている姿は傍から見るとどう考えても異常行動であり、夜中に
故に、政福は変わり者として有名だった。
そんな末弟に対し、四男である看恕は人当たりが良かったので周囲からの評判も上々だった。
二人は年齢差の割に姿形がとてもよく似ていた。
二人が
『神童』という噂を聞いて、看恕を想像する人間の方が多いくらいだった。
これは政福があまりにも常人離れしていたため、普通の人間では評価できなかっただけの話。
だから、そういうことが起きたのだろう。
+++
それは何気ない会話だった。
いつもの日常のはずだった。
「御城将棋の看恕の対局なんだが、次の大安に『内調べ』で調整しようと思うが構わないな?」
「いよいよですね、看恕兄上」
御城将棋への出勤は将棋家の人間として当然の仕事であり、宗看の目には看恕は十分に実力を備えていた。
むしろ、遅すぎたくらい。
満を持しての登場は、大切にしすぎたが故である。
対戦相手は大橋家へ養子に行った兄の宋寿との対局が最善だとこの時の宗看は考えていた。
看恕も緊張せずに、実力を十分に発揮できるに違いない。
看恕の才能は間違いないものだ。
そして、その努力は本物だ。
周囲も指し手を見れば、称賛の声を上げ、驚嘆の息を漏らすだろう。
ようやくお披露目できる、と楽しみだったため宗看の口元が緩くなる。
政福の言葉にも羨ましさが多く含まれていた。
「…………」
しかし、そこで宗看は違和感を覚える。
看恕から返事がない。
宗看が視線を向けると、看恕は襟元を右手で掴んでいた。
弟の手は細かく震えている。
俯いているため表情は見えない。
「看恕?」
再度宗看が呼びかけた瞬間、看恕は強く左手を床に叩きつける。
苦悶の表情で床に手を叩きつけたのだ。
耐えられない何かを吐き出すような、そんな痛々しい動きに宗看は弟の名を悲鳴のように呼んだ。
「看恕!?」
「……!」
看恕の声にならない叫びは怒っているわけではないようだった。
返事をすることなく、赤いものが道場にぶちまけられる。
何が起きているのか、宗看も政福も理解できなかった。
赤。
ドロリとした赤。
看恕は
しかし、胃の内容物は多くなく、あまり健康的でない色合いの血が多く混じっている。
あまりに唐突な出来事であり、宗看も看寿も
二人共、呆けたまま畳が汚れるのを見ていた。
咄嗟に反応できなかったのは、あまりにも予想外の出来事だったから。
何か決定的なきっかけがあったわけではない。
少しずつ溜まっていた
実際、看恕と政福が将棋の感想戦をしている最中だった。
将棋自体は滞りなく行われ、良い勝負だったが最終的に看恕は勝利していた。
上手に駒を
ただ、検討している間看恕はほとんど喋らず、時折、意見を求めてそれに応えるという態度だった。
二人はそれをおかしいとも思わなかった。
宗看も政福も気づけなかったのだ。
そもそも、昔の看恕はそんな控えめな性格ではなかったのに。
そもそも、周囲の人間への人当たりが良くなったのはどうしてか?
そんなこと、普通に考えれば当たり前の話なのに、宗看と政福の二人には分からなかったのだ。
彼ら二人は別格だったから――。
そこでようやく二人は我に返る。
「おい、だ、大丈夫か?」
「看恕兄上! 兄上っ! 兄上っ!」
「政福、医者だ。医者を呼べ! 大丈夫なわけがない!」
「は、はい、兄上!」
事態をようやく把握した宗看の一言で未だに混乱している政福はすぐに部屋を飛び出していた。
一度、大きな転倒する音が聞こえたが、すぐに走り出す音も聞こえた。
残された宗看は看恕の手当をしようとする。
何をして良いか分からないが、血で汚れた顔を拭うために体を起こす。
看恕は苦しそうに
袖で拭いながら宗看は頭を悩ませる。
分からない。
何が起きているのかも。
どうして良いのかも。
「くひ、かは、はは」
看恕は血を吐きながらも――笑っていた。
自身の体で吐いた血を畳に広げながら、
笑顔ではない。
ただ、発作のような笑い声をあげていた。
それは異様な光景であり、宗看ですら
まるで命そのものを吐き出すかのような様子だった。
冷静さを取り戻した宗看は改めて看恕を抱きかかえた。
そこで、非常に痩せていることに気付く。
最近顔色が悪かった気はしていたが、ここまでとは思っていなかった。
一体、いつからだろう?
