終章 桜並木の道で(1)
「先輩、転勤されるって本当ですか!?」
辞令が出た翌日、さっそく俺のもとに立川が詰め寄った。
「……ああ」
俺が認めると、立川はまじかあ……と自分の椅子に座りこんだ。
「どうしてですか? 俺、もっと先輩と仕事したかったです」
心からの残念そうな声に良心が痛んだ。
俺だって、本当はずっとここで働きたいよ。お前たちのことも見続けたいよ。でも……
「ごめん、家庭の事情で……地元に戻らないといけなくなったんだ」
課長のときと同じように、大事な後輩にも嘘の退職理由を告げる。
うまくごまかせているだろうか。
しかし、課長にも話せなかった本当のことを後輩になんて言えるはずもなく。心の中でそっと謝ることにした。
せめてもの償いとして、ここを離れるその日までは、できることなら何でもしよう。
そうして迎えた、この会社で——この経理課で働く最後の日。
昼休みにスマホを見ると、ずっと会話が途切れていた人からのメッセージを受信していた。
ディスプレイに表示された名前を見るだけで、心がどうしようもなく震えた。
恐る恐るトーク画面を開くと——
『今日だけ、一緒に過ごさせてくれませんか? 仕事が先に終わったら待っててね。絶対だよ!』
俺が明日には引っ越してしまうから、今日だけは一緒にいたいと思ってくれているのか?
俺はあれだけのことをお前にしてしまったというのに。
でも、だからこそ、これをチャンスだと思うべきだ。
別れる前に、ちゃんと謝らなければならない。そして、笑ってさよならしないといけないんだ。
『分かった。お前が先だったらちゃんと待っとけよ』
何でもないような文章とは裏腹に震える指でなんとか文章を打ち込み、送信した。
何となくそわそわしながら簡単に昼食をとり、仕事に戻る前にもう一度スマホを見ると、柚子がいつも使っている猫のスタンプが送られていた。
最後なんだから今日くらい定時で帰れ、とみんなに言われ、俺はいつもよりだいぶ早く帰る支度をした。
こんなに早いのはいつぶりだろう。
挨拶をした後半ば追い出されるようにフロアを出たが、柚子のことを待たなければならないので仕方なく休憩スペースの椅子に座った。
先輩に引き留められていたからしばらくかかるかな、と思ってぼーっとしていたら、軽い足音がぱたぱたと廊下に響いてきた。
「ごめん、待った?」
自分のデスクから走ってきたのだろうか、息が上がって肩が上下している。
「そんなに急がなくてもよかったのに」
「だって、先に帰っちゃったかと……」
「『待ってて』って言うから『分かった』って送ったじゃん」
「……そうだけど」
こんな他愛もない会話は半年以上ぶりだ。それなのに意外とうまく喋れている。
「じゃあ、帰るか」
俺は自分の鞄を肩にかけながら立ち上がった。
けれど会社の最寄り駅まで歩き、電車に乗っている間、俺たちは終始無言だった。こんな風に二人きりで過ごすのがあまりに久しぶりすぎて、何を話したらいいかがお互いに分からなかった。
何の話ならしてもよくて何の話ならだめなのか、お互いに探り合っているうちに柚子がいつも使っている駅に着いた。柚子は降りなかった。
再び俺たちの乗っている電車は走り出し、俺の駅のホームに滑り込む。俺が出入り口に向かうと、柚子もついてきた。
改札を出て歩き始めてから、ようやく柚子が口を開いた。
「……転勤、しちゃうんだね」
「ああ」
散々考えて結局それかよ、とは言わなかった。
「……そっか」
柚子は理由を訊いてこなかった。
いろいろな人に『家庭の事情で』と言ったから、柚子にも伝わっているのだろうか。
柚子は本当の理由に気づいていて、敢えて訊かないのだろうか。
「寂しくなるね」
「そうだな」
まるでただの友達に戻ったかのような会話。
