第20話 三人の弟

 宗印亡き後、印寿改め三代伊藤宗看には三人の弟が残されていた。


 三男宋寿さんなんそうじゅ

 四男看恕よなんかんじょ

 五男政福ごなんまさとみ


 五男の政福に至っては、年を越した時点でまだ五歳。

 将棋を教える云々うんぬんの前に、あまりにも幼い弟である。

 必然的に印寿には、兄というよりは父としての役割も求められていた。

 さて、その日常は、というと……。


   +++

 

 伊藤家三男である宋寿にとって、宗看は頼もしい兄だ。

 心から尊敬している。

 鬼のように将棋が強く、常に自信にあふれている姿は頼もしいの一言。


 だが、兄は普段あまり家にいない。

 日中、何をしているのか分からないが、どうやらいろいろな場所に赴いては将棋を教えているようだ。

 まだ宗寿たちは連れて行って貰えないが、いつかついていきたいと思っている。

 そのために、日夜将棋の練習に兄弟で励んでいた。


 家にいる朝晩は献上図式の制作に忙しいようで、正直、宋寿たちも声をかけにくい部分があった。

 別に声をかけても問題がないことは宋寿自身分かっている。

 実際、嫌な顔をされたことはない。

 むしろ、どんな質問にも丁寧に答えてくれる。

 ただ邪魔をしたくないだけ。

 いや、邪魔だと思われたくないだけ。

 その異常な集中力をかげらせたくないだけ。

 それが杞憂きゆうであることは宋寿も分かっているが……それでも兄が数段上のところで戦っていることは理解していた。


 ただ、その日は珍しく一日家にいるようだった。

 だから、宋寿と看恕は宗看にこいねがって稽古けいこをつけて貰っていた。


   +++


 宗看の前に将棋盤を二つ並べての二面指しである。

 宗看から見て馬手めてに宋寿が、弓手ゆんでに看恕が座っている。


 まだ将棋の規則を把握している程度の実力しかない末弟の政福も、宗看の傍で楽しそうに笑いながら盤面を見ている。

 口を挟むことはないし、優劣さえも分かっていないようだが、ただただ楽しそうに見ている。

 駒がぶつかって交換して、を見るだけでも楽しいらしい。


 兄は眠そうに欠伸あくびをしている。

 その欠伸を引っ込めさせるような厳しい手を指したいが、唸って手を止めるのはいつも弟たちの側だった。

 駒を落として貰っても全然勝てない。

 それは宋寿自身もであるし、一つ年下の看恕も別ではない。


 横目で確認すると、看恕はすさまじい形相ぎょうそうで盤面をにらみ考え込んでいる。

 この四男が一番宗看の影響を受けていた。

 兄の真似をしているのか妙に尊大そんだいで生意気だが、その才能は本物だった。

 一年の経験差がある分、直接対決しても宗寿が勝ち越すが、看恕は負けん気と終盤のきらめきに天性のものがあった。

 宋寿から見ても、羨ましいほどの輝きを放っている。

 終盤の才覚は生まれついてのものだ。

 その点で看恕は宗寿を明らかに上回っていた。

 悔しいが、そこの部分は認めていた。


 しかし、確かに終盤はとても重要だが、将棋はそればかりではない。

 自分も負けていられない、と宋寿は前傾姿勢で盤面を覗き込む。

 と、その時、宗看は低い声で言う。


「宋寿」

「はい、兄上?」

「前屈みになるな。背筋を伸ばせ」

「はい」

「前傾姿勢になる気持ちは分からんでもないが、前のめりだから良い手が指せるわけではないからな」


