第38話 最長手数
享保十五年(一七三〇)。
宗看が名人に就位して二年の月日が流れていた。
宗看の献上図式はあともう少しで完成というところまでできていた。
+++
一茶が市十郎からの手紙を届けた時、宗看は将棋盤に向かっていた。
真剣な表情で何らかの局面を検討している。
思わず見入ってしまうが、こちらに気づく様子は
それがなんとなく腹立たしく思い、一茶は強い口調で声をかける。
「宗看さんっ」
「…………」
返事がない。
一茶はため息をつく。
家業だから当然なのだろうが、疲れを知らないのかと思う。
怖いほどの集中力である。
それにしても、どんな将棋を考えているのか。
いや、詰将棋を作っているのかもしれないが、一茶にとってはどちらでも違いはなかった。
この人が考えている局面など理解できるわけがないのだから。
それにしても、もうずいぶん長い付き合いになるが、そこまで熱中できる理由が一茶は未だに分からない。
そこまでの棋力がないし、知りたいと思う気力もなかった。
集中してこちらに気付かない宗看に再度大きな声をぶつける。
「宗看さん、手紙です」
「ああ、一茶か。……市十郎からだな。悪いな」
宗看は口ではそう言うが、将棋盤から少し顔を上げただけだった。
その態度が不満で一茶は頰を膨らませる。
せっかく、父の代わりで
「……お前は
「どうして見えているんですか」
「蹴られたくはないからな」
「私、宗看さんを蹴ったことなんてないじゃないですか」
「そうだっけか。駒を投げつけられたんだっけか、ひっぱたかれたんだったっけか」
「覚えていませんよ」
忘れたなぁ、と呟いているが、どちらにせよ趣味が良くない人だ。
小さい頃は宗看に対して、やや反発的な態度を取っていたかもしれない。
でも、それも昔の話である。
正直な話、今も宗看に苛立ちを覚えることは多いが、それを押し隠せる程度には成長している。
しかし、やはり年頃の娘に対してそれはどうなのか。
「宗看さん、それよりも返事はどうします?」
「んー、あー」
「……帰って良いですか」
「いや、すまんすまん。ちょっと待ってくれ」
宗看が書き物の準備をしているのを横目で見ながら一茶はため息。
子どものように集中していたら、他のことはどうでも良くなる性質なのだ。
一茶は宗看ににじり寄り、並べていた盤面を覗いた。
「これはどういうものですか?」
「ん? 興味あるのか?」
「いえ、全然」
「そうか。残念だ」
「あら、残念なんですか?」
「意外か」
「ええ」
「なぁに、一茶は将棋に対してあんまり興味を持ってくれなかったからな。興味を持ってくれたら嬉しいじゃないか」
「…………少しくらいは興味ありますけど」
「そうかい。ま、俺の作った詰将棋の確認だよ。間違いはないか並べてみた。万が一にも間違いはないようにな」
「献上図式ってやつですか」
「ああ」
「へぇ……難しそうですね。駒が凄い並べてある」
「解いてみるか」
「無理ですよ、何手で詰むんですか?」
「二二五手」
「長い!」
「だろう?」
ニヤリと宗看は自慢気に笑う。
思わず、すごいと思ってしまったのは不覚だった。
「そんな長い詰将棋が創れてしまうんですね」
「まぁな、これも自信作だぞ。何せ、今までの最長手数は『将棋精妙』九十六番の九十九手詰めが最長だったからな」
「倍以上! へぇー」
「そんなに驚いて貰えると嬉しいねぇ。ま、俺の目が黒いうちにはこの記録は抜けないだろうさ」
宗看が言うのであればそうなのだろう。
余談であるが、『将棋大矢数』には歩が十七枚残る三百九十三手詰めの作品があるが(馬鋸の一号局)、これは本来であれば八十五手詰めの作品だから計算外になる。閑話休題。
一茶は疑わしげな表情で言う。
「……そんなの解ける人がいるんですか?」
「看恕や政福なら一両日もあれば解いてしまうさ」
「実は妖怪なんじゃないですか、三人とも」
呆れたように一茶は言うが、本当に妖怪と見紛うばかりの将棋莫迦である。
「それで褒めているつもりなら、一茶は人を褒めるのが下手だな」
「別に褒めていませんからね」
「え?」
書き物をしていた宗看は顔を上げ、そして、何故か意外そうな顔をした。
この人は少し阿呆なのだ。
細かな機微が理解できない。
思わず一茶が吹き出すと、宗看も子供のように笑った。
本当にこの人は良くも悪くも変わらない。
一茶はどこか慌てながら質問する。
「そういえば、手紙の内容って何だったんですか? 急ぎだと言われたんですが」
「ああ、大したことじゃないんだが、準備をしていたんだよ」
「準備?」
「俺の名声はこの献上図式で最高に達するだろうさ。その時が
