第34話 浮気

 時折、庭から笑い声が聞こえてきた。

 看恕はそれを横目で確認する。


 庭で弟の政福と家守の娘である一茶が遊んでいるのだ。

 二人は茣蓙ござを敷いて、懐中将棋(紙製の将棋)ではさみ将棋を楽しんでいた。


 わざわざ懐中将棋なぞを使っているのは、盤駒ばんこまを汚したくないから。

 わざわざ庭に茣蓙を敷いているのは、外で晩春の心地よさを味わいたいから。


 はさみ将棋とは歩兵のみを用いた遊戯だ。

 歩を動かして、相手の駒を取るという簡単な遊びである。

 もっとも、簡単なのは規則であって、練達者同士が遊ぶと千日手模様せんにちてもようになる程度には複雑な面もある。


 間違いなく政福は練達者の部類だ。

 間違いなく一茶は素人の部類だ。


 しかし、勝負は良い感じに負けたり勝ったりを繰り返しているようだった。

 おそらくは政福が真剣に読んでいるからだ。

 お互いが退屈にならないように、どうすれば自然に見える形での『良い勝負』ができるかの演出を考えているのだ。

 それはただ勝つよりも何倍も難しいはずだった。


 政福は勝ち負けに拘らない。

 将棋を楽しむことを最優先している。

 楽しければ敗北さえも受け入れる姿勢は――まだ十歳を過ぎたばかりとは思えない考え方である。

 看恕は正直、その底知れなさに恐ろしさも感じていた。


「看恕」

「はい、兄上」

「気になるなら外で遊んでも良いぞ」

「いいえ」

「そうか……」

「すみません」


 きびしい顔をしている宗看に謝る。

 兄に練習将棋を頼んだのは看恕からだった。

 普段は駒を落として勝負していたが、今回は平手ひらてで勝負をしてもらっていた。


 実力差は看恕も理解していた。

 それでも、定期的に平手で指していたのは、鬼宗看さえもいつかは超えるべき壁だと理解していたから。

 そのためには真摯しんしに挑むしかないのだ。

 へこたれず、試行錯誤しながら努力する以外の道はない。


 それにしても、本日はいつも以上に歯が立たなかった。

 一方的に押し切られている。

 平手で看恕が勝つことはほぼありえない。

 しかし、一手違いにまで追い詰めることはそれなりにあるのだ。

 今日はそんなことが言える段階にまでたどり着けていなかった。


 看恕もどうにかして反撃しようとするが、宗看はこちらの意図を先読みしてやりたかったことを潰してしまう。

 あまりに強い。

『鬼宗看』の面目躍如めんもくやくじょだった。


 ここまで一方的なのは外の二人の楽しげな様子が横目に視界に入っていたからではない、と思う。

 多分。


 今、宗看は考え込んでいる。

 将棋所に任じられて以降、若くして威厳いげんが出てきたが、この日はより一層迫力がある。

 胡座あぐらをかき、やや俯き加減で、何かを睨みつけている。


 看恕は自分が悪いと思った。

 あまりにもつまらない将棋を指したせいで、宗看の機嫌を損ねたのだ、と。

 

