第39話 大迷路
「これが俺の最高傑作だ」
ある日、宋看はそう言った。
今後こそは自分が政福より先に正解してやる、と心に決めた。
兄としての威厳を守るため看恕は真剣であった。
+++
その決意は果たされることになる。
「――よって、以上一六三手で詰みます」
「正解だ。流石だな」
「ちなみに、政福は?」
「まだだな。お前が先だ」
看恕は内心で快哉を叫ぶ。
弟に先んじて解くことに成功したことで、ここまで喜びに満たされるとは自分でも思っていなかった。
それにしても、実に立ち向かい甲斐のある図式であった。
宗看自身で最高傑作と公言するだけあった。
宗看の図式は手強いものばかりで単純に見えても一癖も二癖もある。
そもそも、どうしてそんな発想が生まれるのかというものばかりだ。
政福はとんでもない天才だが、詰将棋の早解きには看恕も自信があった。
事実、これまで遅れを取ることはほとんどなかったし、先んじることも珍しくはない。
早く正確に解くという点に関しては、自分が誰よりも上であると確信があった。
その証明に成功した結果――看恕の自負心は満たされていた。
思わず、顔がにやけそうになるのを自重する。
ただ、ひとつ……いや、ふたつ違和感があった。
まず、宋看はとても朗らかな笑顔だった。
「こんなに早く解いてしまったか」と言う割には全く悔しそうではない。
むしろ、嬉しそうな態度に看恕は若干違和感を覚える。
入魂の作品をたった一昼夜で解かれてこの態度は度量が広すぎるのではないだろうか。
いや、それでこそ兄なのだ、と看恕は違和感を振り払い一層感服する。
宗看は看恕に訊ねる。
「この作品はどうだった?」
「はい、龍追いの趣向が恐ろしく難解でした」
「俺の意図は分かったか?」
「意図、ですか……」
龍が玉を追いかける趣向がこの作品の主題であるはずだ。
もちろん、他にも複雑な作意があるのは分かる。
しかし、単純にそれらが意図であると応えるのでは落第になるだろう。
一六三手。
宋看が考えた図式の中には、二二五手というより長手数のものも存在している。
ふたつ目の違和感はそこだ。
二二五手詰めの作品を宗看は創っている。
つまり、長さを誇っての最高傑作というわけではない。
それ以外にも、あまりにも完璧だった弥次郎兵衛のようなあの左右対称図式を差し置いて、最高傑作というのだから何か明確な理由があるはずなのだ。
正解したが――看恕にはそれが分からなかった。
ただ、分からないなりに看恕は言葉を選びながら言う。
「……玉の逃げ道ですか? 幾通りも道があり、どれが正しいのか分からず、苦労しました」
「そうだ! それだ! 看恕はやはり大したもんだな」
宗看は喜色を浮かべて膝を叩いた。
正解だったようだ。
看恕は内心胸を撫で下ろす。
龍が玉をひたすら追いかける作品なので当たり前の答えなのだが、宗看に手放しで褒められて悪い気はしなかった。
「ありがとうございます」
「あの趣向はな、見世物小屋へ行った時のことがきっかけになったんだぞ」
「見世物小屋? えっと……?」
「ほら、『手妻』や『水芸』を見て回ったじゃないか」
「ああ、そういえば、そんなこともありましたね」
やや苦い思い出だ。
それなりに楽しかったからこそ切なさが去来した。
――もっと素直に、一茶と一緒に見て回れれば良かったのに。
そこで看恕はハッとさせられる。
「……しかし、それが趣向とはどういう意味ですか?」
「それはな――ま、もうちょっと考えてみてくれ」
宗看は説明しようとしたが、途中で気が変わったのかニヤリと笑ってそう言った。
看恕は途端に不安になった。
「……もしかして、僕の答えは間違いでしたか?」
「いいや、間違ってはいないさ。ま、そこも含めて考えてくれ」
「はぁ……」
この含みのある言い方であれば、なにかあるのだ。
しかし、正解であることも間違いない。
つまり、何かが不足していると考えるのが自然である。
何よりも政福がなかなか解答しないことが不可解だったからだ。
その何かが分からず、看恕は思考という沼にはまり込むことになる。