 兄自身、欠伸はしていたが、駒を指す所作しょさだけでなく、正座一つとっても茶道の家元と見間違うほど美しい。

 だから、この厳しい口調も宗看なりの優しさなのだろう。


 将来、御城将棋に出勤した際に恥をかかないよう、兄は礼儀作法れいぎさほうにうるさい。

 足を崩すなど兄の前では絶対にできない。

 しかし、厳しいだけで今の兄は怖くなかった。


 兄が独りで盤面に向かっている時なんてとても声をかけられない。

 それはそれは真剣に没頭し、将棋に向き合っている。

 まるで鬼と対峙たいじしているような迫力なのだ。

 おそらくおのれの中の最も強い部分と対峙し、最も弱い部分を退治しようと躍起やっきになっているからだろう。


 最強である兄は誰よりも強くあろうと妥協だきょうしない。

 同じ部屋にいるだけで息が詰まり、逃げ出したくなる。


 そういう時の兄は怖いが、今は違う。

 純粋に指導してくれていることが伝わるから怖くはないし、素直に指摘してきを受け入れることができた。


 宗寿の局面は既に劣勢を飛び越え敗勢はいせい

 もう自身に勝ち筋があるとは思えないが、投げるに投げられなかった。

 隣の看恕があっさりと投了とうりょうしたので、少しくらい意地を見せたいという心持ちもあった。

 何か手はないかと必死に足掻あがいていると、宗看は言った。


「なぁ、宋寿。お前はどうしてまだ指すんだ?」

「え」

「もう詰んでるだろうが。どうして指す」


 詰んでいると言われても宋寿には分からない。

 だが、分からないなんて口が裂けても言えないので、必死になって読んだ。

 そうして、ようやく見えた。

 詰むと言われれば分かる詰みが十五手後にあった。

 すじにない詰みで見えにくいということもあるが、これは練習であっても実戦なのだ。

 実戦中に、あるかどうか分からない詰みを読めるほどの腕が自分にはない。

 その悔しさから宋寿が唇を噛んでいると、宗看は視線を逸らした。

 看恕の方に目をやって言う。


「看恕はどうしてもう投げた」

「え」

「まだ詰みはないぞ」

「……も、もう勝ち目がないからです」

「説明しろ」

「はい」


 看恕は黙ったまま、駒をひょいひょいと動かした。

 兄の視線に怯えているのか、言葉での説明はなかった。

 だが、何が伝えたいのかを的確に読み取り、宗看は頷く。


「なるほど。正しい読みだ。悪くない答えだな」


 と、そう言ってから、宋寿に視線を戻した。


「で、宋寿はどうして投げなかったんだ」

「……詰みが見えていませんでした」

「なるほど。素直だ。悪くないな」


 宗看はニヤリと不敵に笑う。

 普段ならそれで納得するだろうが、宋寿は疑問を感じた。

 だから、質問する。


「兄上、『悪くない』とはどういう意味なのでしょう?」

「言葉通りだ。『悪くない』がどうかしたのか」

「それは褒められたのでしょうか? それとも激励げきれい……いえ、叱咤しったされたのでしょうか?」


『悪くない』と『良い』には格段の違いがあるはずだ。

 それは決して越えられないほど深い断絶。

 少なくとも宋寿はそう感じている。

 自分が『良い』になるためには何が必要なのか知りたかった。

 宗看は顎に手を当てて、しばらく考え込む。


「いいや……いや、そうだな。褒めたんだろうな。もちろん、宋寿だけじゃなくて看恕もな。諦めない姿勢も大事だし、最後まで読んで勝てないと認めて投了するのも立派なことだと俺は思った。何かおかしなことを言っているか?」