 しかし、そう考えるとおかしなこともあった。

 現局面を考えているようには見えなかった。

 先ほど注意したのだから、尾を引くような性格はしていない。

 もう宗看が圧倒的に優勢なのだから、そこまで厳しい顔をしている理由が分からない。


「ううむ……」と時折看恕同様唸っているが、盤面は指す時にすこし確認する程度だ。

 この人は何を見ているのかという疑問は思考の端に浮かぶだけ。

 今の局面からどうすれば逆転できるかで頭が一杯だった。

 看恕は勝ち目の見えない局面に思わず質問を漏らす。


「そういえば、この駒、あまり見ないものですね」

「ん?」

「いえ、よく使われているようですが、初めて見た駒だったので」

「……そうか? ん? ああ、これはの駒じゃないか……」


 そこで気づいたとばかりに宗看は目を丸くする。

 兄上――つまり、長男である印達が使っていたものか。

 しかし、看恕が生まれる前に早逝そうせいした兄のことはもちろん知らない。

 少しだけ興味をそそられ、看恕は質問する。


「普段はあまり使っていませんよね」

「ああ、まぁな」


 宗看はポツリと言う。


「図式の創作の際に使っているんだよ」

「そうなのですか」

「あとは棋譜並べの時に使っているだけで、まぁ、そういう感じだ」


 それは使い込まれている駒だった。

 それ以上に大切にされていることが分かる駒だった。

 その時の宗看の気まずそうな表情で、ふと思ったことがある。

 あまり知られたくなかったことなのかもしれない。


「……さっきから心ここにあらずって感じですが、どうしたんですか?」

「……実は、今創っている図式について悩みがあってな」


 図式。

 看恕は内心で顔をしかめる。


「図式ですか?」

「ああ、ちょっと上手くまとまらなくてな」


 そもそも、作物図式=詰将棋とは何か?

 王手の連続で相手の玉将を詰ます問題のことである。


 攻め手は王手の連続で攻め、最短手順で玉将を詰まさなければならない。

 逆に、受ける玉方は、最長手順になるように逃げなければならない。

 いくつか特異な規則はあるが、それは指し将棋とは異なった体系の遊戯だからだ。

 詰将棋には謎解きの側面と芸術の側面があった。


「……結局、どこまでも創作の工夫って終わらないんだよ」

「どういうことですか?」

推敲すいこうを始めると終わりが見えない」


 推敲ですか、と呟く看恕。

 その表情は険しい。

 推すかたたくか、という中国の故事を知らないからではなく、詰将棋の推敲が苦手だったからの表情である。


「兄上であっても、推敲を始めると終わりが見えませんか?」

「ああ、駒の配置や詰め手順に拘り始めるときりがない」

「ですが、理想的な形というものはあるのですよね」

「理想はあっても、完璧はないからな」

「理想があるなら、それを追求すれば良いのですよね?」

「正論だ。でもな、簡単な問題じゃ献上するに値しないが、難解な問題だから喜ばれるとは限らない。その調整も難しいんだよな」

「そういうものですか……」

「ああ。他人事ではないぞ。看恕だっていつかは作るんだからな」

「はい……」


 正直、その未来が見えなかった。

 政福のように嬉々として詰将棋創作に取り組む自分は想像できない。


「攻め方は持ち駒を使い切るって規則は取り入れようと思うんだがなぁ」

「そうすると制限が生まれますね」

「制限こそが味を深くしてくれるんだよ」


 余談であるが、現代にも残されているこの『駒を使い切る』というルールは宗看が定めたものだった。

 それから特に詰将棋のルールは変更されていない。

 つまり、ある意味で宗看の手により詰将棋という芸術が完成されたのだった。


「美しさは必須なんだよ。創意工夫と情熱が合わさる事で、図式はより素晴らしいものになるはずなんだがなぁ……」


 政福と同じようなことを言っている。

 ある種の感動、美しさが欠けていては解答者の心を揺さぶれない。

 宗看が求めていたのは未だ誰も到達したことがないその境地だった。


 楽器を奏でない人間でも音楽に感動するように、絵筆を持たぬ者でも絵画に涙するように、詰将棋を知らない者ですら感嘆の息を漏らす作品が目標だった。

 しかし、それはまだまだ未達の境地。

 宗看の見る夢でしかない。


「おや」


 そこで宗看は局面を見直したのか、驚いたように目を丸くする。

 参ったなあとばかりに後頭部を掻きながら呟く。


「……俺がこんなに有利になっていたのか」


 え、と看恕は声が漏れそうになる。

 気づいていなかったのか?