+++
数日後。
「看恕兄上」
「ああ、政福か……」
「? お疲れですか?」
看恕の顔色は悪い。
この優秀な弟よりも早く解き終わったつもりになっていたが、それが勘違いだったのではないか……という心労が溜まっていた。
ただ、それを口にすることはない。
看恕は笑う。
「いいや、特に問題ないぞ」
「そうですか。看恕兄上は兄上の最高傑作、もう解いたのですか」
「……解けたのか、政福」
「はい、看恕兄上はどうですか」
「……正解だったよ」
「さすがですねぇ!」
「ただ……僕は完答していないのかもしれない」
「ああ、なるほど」
政福は納得した。
つまり、何らかの答えに至っているのだ。
看恕の至れなかった地点に。
「私も正解しているかどうか分からないので、兄上に確認してみますね」
政福は宗看の元へ足を向けた。
看恕は無言で後を追う。
政福は宗看の顔を見つけるなり挨拶もそこそこにいきなりこう言った。
「兄上、九通りですね!」
「完璧だ」
宗看は即座に応じていた。
それは意味不明の会話だった。
一六三手が正解だったということは詰め手順ではない。
しかし、兄は完璧だと言った。
九通りという言葉の意味が分からず、看恕が狐につままれていると宋看は困ったように首の裏を掻いた。
どこか申し訳なさそうでもある。
「あー……看恕もいたのか」
「はい、兄上。九通りとはどういう意味なのですか? 見世物小屋とどうつながるのです?」
「そうだな。政福、悪いが説明してくれ」
「はい! よろしいですか、看恕兄上。兄上、紙を一枚いただけますか」
政福は宗看から受け取った紙に何かを書き出す。
【い】
『7四→8五→9四→8三→7四』
【ろ】
『7四→6五→5六→4七→3八→2七→3六→4五→3四→4三→5二→6三→7四』
【は】
『7四→6五→5六→4七→5八→6七→7六→8五→9四→8三→7四』
【に】
『7四→6五→5六→4七→5八→6九→7八→8七→7六→8五→9四→8三→7四』
【ほ】
『7四→6五→5六→4五→3四→4三→5二→6三→7四』
政福はその下に、
【いろはにほ】
【いろはほに】
【いろほはに】
【いはろにほ】
【いはろほに】
【ろいはにほ】
【ろいはほに】
【ろいほはに】
【ろほいはに】
と一見すると意味不明かつ暗号めいた言葉を書いた。
看恕も途中からそれが何を意味しているのか分かった。
なぜならば、彼自身も薄々は気づいていたからだ。
主題はそれだ、と宗看に言って褒められたのだ。
「それは……玉の逃げる道だな。7四を始点にして、どういう順路で龍に追われて逃げるのかという道だ」
「はい、その通りです。ちなみに【ほ】の順路は逆もあるのです」
「それも分かる。しかし、それがどうしたというのだ?」
「はい、私はこの逃げる順路にはどういう意味があるのかを考えました。それこそがこの詰将棋の主題だと思ったのです」
看恕も同じことを思ったが、そこまで踏み込んで考えることはできなかった。
政福は説明を開始した。
「まず、【い】の順路ですが、ここは狭いです。9六のと金を取られてしまうと、二回目に逃げ込もうとしても、7七にある歩を取られるので詰んでしまいます。だから、【い】の順路が使えるのは二回だけです」
分かる。
「【ろ】の順路は3七の銀が
分かる。
「【は】の順路も一回だけ。6七の歩が消えると5九に歩が打たれるからです」
分かる。
「【に】の順路も5九の歩ですね。一回が限度です」
分かる。
「【ほ】のは2二の歩を一回目に、二回目で収束に入る形ですね。よって、【ほ】が最後に追い込まれる順路になります」
分かる。
「ここまではそう難しくはありません。問題はこの【い】【ろ】【は】【に】【ほ】の五つをどういう手順で組み合わせることができるかなのです!」
分かる。
「結論を先に言うと、一部限定されている順序があります。【い】は【ろ】の後で構いませんが、【は】の後では駄目です。【ろ】は【は】の後で構いませんが、【に】の後では詰みません。このような不可能な順を考えていくと、玉の逃げ道は幾つかの組み合わせに限定されます」
