二人の未来(1)

 年末年始にバタバタしたかと思えば年度末の繁忙期が訪れ、気づけば四月が始まっていた。

 もちろん二月と三月にはバレンタインデーとホワイトデーというイベントが訪れたわけなので、俺は柚子からガトーショコラ――何と柚子の手作りだった——をもらい、俺からはキャンディーとマカロンをお返しにプレゼントした。もちろんお菓子の意味は調べてある。

 ただ、俺はバレンタインデーにもかっこつけて赤い薔薇の花束を渡すという、なかなか気障なことをしてしまったので、ホワイトデーのときは柚子にそのお返しとしてネクタイをプレゼントさせてしまうことになった。柚子には余計な気を遣わせてしまって申し訳なかったが、思い出に残る幸せな日だった。

 今は四月の二週目で、新入社員が配属され、ようやく彼らの顔と名前が一致してきた頃だ。

 そして、去年の事故から一年が経過していた。

 しかし、柚子の記憶はまだ戻っていなかった。


『佐藤さんの記憶は、必ず戻るとは言い切れません。もしかしたらずっと戻らないかもしれません』


 去年病院でお世話になった先生の言葉が鮮明に思い出される。

 何かの拍子に急に思い出す可能性はあるはずだ。でも、もしかしたら本当に——


「――くん、優くん?」


 はっと我に返ると、柚子が俺の顔を覗き込んでいた。


「どうかしたの? 何か思い詰めた顔ようなしてる……?」


「あー、えっと……」


 今、俺と柚子は会社から帰る途中で、柚子のマンション付近の住宅街に差し掛かったところだった。

 俺は今考えていたことを話していいものかどうか迷った。記憶の話になるたびに、柚子の表情に影が差すようにずっと感じていたから。

 去年の五月から過去に二人でデートをした場所に行き始めて、かなりいろいろな所に遊びに行った。それでも失われた記憶の断片すら戻って来ないみたいで、正直俺の中には焦りもあるかもしれない。

 しかし——


「あれからもう、一年経ったね」


「――!」


 俺の心を読んだような柚子の言葉に、俺は何も言えなくなった。


「相変わらず、記憶は戻らないんだ。最初は二年半分も思い出せないなんて、自分の中に空白があるみたいで怖かったし、大事なこと覚えてないせいでいろんな人に迷惑をかけて……優くんを傷つけた。でもね、私――」


 柚子は俺の手を両手で優しく包み込んで、ふわりと笑った。まるで、月明かりの下でそっと開いた一輪の花のように。


「もう気にしないことに決めた。消えちゃった過去を気にするより、優くんとの今を大事にしたい。傷つけちゃった分、私が君のことを幸せにしたいんだ」


 最後の方は照れくさかったみたいで、はにかんで目を逸らした柚子。そんな彼女への愛おしさが込み上げてきて、半ば衝動的に目の前の小さな身体を抱き締めた。


「ちょ、優くん、ここ外だから——」


「ほとんど人いないから大丈夫」


「そういう問題じゃ——んん……」


 柚子の言葉が終わるまでに唇を塞いでしまったので、最後の方はくぐもった甘い声に変わる。

 触れるだけでは物足りなくて、彼女の口を開いて下を差し込み、舌どうしでしばらく触れ合ってからやっと唇を離した。


「ん……、もう、怒るよ……!」


 そう言いながらも柚子の表情はとろんとしていて、その先に進みたいという衝動が込み上げてきたが、明日も仕事だ。週末まで我慢しなければ。


「ごめんごめん。続きはまた今度……ね」


 そう耳元で囁いてみたら、柚子の耳が薄暗がりの中で微かに染まった。

 再び歩き出してしばらくすると、あの公園が見えた。柚子のマンションはすぐそこだ。

 柚子と別れる前に、ずっと気になっていたことを訊いてみることにした。


「あのさ、柚子」


「何?」


「お前、結婚とか考えてる?」


「えっ、何? 急に……」


「どうなの?」


「えっと……」


 柚子は何やら真剣な顔をして考え込んでいる。


「考えてないことはないよ。私ももう今年で二十六歳だし。子供が欲しいならなおさら早い方がいいよね。でも、私的には優くんと付き合ってまだ一年も経ってないわけで……いや、優くんにとってはもう三年? 経ってるはず、なんだけど……」


「なるほどな。正直に言ってくれてありがとう」


(つまり、今すぐにプロポーズ、というわけにはいかなさそうだな……)


 少しだけ落胆するけれど、俺とのことを真剣に考えてくれているのが伝わってきたので、そこは素直にうれしかった。


「ごめんね」


「いや、柚子が謝ることじゃないよ。俺と結婚したくないわけじゃない、ってことで大丈夫?」


「えっと……はい。いつか、そのときが来たら」


「ありがと」


 柚子のことを今度は優しく抱き締めて、夜風と一緒に彼女の匂いをそっと吸い込んだ。


「おやすみ」


「おやすみなさい」


 また明日ね、と手を振ってエントランスに入っていった彼女を見送ってから、俺も自宅へと歩き出す。気が早いような感じもするけれど、柚子が喜んでくれそうなプロポーズの方法を考えながら。

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