第25話 大橋家

 七代大橋宗桂が致仕ちしした。

 それは寝耳に水とでもいうべき、驚くべき事態であった。

 

 しかし、伊藤家三男である宗寿には以上に驚くべき知らせが届き、宗桂の致仕どころではなかった。

 を伝えたのは兄である宗看。

 よく晴れた午後に、茶屋へ連れられて告げられたのだ。


「え? 

「ああ、お前だよ、宋寿」

「……どうしてそうなったのですか?」

「お前が適任だからだ」


 そこで宗看は団子に茶を口にした。

 兄は淡々と食べている。

 宋寿もならって頬張る――味がしないなんてことなかった。

 美味しいものは美味しい。


「……えらく急な話ですね」

「そうだな」

「七代目が、大橋宋桂様が致仕したからですよね……」

「ああ。早急さっきゅうに後継者を選ぶ必要がある。それは分かるな」


……」


 いきなりそんな重大事を兄に告げられて、宋寿は戸惑っていた。

 いや、戸惑うなんてそんな生易しいものではなく、頭の中身がかき混ぜられているくらい混乱していた。

 話が唐突とうとつ過ぎて理解に苦しむ。


「はい。しかし、それで私というのは……」

「俺が推挙すいきょしたからな」

「兄上が?」

「宗与名人も承諾しょうだくしている」


 犬猿の仲な二人だが、宗看は通すべき筋は意外と通している。

 直接交渉したわけではなく、宗民を通して許可を得ただけかもしれないが。


「そうなのですか……」

「それだけ認められているってことだよ。誇れ」


 誇れと言われても……が宋寿の正直な感想だった。

 まず、大橋宋桂が急に引退というのが青天せいてん霹靂へきれきである。

 三十を越えているとはいえまだまだ壮健そうけんだし、病気という話も聞いていない。

 人生としては斜陽しゃようを感じる頃合いかもしれないが、最後の輝きというにはまだ若過ぎる。

 事実、宗桂の倍程も生きている宗与が現役で名人なのだ。

 理解不能。


 一体、何があったのだろうか?

 しかし、そんな他人を気にしている余裕が宋寿にはなかった。

 お茶で口を潤してから宋寿は質問する。


「看恕や政福では駄目だったのですか?」

「その二人に比べれば、お前の方が相応しいだろう」

「それは年齢が一番上だからですか」

「まぁ、それもあるが、何が言いたいんだ」


 宋寿はそれまで抱えてきた、決して口にしたくない本音を言う。


「いえ、看恕も政福も天才ですから……」


 それは言いたくないこと。

 しかし、紛れもない本音。

 ただ、宗看は片眉を一瞬動かしただけで、表情は平静なまま、愉快そうな口調で言う。


「ふむ、続けろ」

「だから……私よりも弟達の方が相応しいのではありませんか」


 看恕も政福も、どちらも明らかに自分よりも才能があった。

 自分が十かけて習得した物を一で学んでしまう。

 それは仰ぎ見るべき差であり、宋寿にとって信じられないことだった。

 大橋本家という、将棋家の中で最も歴史のある家を継ぐなら彼らどちらかの方が相応しい。

 偽らざる本音だった。


 宗看は、団子追加で頼むか? と言った。

 宋寿は、首を横に振る。


「宋寿、お前は負い目でもあるのか」

「負い目ですか?」

「ああ、俺はお前の才が乏しいかどうかは分からん」


 否定しないのは厳しさか。

 肯定しないのは優しさか。


「…………」

「仮にお前の才が乏しいとして、だ。いや、違うな。お前が自分のことを才能に乏しいと思っているとして、だ。それは看恕や政福を気にするようなことなのか?」


 負い目の意味がようやく宋寿にも理解できた。

 兄は、他人の目を気にする理由を問い掛けているのだ。


「それは……」

「加えて、だ。俺はお前を認めているから大橋家に推挙した。お前は俺の目を疑うのか? 看恕や政福の事は気にするのに、俺の目は信じないのはおかしな話じゃないのか?」

「それは……兄上を信用しておりますが……」

「俺はな、宋寿、お前にも期待しているんだよ。それはそれは大きな期待だ。多分、お前が自分自身に抱いている期待よりも、俺はお前に期待している」


 兄は優しい口調で言った。

 だから、うつむき加減だった宋寿は顔を上げる。


「そもそも、自分の才能を疑うなんざ十年早いよ。自信を持て。自分が無能だなんて口が裂けても言うな。本当にそうなるぞ」


 呵呵かかと兄は笑い飛ばした。

 あまりにも眩しい笑顔だった。

 兄は外で強面を通しているが、人懐っこい紀州犬のような笑顔を浮かべることがある。

 今がその状況だった。


「そう、ですか……」


 宋寿は再び俯きながら頷く。

 強い兄に認められているようで、

 嬉しくて、

 少し泣きそうになっていたのだ。


 それは熱い固まりとして宋寿の中でおこる。

 涙としてこぼしてしまうなんて勿体もったいない。

 兄は勝手に団子の追加を頼んだ。

 どれだけ食べるのか――と思ったが、半分はお土産として包んでもらっている。

 そして、ボソッと言う。


「俺はな、将棋家はこのままでは駄目だと思うんだ」

「はい」

「碁家よりも格下という現状では将棋に未来がない」

「はい」

「全く……将棋は決して囲碁に劣った遊戯ゆうぎではないのにな」

「はい」


 江戸時代、将棋家と碁家の席次せきじは碁家が優先されていた。

 もしも、将棋家と碁家が同席する事があれば、宋寿たちは上座を譲らねばならなかった。

 これは初代から百年以上続く決定的な序列の差である。

『碁の方が上等なもの』という印象を拭う必要があると宗看は考えているようだった。


「そのためにも宋寿の力が必要なんだよ」

「大橋家へ私が行く事で、力になれる……」

「そうだ、頼む。力を貸してくれ」


 宗看はそう言って頭を下げた。

 深々と。

 しかし、そもそも、宋寿にとっては拒否するようなことではなかった。


 兄はとても偉大な人間になる。

 それは自明の理だ。

 看恕、政福を天才と言ったが、その次元にはない天才。

 宋寿は、そう信じている。


 兄の歩む道程にわずかばかりでも関与できるのであれば――宋寿の意志などどうでもよい。


 、と悟る。

 以前、宗看に言われたことを思い出す。

 自分は飛車ではない。

 金や銀でもないのかもしれない。

 ただの歩なのかもしれない。


 しかし、適材適所とすれば、自分の生きる道はここにあるに違いない。

 宋寿は居住まいを正し、深々と頭を下げる。


「兄上の力になれるのであれば喜んで」

「助かる」


 ――それは享保九年(一七二四)の出来事。


 宋寿は十一歳にして大橋家の養子になる。

 名を八代大橋宋寿と改め、その年から御城将棋に出勤することになる。

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