これから(3)
次の日の朝、目覚めるともう太陽は高く昇っていて、柚子はいなかった。
眠りすぎて頭が痛い。ふらふらしながら寝室を出ると、リビングの机に手書きのメモが置いてあった。
『朝ご飯、作っておきました。ちょっとでもいいからちゃんと食べてね。あと、鍵は返しておきます』
机の上にはボウルに入ったサラダとベーコンエッグ、トーストが乗っていて——少し離れたところにはこの部屋のスペアキー。改めて付き合い始めてから柚子に預けていたものだ。
柚子がこれを使う機会はあまりなかったが、それでも鍵を持ってくれているという事実に胸を温かくしていたのは確かだ。それを返されたショックはなかなかに大きい。
食欲はあまりないが、せっかく作ってくれたからと、椅子に座って朝食を食べ始めた。
簡単な料理のはずなのに、柚子の味だと思ったら胸がぎゅっと苦しくなった。
柚子の手料理は、これで最後かもしれない。
こんな最後なんて望んでいなかった。結婚したらずっと味わえるはずの幸せだった。
気づけば俺は箸を止めていた。熱い雫がいくつも頬を伝って、目の前がぼやけて仕方がなかった。
俺は仕事が忙しくないときを狙い、課長にある相談をした。
それは、年度の終わりを待って転勤すること。
今の時代、いったん会社を辞めてしまうと再就職先にかなり苦労するだろう。しかし、幸い実家からさほど遠くないところに支社があるので、そこに転勤させてもらえないかと切り出したのだ。
転勤理由は家庭の事情ということにした。あながち間違いでもないが、柚子が実の妹だということが分かり距離を置きたいから……なんて事情を話すわけにもいかず、表向きは祖父母の面倒を見たいからということにしている。
「……君はなかなか優秀だから、ここに留まっていてほしかったんだけどな。そういう事情なら仕方ないよな」
相談を持ち掛けたとき、課長は本気で残念そうな反応をしていて、一瞬決心が揺らぎかけた。
俺だって、この仕事は大変だけど気に入っているし、同期も先輩、後輩もいい人ばかりで離れるのはすごく惜しいと思っている。
でも、このまま柚子と毎日顔を合わせて仕事をするのに耐えられそうになかった。
柚子に新しく好きな人ができて、結ばれるのを見て平気でいられる自信がなかった。
我ながらすごく身勝手な理由だと思う。でも、このままだといつか心が壊れてしまいそうだ。それならいっそ、柚子から遠く離れてもう会えないようにする方がましだと思った。
「君の仕事ぶりも含めて支社に話をしておくよ」
「ありがとうございます」
「……鷹尾」
「はい?」
「大丈夫か?」
「……」
突然そう聞かれて言葉に詰まってしまった。
課長も最近の俺のことを心配してくれている先輩というか上司の一人で、時折声をかけてくれる。
けれど、今の課長はいつにも増して心配そうな表情で、彼の目は俺の目をまっすぐに射貫いている。
この人には、どのくらい見透かされているんだろう。
そんな考えが頭をよぎって、でもすぐに小さく頭を振った。
俺の様子が普通ではないのが分かったとしても、さすがに俺と柚子の事情までは知らないだろう。
胸中の小さな動揺を悟られないように、平静を装って返事をした。
「はい、大丈夫です」
「そうか。……無理はするなよ」
「ありがとうございます」
課長を騙していることへの罪悪感が胸を掠めたが、何もなかったようなふりをして課長のデスクに背を向けた。
そしてこのとき誓った。お世話になったこの会社を離れるまで、できる限りのことをする、と。
それからはもう、さらに仕事に励んだ。少しでも多くの仕事をこなし、立川をはじめとする後輩たちになるべく多くのものを残せるように、彼らの仕事を積極的に見てやった。
柚子とはあれ以来ちゃんと話していない。仕事の都合上どうしても話さなければならないときもあるが、そのときはできるだけ仕事以外のことを考えないように気をつけた。
後から考えると、俺はただつらいことを忘れたくて忙しくしたかっただけなのかもしれない。
とにかくそんな風にして、俺は柚子との約三年分の思い出を、そして真実を知った八月のあの日のことを心の奥底にしまい、蓋をして、忘れたふりをして過ごした。
柚子も俺に話しかけて来なくなった。
時々あの大きな瞳で俺を見ているときもあったけれど、いつも俺から目を逸らしていた。同僚たちとはどれだけ楽しそうに談笑していても、俺を見つめるその瞳だけはいつも寂しそうで、俺はそんな彼女を見ていられなかった。
そうして四か月程が経ち、転勤の話が無事に通ったことを内示で知り、さらにその一か月後、正式に辞令が下りた。
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