幸せ(1)

「柚子、誕生日おめでとう」


 十月十六日、今日は柚子の誕生日だ。

 金曜日なので、仕事を早めに切り上げてイタリアンのレストランで夕食をとることにしていた。チーズ料理が有名らしく、柚子が行ってみたいと言っていたので一か月前から予約しておいた。

 コース料理を食べ終え、一息ついたところでデザートのプレートを運んでもらった。誕生日のサプライズに頼んでおいたものだ。


「えっ、これ私に? すごい、かわいい……!」


 ベリーが乗った小さなケーキに、横に添えられたバニラアイス。そしてチョコペンで書かれた『Happy Birthday ゆずこ』というかわいらしい文字。ケーキには小さな赤いろうそくが立っている。柚子は目を輝かせてろうそくの火を吹き消した後、一枚だけ写真を撮った。


「食べちゃうのがもったいないね」


 デザートを前にはしゃいでいる柚子はとてもかわいい。ワインを数杯飲んで頬が淡く染まっているのもすごくきれいで、そんな姿を初めて見るわけでもないのにドキッとしてしまった。

 俺はそんな柚子の姿を写真に収めたくて、気づかれないうちにスマホカメラのシャッターを切った。パシャっという音を聞き、やっと柚子が写真を撮られたことに気づいた。


「ちょっと、何撮ってるの」


「いいじゃん、かわいいんだから」


「そ、そんなこと言われても、だめなものはだめなんだから……」


 柚子はさらに頬を染めた。

 付き合って二年も経つと、かわいいなんて言われても軽く流せるようになっていた柚子だったが、この照れようはまるで付き合い立ての頃みたいだ。


(まあ、柚子にしてみれば本当に付き合って二か月半の感覚なんだろうけど)


「そんなことより早く食べろよ。アイスが溶けそう」


「あ、本当だ。……ちゃんと消しといてよ」


「はいはい」


 と答えておくけれど、俺が柚子のかわいい写真を消すわけがない。

 柚子はケーキとアイスを小さいフォークですくって一口食べた後、少し姿勢を正した。


「……鷹尾くん、今日はありがとう。誕生日、覚えててくれてうれしかった」


「当たり前だろ」


「あと、このお店に私が行きたいって言ってたことも、覚えててくれたんだよね。すっごくうれしかった」


「どういたしまして」


 あとね、——と柚子は続けた。


「こんな私と付き合ってくれてありがとう。好きになってくれてありがとう」


 そして照れくさそうに視線を落とし、バニラアイスをまたすくった。


「お礼を言うのは俺の方だよ」


「えっ?」


「俺とのことを忘れても、また好きになってくれて……多分今、人生で一番幸せだよ。……って、改めて言うと恥ずかしいな」


 かっこよく決めたかったのに、きっと俺の顔も赤くなってしまっているだろう。


「私だって、とっても幸せ」


「……」


 何だか俺まで付き合いたてのように照れてしまう。ここまでペースを崩されてしまったのはきっと柚子がかわいすぎるせいだ。




 店を出た後は柚子を家まで送ろうと考えていたのだが、少し飲み足りないという話になって、お酒を買ってそのまま少し部屋に上がらせてもらうことになった。

 誕生日ということで少しだけ奮発して買った赤ワインで乾杯してから、俺は鞄に今日一日入れていた小さな箱を取り出した。青いリボンがかかったその白い箱を、ソファーで隣に座っている柚子にそっと手渡す。


「柚子、改めて、誕生日おめでとう」


 柚子は目を丸くした。


「これ、プレゼント? 開けてみてもいい?」


「うん」


 柚子がそっとリボンを解いて箱を開けると、銀色のチェーンのネックレスが現れた。ペンダントトップにはピンク色の宝石が一粒付いたハートのモチーフ。


「かわいい……」


「その宝石、ピンクトパーズっていうんだって。十月の誕生石がトパーズって聞いたから、選んでみたんだ」


「本当にもらっていいの? 高くなかった?」


 高くなかったと言えば嘘になるが、柚子にだったらこれぐらいはプレゼントしてあげたかった。

 それに、恋人が自分の贈った物を身に着けてくれるとしたら、俺としてもとてもうれしい。

 俺は箱からネックレスを慎重に取り出した。


「お前以外の誰にあげるんだよ。……ちょっとあっち向いてて」


 金具を外し、柚子の首にチェーンを回して、首の後ろで金具を留めた。


「はい、もういいよ」


「ありがとう」


「ん、似合ってる」


 柚子は首元のペンダントトップを持ち上げて、愛おしそうに眺めた。


「本当にうれしい。ずっと大事にするね」


「そうしてくれたら俺もうれしい」


 そして、二人でワインを飲みながら次のデートの話や営業課の人たちの話をしていたら、柚子が俺の肩に頭をもたせ掛けてきた。


「柚子?」


「鷹尾くんって、こういうときでも手を出してこないんだねえ」


「なっ——!?」


 柚子の口から出たとは信じ難い大胆な発言に、少し回ってきていた酔いは一瞬で醒めてしまった。


「お前、酔ってるな……」


「そんなことないよー」


 あんなことを言っても恥ずかしがる素振りを見せずに笑っているんだから、絶対に酔っている。そこまで弱い方ではないはずだが、飲ませ過ぎてしまったみたいだ。


「……お前は、手を出されてもいいのか?」


 大事にしたいからこそ、もう一度付き合い始めてから今まで何もしてこなかった。

 もちろん手を繋いだり抱き締めたり、キスをしたことも何度かあるけれど、それ以上のことは柚子が受け入れてくれたときにしようと思っていた。

 しかし柚子はどう思っているのか。ちょっと確かめてみたい。

 そう思って、柚子をそっとソファーに押し倒してみた。


「鷹尾くん?」


 柚子の驚いた顔。その様子だと、少しは酔いが醒めたのか。


「そういえばお前、いつまで俺のこと名字で呼ぶんだよ」


「だって、急に呼び方変えるって、恥ずかしい……」


「前は優くんって呼んでくれてたのに」


「うう……」


 両手で顔を隠そうとしたので、その手首を掴んでソファーに縫い留めた。必死に目を逸らそうとする柚子。


「ねえ、柚子」


「……」


「俺だって、柚子がいいなら手出したいって思ってるよ。でも、柚子のことが大事だから、ずっと待ってた。……お前はどう思ってるの?」


「っ、それは……」


 柚子は口ごもった。そして再び口を開いたが、元々小さかったその声は一段と小さくなった。


「私だって、鷹尾く……ゆ、優くんと、そういうこと、したくないわけじゃない、けど……、心の準備が……」


(あ、名前……)


 つっかえながらもやっと下の名前で呼んでくれたことに、年甲斐もなく舞い上がりそうになった。


「そうなの?」


 柚子の顔を覗き込むと、その顔はますます赤くなる。


「だって、大好きなんだもん……ゆう、くんの、こと……」


「柚子――」


 たまらなくなって、目の前の恋人をぎゅっと抱き締める。


「優くん……?」


「柚子、いい……?」


 耳元で囁くと、彼女の身体はぴくっと揺れた。


「えっ? えっと……」


 柚子はしばらくあたふたして、それから——


「……いいよ」


 か細い声でそう答えた。

 俺はもう耐えられなくなって、彼女の唇に滅茶苦茶にキスをした。


「んん……」


 どちらのものか分からない吐息が漏れ、身体は熱を帯びていく。

 ベッドに移動する時間も惜しくて、俺たちは夜が更けるまでその場で求め合った。

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