「いえ、ですが、あまり褒められた気がしません」

「そうか……」


 兄は難しいとばかりに頭をく。

 宗看が足を崩したので宋寿と看恕も少し楽な姿勢を取る。

 これからは私的な会話だぞ、という合図のようなものだった。

 そして、兄は苦笑めいた表情で言う。


「宋寿も看恕も、お前たちは実に素直だ」

「? はい」

「はぁ」

「将棋の指し手にも現れているが、それは俺には欠けた才能だからな。だから、褒めたんだ」

「そうなのですか?」

「俺は性根が歪んでいるからな」


そうなのだろうか? よく分からないが。


「兄上にない才能……」

「それに勘違いするなよ。良し悪しなんざ大したことじゃないんだよ。正直、大した意味もない」

「意味がない?」

「ああ、宋寿よ。例えばだな、飛車と歩兵、どっちが良い?」

「飛車の方が良いです」

「それは飛車の方が駒の性能が優れているというだけだろう。良し悪しとは無関係だ」

「えっと……」

「飛車の方がそりゃ有用な場合が多いかもしれない。でもな、飛車じゃ駄目な時だってあるだろうが。飛車だと使えないが、歩兵だと使えるって状況な」

「それは分かります」

「良し悪しなんてその程度のことだろ」


 言われて、考えてみて、宋寿は少しだけ分かった気がした。

 適材適所。

 適切な場合に必要なものが良いという事を兄は伝えたいのだろう。

 看恕は真剣な面持ちで兄に視線を送っている。

 一言一句逃さないと口をつぐんで謹聴きんちょうしている。


「ですが、それは褒めてくれたわけではなかったということですよね」

「いや、褒めていることも噓ではないんだがな……。あー、上手く伝わらんな。俺にはできないことをお前たちはやれば良い。俺は俺にしかできないことをやる。そういうもんだ。だから、悪くないんだよ」


 自分に相応しい時と場所で全力を尽くす。

 魚は海や川で。

 鳥は大空で。

 相手の能力を認め、正しい活用をしろ。

 そう言いたいのか。

 それこそが将棋の極意ということか。


 だから、兄はこちらの指し手を安易に否定しない。

 必ず意図を確認する。

 思い違いを正すことは多いが、少なくとも考えたことを否定されはしない。


 用兵の基礎は『人をどれだけ上手く活用させるか』なのだから、簡単に見限るなど下策ということか。

 最大限、駒を活用させるためには考え続けるべきなのだろう。

 威圧的なのは宗看の持つ才がそうさせるだけで、別に他意はないのか。


「では、『良い』になるためにはどうするべきなのですか」

「あ?」

「『悪くない』の先、『良い』に辿り着くためには何が必要なのですか?」

「そうだな……」


 宗看は考える。そして、言う。


「『勝つこと』。それだけだ。負けたらそれだけで『良い』はない。人は勝たねば噓になる」

「勝つですか……」


 宋寿は思わず唾を飲み込む。

 ものすごく難しい要求をされた気がした。

 たとえ、駒を落として貰っても兄に勝つことは容易たやすくない。

 棋力に差があると手合いを揃えて貰っても、最後の最後で一気に負かされることがあるのが将棋だ。

 頓死とんし(自分の王将の詰みを見落として詰まされること)の罠をいくつも張り、最後まできを緩ませないのが兄の流儀りゅうぎであった。


「強くなれ。それが大切なんだよ」


 宗看は面倒くさくなったのかそうまとめた。

 強さを忘れるな。

 それは頻繁に言われることだったので、身に刻もうと宗寿は思った。


「はい!」


 と、何故か無関係だった政福が真っ先に頷いた。

 宗看は破顔して、末弟の頭をクシャクシャにする。

 看恕はどこか複雑そうな顔で考え込んでいる。

 その時、母が道場にやって来た。


「印寿さん、人が訪ねてきましたよ」

「宗看ですよ」

「ああ、そうでしたね。忘れておりました。すみません」

「いえ、こちらこそありがとうございます。市十郎の野郎かねぇ」


 宗看は「しっかり勉強しろよ」と言って、頭を掻きながら出て行った。

 母は複雑そうな顔で呟く。


「……いってらっしゃい」


 宋寿はその母の背中に複雑な視線を送ることしかできない。

 宋寿達三人と宗看は母親が違う。

 宗看は異母兄なのだ。


 末弟の政福辺りはその事をまだ理解できていないようだが、宗寿はその複雑な関係を嗅ぎ取っている。

 宗看が外へ出てばかりなのは、継母と一緒の空気を吸うのが苦手なのだろう。

 だから、母が余所余所しくなるのも仕方ないのかもしれない。

 これは良いとか悪いとかではなくどうしようもないのだ。

 人が分かり合うことは将棋よりも難解な場合がある。

 しかも、割と頻繁に。

 宋寿は心の中で誓う。。


 ――僕がしっかりしないとな。


 宗看は鬼のように強いが、完全無欠ではないのだから、欠けた穴があれば埋めるため努力せねばならない。

 その意味で、宗看の次に年上の自分が頑張る必要がある。

 どんな事態にも備え、どんな要求にも応える覚悟が必要だった。

 そのためには今程度の強さでは駄目だ。


 さて、と気合いを入れ直して、弟達に宣言する。


「将棋、勉強しようか」

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