第13話 産声
「どうして、どうして!」
そんな声が聞こえてきた。
印寿は何が起きているのか分からなかった。
父の宗印は涙こそ流さないものの酷く
いや、影で
兄の印達はまだ十五歳で、あまりにも早すぎる死だった。
昔から
だから、病弱な不健康さを払う為に、外で体を鍛えようと誘うようにしていた。
意味のない行動であった。
それでも、なにかできたのではないか、と印寿はそう思った。
しかし、正直な話、死という
死ぬ。
もう
言葉としての実感と、意味としての理解が幼い印寿には受け入れられない。
兄が動かなくなった事は理解していても、もう二度と起きないという事が七歳の印寿には実感できないのだった。
ただ、もう二度と将棋を教わる事ができないという現実は知っていた。
自分の理解を超えていたので、当然涙は流れない。
印寿は兄が寝ていた部屋に足を踏み入れる。
やけに広く感じた。
まだ残暑厳しい頃合いだったが、部屋の主がいないだけでずいぶんと寒々しい。
部屋の中央に置かれている将棋盤に触れた。
使い込まれているが、汚れてはいない。
とても大切に、よく手入れされている。
駒箱から駒を取り出す。
こちらも盤と同じで、
触れてみるが、よく磨かれていて手に
ぱちり、と駒を盤上に指してみた。
乾いた音。
その瞬間、金縛りにあったように、印寿は部屋の中で動けなくなった。
庭で
普段なら摑まえてやろうと思うが、そんな気分にもなれない。
ただただ――夏の終わりを予感していた。
つい先日、家守の弥七は
家守は儲かるので、その仕事は売買されていたのだ。
弥七の事はどうでも良いが、八重と会えなくなった事は悲しかった。
夜逃げ同然でいなくなり、元気にしているのかと心配になる。
もう、そちらも無くなった。
印寿が駒をまじまじと観察していると、特に銀将の先が丸まっている事に気づく。
兄は数えで十五歳だった。
実年齢はそれよりも若く、長い間労咳に冒され、病床に伏してばかりだった。
それなのに、ここまで使い込むにはどれほどの時間を
幼い印寿は論理的に考えていたわけではない。
ただ、そこに努力なんて言葉で片付けてはならない執念を
将棋のために生きられた時間は長くなかったかもしれないが、それは一人の人生の結晶であった。
印寿は兄が使っていた駒を片付ける。
少し考えた後、
誰かが使うとしたら、受け継ぐとしたら、それは自分しかいない。
そう確信した故の行動であった。
そして、印寿は縁側に座って空を見上げた。
どれほど時間が経っただろう。
印寿の頰を熱くて冷たいものが伝う。
「兄上……」
印寿は
+++
印達の好敵手であった大橋宗銀も印達の死の一年後、その後を追うように
印達は享年十五、宗銀は享年二十。
争い将棋五十七番が伝説になったのは、将棋の内容以上に天才少年二人が
悲劇的な幕引きが、その勝負の
+++
人は死ぬ。
必ず死ぬ。
それがいつになるかは分からないが、いつかは必ず死ぬ。
しかし、兄の場合、いくらなんでも早すぎる死ではないか!
八重も、普通に幸せになれたはずなのに!
印寿のくぐもったそれは、怪物の唸り声にも似ていた。
事実、それは『鬼』の目覚めでもあった。
――そして、物語はここから始まる。
後に印寿は成長し、『三代伊藤宗看』を
あまりの強さから『鬼宗看』と呼ばれ、江戸期最強名人の一角として名高い『三代伊藤宗看』の物語はようやく始まる。
あまりの難解さから『詰むや詰まざるや百番』という賛辞めいた異名で呼ばれる『将棋無双』――その作者である伊藤宗看の物語はここから始まる。
――兄は鬼よりも強かった。
兄の強さを証明するために必要なことはなにか?
非常に簡単な話だ。
誰かが、兄の強さを証明し続ければ良い。
鬼よりも強い、兄の強さを。
――わたくしは
自分も、もっと幼い頃に憧れていたではないか。
これは一種の仇討ちであった。
将棋は印寿から全てを奪っていった。
大切な兄も。
初恋の女性も。
なら、奪い返さねば不公平ではないか。
印寿は涙を袖で拭い去る。
もう泣かない。
そう覚悟を決める。
事実、彼が次に涙を流すのは二十年以上も先のことになる。
「わたくしが、いや、俺が鬼になる」
その日、鬼が産声をあげた。
第一部『覚醒編』了
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