終章 桜並木の道で(2)

 ずいぶん長いこと泣いて、泣き疲れて、やっと俺たちの涙は止まった。

 静かに抱き合っていると、二人の鼓動が一つに溶けあって聞こえた。柚子の身体はとても温かくて、その熱がすごく愛おしい……

 なんて感傷に浸っていたら、俺の腹が盛大に音を立てた。


「……ふふっ、ご飯、まだだったね」


 涙を拭いながら柚子は笑った。

 空気をぶち壊した自分の腹を恨めしく思ったが、久しぶりに彼女の笑った顔が見られたので良しとするか。

 気づけば俺までふっと笑っていて——どちらからともなく手を繋いだ。


「……帰るか」


「うん」


 引っ越し前日の冷蔵庫には何もないからと、近くのコンビニで夕食を買った。そして明日の朝食も。

 二人とも泣き腫らした目をしていたから、店の人たちは不思議に思っただろう。

 そして真っ暗な部屋に帰り、明かりを点けた。

 すごくすっきりしてるね、という柚子の言葉が何も敷かれていない床にぽつりと落ちた。荷造りはほぼ終わっていて部屋の隅に段ボールを積んでいるが、それだけで部屋がだいぶ広く見える。

 明日が引っ越しだからな、という俺の返答も壁に吸い込まれていった。

 大きい家具はまだ残っているので、テーブルで各々が買った物を食べた。俺は牛丼で、柚子は明太子パスタだった。

 一缶ずつだけだが酒も買っていた。もちろん俺がビールで、柚子はぶどうのチューハイ。二人ともこれくらいでは酔わない。それでも何となく飲みたい気分だった。

 食事をしながらいろいろなことを喋った。あの仕事がどうだったとか、同期の友達がどうしたとか。俺たちは約半年分の空白を埋めるように、くだらない話をたくさんした。

 ひとしきり喋ったなと思って腕時計を見たら、もう二十二時になろうとしていた。缶はとうに空になっていた。


「柚子、先に風呂入る?」


「いいの?」


「うん」


「じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」


 風呂場に向かう柚子を見送ってから、プラスチックの容器や缶を洗おうと俺も立ち上がった。

 そういえば、何回か一緒に入ったっけ。最初はすごく恥ずかしがってたな、あいつ。

 今さらふとそんなことを思い出した。

 さすがにもうできないけれど。

 柚子が出てきたら俺もさっとシャワーを浴びて、十分程でリビングに戻った。

 歯磨きをして髪を乾かしたらやることがなくなったので、二人で寝室に向かった。

 並んでベッドに腰かける。明かりは点けなかった。

 月明かりにだけ照らされて、俺たちはしばらく見つめ合った。


「ねえ、どうして転勤しちゃうの?」


「それは……」


 本当は、お前も分かってるくせに。今さらなんだよ。

 思わずそんな言葉が口をついて出てきそうだったが、ぐっと堪えた。


「ごめん」


「謝れば済むと思ったら、大間違いなんだから」


 いじけたような顔で俺を睨んでくる。そんな顔ですらかわいくて——気づけば俺は彼女に手を伸ばしていた。


「柚子……」


 彼女のパジャマのボタンに手を掛け、そっと一つ外す。

 このまま柚子のことを滅茶苦茶にして、俺だけのものにしたい。突如としてそんな衝動が現れた。

 後腐れなく別れたいとか考えていたくせに、柚子を目の前にすると自分が抑えられない。

 儚い理性があっという間に侵されそうになったとき——


「っ、優くん——!」


 俺の身体を優しく、でも力強く押し返す手の感触。はっと我に返って顔を上げる。


「だめだよ。優くんは、私のお兄ちゃん、なんだから……」


「っ……!」


 柚子は傷ついたように笑った。自分の言ったことに自分で一番傷ついているように見えた。

 そして、俺もまた彼女のことを傷つけてしまったことに気づいた。


「ごめん……」


 もう、俺のせいで傷つかないで。

 柚子はずっと、笑っていて。

 じゃあせめて、と震える口を開く。


「――最後に、キスさせて」


「……うん」

 

 そっと顔を近づけると、約三年もの間で慣れ親しんだ、柚子の感触。

 この唇も、忘れないといけない。

 深く求めてしまうと歯止めが利かなくなりそうで、軽く触れるだけにとどめた。

 本当はずっと味わっていたい。名残惜しくて胸が張り裂けそうで、それでも顔を離す。


「……おやすみ」


「おやすみなさい」


 明日目が覚めたら、俺たちは本当の兄妹としてこの部屋を出なければならない。いい加減、けじめをつけないといけない。

 だから、今夜だけは恋人みたいに過ごしたい。朝が迎えに来るまでは、柚子の温もりを感じていたい。

 俺たちは横になってそっと抱き合い、同じ布団に入った。柚子は俺の胸に顔を埋めたかと思えば、すぐに規則正しい寝息が聞こえてきた。そういえば元から寝つきがいい奴だった。

 俺も柚子のさらさらとした髪を撫でていたら、いつの間にか眠りに落ちていた。

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