そう考えるが、宗看は献上図式の創作のために視野が狭くなっていたことを自覚した。
全然、看恕の変化に気づけなかったのだから。
答えがあるかどうか分からない。
ただ、宗看は問いかける。
「看恕……何故笑うんだ?」
看恕は笑いを引っ込めた。
そして、湿度と粘度の高い視線を宗看に向ける。
それは信じられないほど不安定で虚ろな目だった。
何かが決定的に失われていた。
背筋の凍る宗看に、看恕は言う。
「兄上は……政福は……良いですね」
「え?」
「宋寿兄上が……大橋家へ……養子に……行ったのは……正しいです」
宗看は悟る。
政福がこの場にいなくて良かった、と。
看恕はそういう告白をしようとしてるのだ、と。
「兄上が……強いのは……構わないのです」
「…………」
「目標であり……強いことは……誇らしさもあった」
「…………」
「いつか……越えられる……と思えば……耐えられる」
「…………」
「だが……」
「…………」
「政福に……負けるのは……辛い」
「…………」
「俺よりも……年下で……俺が越えるのは……無理です」
「…………」
「政福は……凄い」
「看恕……」
「あんな才能が……俺にも……」
最後に一言。
「苦しい……」
そこで看恕は白目を剝いて一瞬だけ固まり、その体勢のまま畳に引き寄せられるように頭を打ち付けて
大きな音がしたが、宗看は咄嗟に支えることができなかった。
宗看の目にもその引き攣った顔が恐ろしかったからだ。
――何故、俺はこんなに劣っているのか。
そんな心の声が届きそうな、
それは絶対に消せないものだ。
上手く発散し、付き合う必要がある。
もしも、嫉妬する心に支配されてしまったとしたら、心は歪み、二度と元通りにはならない。
修復できたとしても変質させてしまう。
宗看は看恕を見下ろしてため息を吐く。
触れてはならないような気がして、このまま目が覚めない方が幸せなのではないかとさえ思う。
そんなことあるはずがないのに。
看恕は決して将棋が弱いわけではないし、才能がないわけでもない。
むしろ、人が
少なくとも小将棋の才能は自分と同等にはあるはずだ。
しかし、政福が詰将棋において、百年に一人の大天才というだけなのだ。
人はどうして自分に足るもので満足できず、不足しているもので嘆くのか。
どうして優れている部分ではなく、劣っている部分で苦しむのか。
適材適所が将棋の肝要だと昔説教を垂れたことを思い出し、いかに意味がなかったかを宗看は悟る。
ため息が漏れる。
感情は理性より強いのか。
知性が高かろうとそれは真実なのか。
宗看は看恕の吐いた血で汚れた手を見下ろして呟く。
「全く……好き勝手言ってくれる……」
+++
それ以来、看恕は精神の均衡を崩してしまった。
体調が良い日は将棋を指すことができる。
いや、自分から将棋を指そうとするし、それはかなり達者だ。
しかし、唐突に叫び声をあげ、髪を掻き
最終的に七段まで昇段する資料は残っているが、結果、看恕は後世にほとんど棋譜を残していない。
御城将棋にも一度も出勤できなかった。
人が何かを成し遂げる上で重要な要素が『強さ』だとしたら、看恕にはそれが決定的に欠けていた。
+++
そして、その後。ある日の宗看と政福の会話。
「兄上、私の事を今後は看寿と呼んで下さい」
「それでは看恕と間違えやすいではないか」
「だから、ですよ。あえて間違えて貰いましょう」
「……一応理由を聞こう。何故だ?」
「そちらの方が伊藤家の名は落ちないでしょう」
「……分かった」
+++
――その後のある
「伊藤家の、将棋のお家の話を知っているか?」
「ん? ああ頭がおかしくなったって。でも、元からおかしかったよな」
「いやいや、好青年だったじゃないか」
「そうだったか? 変なガキだったじゃないか」
「しっかり挨拶をするし、賢そうな子だったじゃないか」
「ん、政福って子の話じゃないのか」
「いや、看恕だったろ」
「あれ? 看寿って改名してなかったか。いや、元々だっけ?」
「ん?」
「ん?」
「そもそも、将棋家って鬼宗看の印象が強すぎるからな」
「でも、看恕だったかは凄い天才らしいじゃないか」
「いや、それが看寿だろう?」
「ん?」
「……んん? どっちだっけ?」
+++
看寿と看恕はとてもよく似ていた。
才能も。
看恕はほとんど後世に記録が残っていない。
宗看や看寿はもちろん、大橋家へ養子に入った宋寿やわずか十五歳で早逝した印達でさえも記録が残っているのに、である。
それは不自然なほどだった。
看寿が閉門されたという伝説は心を病んだ看恕が家からほとんど出なかったが故。
周囲の人間が二人を間違えたからだった。
真実の一端はそこにあった。
そして、この件は宗看の心に新たな火をつけることになる。
+++
「なぁ、看寿よ」
「はい、兄上?」
「俺は新しい目標を見つけたぞ」
「それは?」
「お前らに『将棋』をより誇りに思ってもらうために――」
第三部『崩壊編』了
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