「はぁ……」
一茶には全く理解できない。
しかし、不敵に笑っている姿はなんというか……意外と悪くない。
思いついたその気持ちを打ち消すために悪態をつく。
「それで説明しているつもりだとしたら、宗看さんは説明が下手ですね」
「言葉足らずなのは自覚しているよ」
「なら、もうちょっと分かるように喋って下さいよ」
「ふむ、俺の目標は知っているか」
「さぁ」
「将棋の地位をどこまでも高めることさ」
「はぁ?」
一茶の呆れ顔に気づかないで宗看は拳に力を込めて語る。
「誰もが将棋を理解し、将棋家の名前を聞けば自然と
「それは例えば、相撲の大関のような? 歌舞伎の成田屋のような?」
「そうだな、そういう感じだ。でも、もっともっと上だな」
余談であるが、この当時の相撲の最高位は大関であった。
横綱という地位が生まれるのは、寛政二年(一七九一)の谷風や小野川を待たねばならない。
一茶は少しだけ考えて言う。
「それはすこし難しくないですか?」
「どうしてだ?」
「だって、将棋ですよ? 賭博の一種じゃないですか。いえ、賭博じゃないのかもしれないですけど、賭博みたいなものでしょ。相撲とは違います。無理ですよ」
「相撲だって金を賭ける奴は賭けるだろ?」
「それはそうかもしれないですけど……でも、やっぱり相撲は違いますよ。神事でもあるじゃないですか」
「そもそも、金を賭けることが好きな奴にとっちゃ神事かどうかなんて関係ないだろう。だから、賭博かどうかと
「んー、やっぱり、将棋は低俗なものだと思います」
「一茶は将棋が嫌いみたいだな」
「別に嫌いじゃありませんよ」
「好きかどうかで言えば?」
「答えは控えさせてもらいますよ。私の母は賭け将棋で苦労したんで」
「ま、それは難儀な話だよな」
今は将棋家にお世話になっているから、感謝している面もあるけど、それは口にしない。
「それに、将棋よりも針の練習なんかした方がよっぽど有意義じゃないですか」
「それは賢い。だが、俺の夢が達成した
「そうですか、それはすごいですねぇ」
一茶のどうでも良さそうな口調に宗看は肩を竦めた。
熱く語っていた時とは打って変わって、冷静な口調で呟く。
「その為には皆の意識改革が必要になるがな」
「意識ですか?」
「ああ、実は上品だの下品だの大差はないんだ。伝統も文化も全ては人次第。例えば、嫌いな奴に言われたらどんな
「宗看さんって、実は凄く当たり前のことを言ってますよね」
「一茶は賢いな。俺はお前のそういう部分が好きだよ」
「…………はぁ」
一茶は呆れるしかない。
ため息が我知らず漏れた。
宗看が笑う。
「そう怒るなよ。割と大事なんだぜ。好きになって貰うってことはな」
「もう良いです。つまり、その手紙はそういう好きになって貰うためのものだってことですよね。そして、それは宗看さんの目的にとって必要なんですよね」
「ま、そういうことだな。どんなことも、挑むためには入念な準備は必要なんだよ」
「入念な準備、ですか」
「ああ、一茶何か果たしたかったら徹底的に準備するんだ。下手したら俺だけじゃなくて、数代かけてもな。そうすれば、自分よりも強い奴を倒せるかもしれない」
「それでも『かもしれない』なんですね」
「そりゃそうだろ。強い奴は準備を既に済ませているんだからな」
「実は凄く無駄な話をしていません?」
「いや、そんなことはない」
「それに、数代かけようにも宗看さんって、子どもいないじゃないですか」
「政福たちがいるじゃないか」
「……宗看さんって結婚する気はないんですか」
「さて……ま、二人が成長して余裕があれば、かねぇ」
本気で言っている。
多分、この人は看恕か政福のどちらかを後継者にしようと考えている。
だから、自分が結婚して血の繫がった子どもが必要だと思っていないのだ。
一茶はため息をごまかすように質問を続ける。
「で、その為に宗看さんは今どんな文章を書いているんです」
「……いや、まぁ、とにかく、準備は必要ってだけだよ」
何故最後の最後でごまかそうとするのか。
そんな言えないようなことを企んでいるのか。
一茶は疑わしげに睨むが、宗看はどこ吹く風。
ほれ、手紙だ、市十郎へ頼む、と宗看は墨が乾いたそれを手渡してきた。
「まぁ、頑張って下さい。応援しています」
「応よ、期待してくれ」
「応援はしますけど、期待はしませんよ。無理に決まってますからね」
「なんだよ、それは」
「無理なことを期待するのって辛いじゃないですか」
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