寂しいけれど、むしろありがたい。恋人だった頃を思い出してしまえば、平静を保っていられる自信がなかった。
再び沈黙が訪れ、俺たちはただ川沿いの道を歩いた。道の脇に続く桜並木はたくさんの蕾をつけていて、そのうちの二、三割程が薄紅色の花弁を既に開いている。
しばらく歩き続けると、上の道に続くいつものちょっとした階段が見えてきた。そこで、明日の引っ越し先での手続きのことを確認しておこうと、鞄から書類を取り出した。
「歩きながらは危ないよ?」
柚子はそう注意しながらも書類が気になるようで、ちらちらと俺の方を見ている。
「大丈夫だって」
書類に目を落としながら一番最後の段まで上がった、ちょうどそのときだった。
「あっ——」
春一番のような強い風が吹いて、俺が持っていた書類が巻き上げられそうになる。
「おっと」
俺は焦りながらも手を伸ばし——二年前のあの日の出来事が頭をよぎる。
しかし今回は間一髪で書類を取り戻すことができた。
「よかった、今度は落ちなかった」
ほっと安堵の息をついて、隣の柚子を見ると——
「っ——」
「柚子!?」
優くんが風に持っていかれそうになった書類に手を伸ばしたとき、突然私は頭が割れそうな程の頭痛に襲われた。
余りの痛みに身体がふらついて、思わず優くんの腕にしがみつく。
「柚子? 大丈夫?」
必死に私を呼ぶ優くんの声が、どこか遠くに聞こえる。
二年前のあの日も、優くんはこんな風に私を呼んでくれたっけ——。
そんなことを頭の片隅で考えているうちに頭痛は引いていき——後に残ったのは、どうしようもない程の愛しさと胸を締め付ける痛み、そして——二年と半年分の思い出。
「……全部、全部思い出したよ」
「——!」
そっと身体を離し、優くんの目をまっすぐに見つめた。
「私、こんなに優くんのこと好きだったんだ……」
頬を大粒の涙が伝っていく感触。
記憶を失っても、優くんのことをまた好きになった。大好きだった。私の心は彼への愛で満たされていた。
なのに、その前の『愛してる』まで戻ってきたら、とても収まりきらなくて溢れてしまうに決まっている。
想いは溢れてもなお留まることを知らなくて、言葉にせずにはいられなかった。
「優くんのことが大好き! 愛してる! ずっと一緒にいたい、離れたくない……うう……」
最後は嗚咽を堪えきれなくなり、優くんの胸に縋りついた。
何でこのタイミングなんだろう。
優くんとは、明日でお別れなのに——。
声を上げて泣き出した柚子を見て、俺の中で何かが決壊し——目の前の彼女をめちゃくちゃに抱きしめた。
「俺だって、お前のこと愛してるよ! 離れたくないよ! でも……」
事実を知ってからずっと心の奥底に閉じ込めていたことを、素直に叫ぶ。
でも、だめなんだ。
「……だめなんだ。俺たちは結ばれちゃいけないんだ。それならいっそ、二度と会わない方がいい……」
自分でそう口にして、自分の心を抉ったことに気づくが、気にしないふりをする。
柚子は俺の胸に顔を埋めたまま首を振った。
「やだあ……一緒にいる……」
そう言って泣きじゃくる柚子を見て、なんか妹みたいだな、と思った。
やっぱりお前は、俺以外にいい奴を見つけて幸せになるべきだ。
だって、お前の泣き顔を見ること程、悲しいことはないんだから——。
約半年かかって、ようやく俺は柚子の幸せを願うことができるようになったみたいだ。
でも、まだそれを平気で受け入れられる程、俺は強くないから——
「ごめん、柚子、ごめん……」
俺も柚子の髪に顔を埋め、堪えていたものを全て吐き出すように泣いた。
彼女の髪からは、ずっと変わらない、シャンプーの淡い匂いがした。
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