 そこで理解する。

 宗看は今まで常に手加減してくれていたのだ。

 普段は手を読み進め、一方的にならないよう上手く調整していた。

 それが他の事に意識が飛んでいたせいで、手加減できなかったのだ。

 こちらが真剣に考えたよりも、直感だけで指す方が強いのだ。

 はさみ将棋をしている政福と一茶くらい実力差があるということだった。


 そもそも、直感とは何なのか?

 それは素人の思いつきとはまるで別物である。

 専門家や玄人の直感は、膨大な経験と知識が磨き上げてきた宝石のようなものだ。

 そういう点で、宗看と看恕は積み上げてきたものの次元が違っていた。

 江戸に名が轟く『鬼宗看』の実力は桁が違った。


 看恕はそこで投了する。


「兄上」

「ん?」

「……先ほどから険しかったのは図式のことに気がいっていたからですか」


 宗看は返事をしなかった。

 どこか気まずそうにしている。

 いつも図式創作の際に使っている印達の駒。

 それのせいで将棋に集中していなかったのだ。

 遊びに行けと言ったのも、集中できていない看恕のことを叱るためではない。

 あくまでも自分の都合だったのだ。

 それにしても、指導をしてくれている時ぐらいはもうちょっとこちらに集中して欲しいものである。

 そう笑おうとしたが、出たのは――。


「あれ?」


 看恕の瞳から溢れたのは涙だった。


「か、看恕……?」


 宗看が目を丸くしている。

 看恕も内心で驚いていた。

 どうして自分が泣いているか分からず混乱する。


 それは矜持きょうじの問題。

 宗看を本気にさせられなかったことで、自分の弱さに情けなくなったのだ。

 弱さに泣く。

 その誇り高さこそが看恕の才能であった。


「いえ、兄上、違うのです。違うのです」

「どうしたのだ、一体」


 看恕はそう言いながら涙を必死に拭う。

 宗看はいつにないほど慌てふためいている。


 そして、それを実は見ていた人間が一人いた。

 庭にいた一茶である。

 気の強そうな顔立ちをした少女だが、いつも以上に視線が刺々しい。


「……馬鹿」

「え?」


 短い暴言を政福の前で発した後、軽やかな足取りで宗看と看恕の前に立った。

 二人を見やった後、宗看に向き直る。


「『鬼宗看』」

「え」


 厳しい声で名前を言うと、宗看は珍しくも戸惑った若者らしい表情を浮かべている。

 そして、一茶はスパーンとすごく良い音を立てて、宗看の頬を張り飛ばした。

 叫ぶ。



 宗看は頬を張り飛ばされた衝撃で動けない。

 看恕は涙が止まるほど驚く。

 政福は「あはは」と楽しそうに笑う。


 一茶はそれだけを言って脱兎の如くその場から逃げ出す。

 ただ、逃げ出す途中で振り返り、


「ばぁぁぁぁぁぁぁぁかぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 とだけ言い捨ててそのまま去って行った。

 何が起きたのか、その場で把握していたのは一番外にいた政福だけだった。

 楽しそうな表情で笑っているが、言葉は発しない。

 時間が止まったかのような空気の中、涙の止まった看恕は恐る恐る訊ねる。


「兄上……大丈夫ですか?」

「あの餓鬼がき……」


 宗看は顔を真赤にして怒り狂っていた。

 赤鬼のような形相だった。

 しかし、その怒りも長くは続かない。

 一茶の言葉の正しさをどこかで認めていたからだった。

 その冷徹ともいえる冷静さが宗看の本質。

 宗看は嘆息をしてから看恕に向き直る。


「……看恕、すまなかったな」

「い、いいえ」


 看恕としては首を横に振るしかなかった。

 その場で政福が楽しげに言う。


「兄上の負けですね」

「……何がだよ」



 全てを見透かしたような末弟の一言に。

 宗看はため息をついて、天を仰ぐ。


「そうだな」

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