第33話 象

 ――強くあらねばならない。


 何よりも。

 誰よりも。


 

 だから、もう泣かないし、泣くような事態には決して陥らない。

 余計なものは削ぎ落とし、必要なものを精査した。

 鍛え抜かれた刀のように研ぎ澄まし、ただただ将棋道に邁進まいしんする人生を送ってきた。


 その結果が鬼宗看という畏怖いふを伴ったあざな


 名人になったからには図式を作り上げ、幕府へ早急に献上する必要がある。

 鬼宗看の名に相応しい空前絶後の傑作を完成させねばならなかった。

 一刻も早く。

 空前絶後の傑作を。

 その異なった二つ重圧に、宗看は煩悶はんもんとする日々を送っていた。


 そんなある日のことである。

 神妙な顔をした弟二人が部屋にやってきた。


「兄上、お願いがございます」と看恕。

 看寿もコクコクと小刻みに隣で頷いている。

 いつにない態度に、宗看は居住まいを正して次を促す。


「ふむ、言ってみろ」

「実は――」


 余計なものは捨ててきた。

 故に、宗看が弟たちの願いを叶えようと思ったのは酔狂でしかなかった。


   +++


 享保十三年(一七二八)。

 つまり、宗看が名人に就位した年である。

 実はこの年に、ある出来事があった。


 享保の改革で有名な八代将軍、徳川吉宗も別に一から十まで民衆に節制を強いていたわけではなかった。

 例えば、見世物としてを開放したという実績がある。


 それは日本には存在しない異形の生物。

 長い鼻、桐の葉のように大きな耳、牛よりも大きな巨体を備えていた。

 そう、象である。

 吉宗は清国商人から献上された象を見世物として一般公開したのだ。

 場所は現在の浜離宮恩賜庭園はまりきゅうおんしていえん

 多くの人が見物に訪れたと文献に残されている。


 そして、宗看たちも見物に訪れていた。

 弟二人に神妙な顔でお願いをされ、仕方なしに人混みの中、象見学をすることになった。


 ――お願いです、象とやらを見てみたいのです。


 正直、宗看は断るつもりだった。

 そんな時間があるくらいなら将棋の勉強をすべきだ、と正論で諭せば弟たちも諦めただろう。

 ただ、こちらの気配を察したのか、少し涙目になっている弟たちを見て不憫に思ったというだけ。

 もちろん、もうひとつ別の理由もあったが、それは――。


「うおぉ……」


 宗看の口から感嘆の声が漏れる。

 象のあまりの大きさと奇妙さに驚愕していた。

 今まで見たことのない生き物だ。

 馬や牛よりも随分と大きい。


 おそらく、自分が幼い頃だったら絶対観に行きたいと駄々をこねたに違いない。

 見物に来たのは、父親代わりとしての役目を果たす義務感もあった。


 ただ、最終的に宗看が、興味の薄い西方の異形を見ても良いと翻意ほんいした理由は、象の名前にあった。

 中将棋では今も使われているが、昔、小将棋にも醉象すいぞうという駒が使われていた。

 玉の前に配置され、敵陣へ行くと太子に成る。

 背後以外は動かせる強い駒だったが、簡略化という時代の流れで失われていった。

 その名前が使われている『象』というのはどんな生き物か興味が生まれ、実際見物した結果、宗看は感動していた。

 酔狂で象を見に来た。

 この状況こそ醉象だ、と宗看は内心で苦笑する。


「兄上―、見えませぬー、見えませぬー」


 すまない、すまないと宗看は政福を肩車する。

 看恕は「私は結構です」と言い張っていたが「見えないと勿体ないだろう」と、看恕の脇を抱える形で持ち上げた。

 こういう時に、他人よりも背が高いと有利である。

 象を目にした二人は息を呑む。


「見たことがない生き物ですよ、すごく大きいですよ! 兄上!」

「象だ。あれが象という生き物だ」

「兄上、あの長い……鼻ですか? で、蜜柑を食べましたよ! 一体、あの巨体でどれほど食べるのでしょうか?」

「米なら一升や二升ではないだろうな、俵だろうな」

「あんな鳴き声の動物がいるなんて! ぱおーん? ぱおーん?」


 高い声で笑う政福に、ただただ息を漏らす看恕。

 反応は異なっているが、弟二人の喜ぶ姿に宗看は嬉しくなった。


 強くなるために余計なものは捨ててきた。

 そのつもりだった。


 こんな異形が海の向こうには存在しているのだ。

 宗看が今まで見た事のない景色、見た事のない生き物がこの世には数多存在しているのだろう。


 想像すらできない世界の実在。

 それはとても不思議なことのような気がした。

 そこで、ようやく宗看は自分の肩の荷が重くなり過ぎていることに気付かされた。


 幼い弟たちを抱え、史上最年少の若さで将棋所に就任した。

 鬼のように強い宗看の名は江戸に広がりつつある。

 そんな鬼才が献上する図式はどれほどの物だろうと期待されている。

 それが知らず知らずのうちに過度な重荷になっていたのだ。


 しかし、人が生きていく中で関知できることなど、自分で思っているほど多くはないのかもしれない。

 少なくとも、今日、象を見るまで、象という存在は関知していなかった。

 

 それはとてつもなく奇妙な事のような気がしていた。


「はは、はははっ」

「兄上、どうされたのですか?」

「いやな、看恕。この世というのは実に面白いな」

「はぁ……?」

「楽しいです!」


 政福は象から目を離さずに叫ぶ。

 足をぶんぶんと振り、それに蹴られた宗看は少し痛かったが気分が良かったので寛大な心で許す。

 ただし、ももつねることは忘れない。

 末弟の輝くような悲鳴に、宗看は看恕と目を合わせた後、どちらともなく笑い合った。


   +++


 後日談。


「ええ、私は大橋家へ養子に行ったので仕方ありません。別に全然見たかったわけではありませんし、構いませんから。全然見たくなどありませんし、象など……象など!」


 大橋宋寿が密かに拗ねたし、


「………………」


 伊藤家家守の娘である一茶が恨みがましげな目で見られた。お前は父親か母親に連れて行って貰えよ、と思わなくもなかったが……。


 結局、その後、二人も連れていくことになったのは余談である。

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