幸せ(2)
柚子の誕生日の次の日、目覚めると俺は柚子の寝室のベッドにいた。
「えっと……」
確か昨日は、疲れて眠ってしまった柚子をベッドに運んで、そのまま自分も寝ちゃったんだっけ。
スマホで時間を見ると、まだ朝の六時だった。
そして隣を見ると、まだ眠っている恋人の姿があった。彼女の寝顔はいつもよりあどけなく、かわいらしく見える。
そっと頭を撫でて、さらさらとした髪を指で梳いていると——やがて柚子はうっすらと目を開けた。
「んー……あれ、鷹尾くん……?」
「おい、呼び方変えたんじゃなかったのかよ」
「ふぇ……?」
俺の返事を聞いてやっと目が覚めて来たのか、柚子は目を見開いた。
「え!? 何でいるの!?」
「……昨日のこと忘れたのか?」
柚子は身体を起こして、自分が服を着ていないことにやっと気づいた。
「あっ……」
柚子の顔は羞恥に赤く染まっていき、彼女はがばっと布団にくるまった。
「柚子?」
「――見ないで!」
「見えねーよ。てか、昨日散々見られてるじゃん」
「だって今は明るいし!」
「はいはい。……そういえばお前、今日休み?」
今日は土曜日だ。
俺は休みだけど——と言おうとしたが、柚子の叫び声にかき消された。
「あー! 用事あるから午前中だけ出社しなきゃだった!」
やっぱりそうなるか……と溜息をつき、昨日の柚子の服を持ってきて枕元に置いた。
「服、ここに置いとくよ。シャワーぐらいは浴びとけよ? 俺は自分ちに帰ってからでいいから」
「ありがとう。……見ちゃだめだからね!?」
「はいはい」
柚子は慌ただしく浴室に向かい、俺は彼女が出てくるまでに冷蔵庫の中身を拝借して簡単に朝食を作った。といっても目玉焼きを焼いて食パンをトーストして、レタスとトマトのサラダを用意したくらいだ。
戻ってきた柚子はこれまた慌ただしく朝食をとり、会社へ向かう準備をして——俺は女性の身支度ってやっぱり大変だな、と呑気に考えながらそれを眺め——二人で柚子の部屋を出た。
「バタバタしちゃってごめんね。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
マンションのエントランスを出て、柚子は駅の方へ、俺は反対方向の自宅へと歩き始めた。
(目が覚めたら隣に柚子がいるって、すごく幸せだな)
なんて考えながら、浮かれた気分で帰路についた俺だった。
「ねえ、優くん」
「何?」
「私たちの記念日って、結局いつなの?」
「記念日?」
ウミガメの水槽の前を二人で歩いていたら、急にそんな質問をされた。
今日はクリスマスのデートとして、隣の市の大きな水族館に来ている。この水族館は、柚子が記憶をなくすまでの二年の間にも行ったことがなかった場所だ。
残念ながら今年のクリスマスもイヴも平日なので週末に来ることを決めたのだが、案の定家族連れやカップルが多い。
「そう、付き合い始めた日。本当は四月十四日だっけ?」
「うん」
「優くんにとってはその日が記念日なはずで……。でも、私にとってはあの花火の日が付き合い始めた日で……」
と言いながらしゅんとする柚子。
大事な記念日を忘れてしまったことを気にしているのだろうか。
俺は柚子にそんな顔をしてほしくなくて、彼女の左頬を軽くつまんだ。
「ふぇ!? ゆーくん?」
柚子は不意打ちを食らって驚き、俺の顔をまじまじと見た。
「そんなこと気にすんなって。いろいろと忘れられたことよりも、お前が戻って来てくれたことの方が俺にとっては大きいし。それに、花火大会は俺にとっても忘れられない大事な日だよ」
「……そうなの?」
「当たり前だろ」
そこでぱっと手を離すと、柚子は静かに微笑んだ。
「ありがと。優くんはいつも優しいね」
「まあね、一応年上だし」
「ふふ、会社じゃ同期だけどね」
「うるさいな」
やっと柚子が明るい顔をしてくれて、そのことに俺は人知れずほっとしたのだった。
晩ご飯を食べに行く店は予約してあるので、この水族館には昼過ぎから来て夕方まで見ていくことにしていた。ここはイルカのショーやペンギンの餌やりが目玉らしいので、それらの催し物を挟みつつ展示を全て見て回った。
柚子はアザラシやクラゲ、チンアナゴが特にお気に入りみたいで、写真をたくさん撮っていた。俺は柚子の楽しそうな姿をカメラに収めた。ばれたら絶対怒られるのでこっそり撮らなければならないのだが、これがなかなか難しかった。
店に向かうべく水族館を出ると外はもう暗くなっていて、イルミネーションが点灯していた。目の前に広がる青い電飾はまるで海みたいで、俺たちは思わず足を止めた。
「すごいね……」
「すごいな……」
初めて見る光景に、俺たちはもうすごいとしか言えなかった。
青一色で埋め尽くされた地面に、イルカやカラフルな魚などの装飾。その海を割るように一本の道が敷地の外まで続いている。
「冬はイルミネーションがあるってサイトには書いてあったけど、ここまですごいとは知らなかった」
「俺も」
「来てよかったね」
「うん、来てよかったな」
いつまでも眺めていたかったけれど予約の時間が迫っていたので、後ろ髪を引かれながらも水族館を後にした。
俺たちがクリスマスデートの店として選んだのは、水族館から徒歩十五分くらいのイタリアンレストランだった。
そういえば柚子の誕生日もイタリアンだったねと二人で話したが、俺も柚子もチーズが大好物なので気にしないことにした。
デザートのジェラートまで食べ終わってゆっくりしていると、柚子がバッグから何かを取り出した。
「優くん、これ、プレゼント」
そう言って彼女が差し出したのは、今日行ったあの水族館の名前とイルカのイラストが入った紙袋だった。
「えっと、これってもしかして、さっきの?」
「そう!」
そう、これはきっと、水族館の魚たちを一通り見終わってお土産を売っている売店に立ち寄った際、『ちょっと見たい物があるから、この辺りで待っててくれない?』と柚子に言われたとき、柚子が買っていた物だ。
「えー、何だろう。開けてみてもいい?」
「どうぞ」
細長い紙袋から出て来たのは、長さの違う二膳の箸だった。短い方が濃い赤、長い方が濃い青で、両方とも白抜きの魚のイラストが入っている。
「かわいいな」
「でしょ? 優くんの家でご飯食べるときに使いたいなって思って」
柚子とお揃いの箸って、なんかいいな。
二人で使っているところを想像するだけで温かい気持ちになった。
「ありがとう。……じゃあ、俺からも」
「えっ?」
俺だって、待っている間手持ち無沙汰だし、柚子に何かプレゼントしたかったんだ。
そう思ってよさそうな物を探した末に、俺が選んだのは——
「わあ、綺麗なグラス……」
青いグラスと水色のグラスがペアで入っている箱が、柚子の手の上に乗っている。両方とも上の方は透明で、下に行くほど色が濃くなっているデザインだ。下の方には泡が含まれていて、売店の棚でこれを見つけたときは、海みたいで綺麗だとつい足を止めたのだ。
「俺もこれ、柚子と一緒に使いたいな」
「ありがとう。たくさん使おうね」
「ん。……だいぶのんびりしたし、そろそろ出ようか」
「そうだね。あー、おいしかったなあ」
柚子は幸せそうに席を立った。
その後、柚子はうちに泊まることになっていたので、二人で仲良く帰宅し、数日遅れの聖夜を幸せに過ごした。
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