分かった。
ここまで政福に説明されて、看恕はようやく理解した。
「それが九通りという事か……」
「はい! その通りです。私が先ほど書いた九つの手順しかないことがようやく分かったのです!」
九通りだけです――なんて言われても
分かるわけがない。
いや、分かる人間がそんな多くいるわけがないのだ。
そもそも、この説明を理解できる人間さえも多くないかもしれない。
詰将棋は最短手順で王様を追い詰める遊戯だ。
通常は答えは一つしかない。
しかし、宗看はその王様の逃げ方を九通りも用意した。
よって、答えは「百六十三手詰め」で正解なのだが、その逃走手順は「九通り」あり、そこまで解き明かすことで完璧になる。
詰将棋の答えは一つしかないという常識を覆す素晴らしい発想である。
そこまで考え抜いたのが『鬼宗看』の――最強名人の最高傑作だ、ということ。
それは言っては悪いが――狂気の沙汰である。
看恕は頭の中で整理しようとしたが、麻痺したように思考が鈍化している。
受けた衝撃が強すぎて思考がまとまらない。
五つの順路は単純計算で百二十通りの組み合わせがあるはずで、そのうちの九つだけが正しいことまで気づくなんて人間業とは思えない。
――これは政福が異常というだけなのだ。
一昼夜でこの複雑怪奇な詰将棋を正解してしまう看恕も紛れもない天才である。
ただ、こんな誰も考えついたことのない傑作を創り上げる宗看やその真意を見抜く政福が神域に至った天才というだけ。
天才にも濃度がある。
一次元、二次元上の天才が宗看と政福であった。
動けない看恕のことに気づくことなく、政福は天真爛漫に笑いながら言う。
「正解ですよね、兄上?」
「完璧だ。特に補足はないな」
「そうだ、さっき看恕兄上が見世物小屋がどうとか言ってましたよね? 何のことですか?」
「ああ、あの時な、市十郎に言われたんだよ。『どれを選ぶか考えるのが楽しいんだ』とな。見世物小屋のどれから入ろうって試行錯誤する自由さ、そういう趣きを詰将棋でも活かせないかなと思ってな」
「なるほど! 実に素晴らしい着想! 正に驚天動地! 実に楽しい詰将棋だと思います!」
「美しさと正しさに楽しさまで加わるんだ。俺の最高傑作に相応しいだろう?」
「はい!」
一六三手の詰将棋を創作すること自体も凄いことなのだ。
二二五手はもちろん、一六三手であっても史上最長手数の記録を更新した詰将棋なのだ。
過去のいかなる名人であっても、宗看の域に達したものは存在していない。
しかし、ここまで深く考えて創作しているというのは異常だった。
そして、それを真に理解するためには正しいことを完璧に分解し、理解せねばならない。
早く正確に解答するなんて当たり前だったのだ。
その先に踏み込めるかどうかが重要なのだが――看恕はそこに踏み出すことさえ叶わなかった。
看恕の視界が歪む。
開けていたと思っていた世界が塗り潰されていく感覚。
眼の前にあったのは闇。
頭が重いが、心はより曇っていた。
宗看と政福が楽しそうに詰将棋談義を交わしているが、彼の耳には聞こえない。
その時、看恕は恐ろしいまでの差を痛感していた。
看恕の様子のおかしさに気づいた二人が顔を曇らせる。
「看恕兄上? 大丈夫ですか? 顔色が良くありませんが」
「ああ、看恕。疲れたなら休めよ」
「……ああ……大丈夫です……」
無邪気な顔をして心配する弟が、同じようにこちらを気遣う兄に負けず劣らずの――鬼に見えた。
+++
それこそは後世で門脇芳雄氏に『大迷路』と名付けられる宋看最高傑作。
献上図式『将棋無双』の
神域の傑作はこうして完成に近づいていた。
+++
体調が悪いと寝室に戻った看恕。
その後、看寿がひとつの詰将棋を宗看に見せる。
「兄上、自分も創ってみたのです。自信作なのです。確認していただけますか?」
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