これから(2)

 次の日から俺は、今まで以上に仕事に打ち込むことにした。残業をすることも増えた。仕事をしていないといろいろと考えて苦しくなってしまうからだ。事情を知らない課長や先輩たちも、さすがに俺の様子がおかしいことを見抜いているようで、無理するなよなどと心配の言葉をかけてくれた。

 柚子はどうなんだろう。ちゃんと仕事できてるのかな。今何を考えてるのかな。

 気になってはいるが、本人に会って訊けるわけがなかった。

 そうして1か月程経った。うだるような暑さは少しずつ去っていった。

 九月の終わりの土曜日、いつものように遅くまで会社に残ってからマンションに戻り、エレベーターを降りたところで一人の女性がしゃがみ込んでいるのを見つけた。ちょうど俺の部屋の前だ。

 俺が近づくと、その小柄な女性は顔を上げた。


「あ、優くん。……遅かったね」


「柚子……」


 久しぶりに柚子と目が合う。

 その刹那、胸の中で何かが暴走しかけて、それをやっとのことで抑え込む。


「お前、何しに——」


「ねえ、ちゃんと話したい」


 語気を強めてしまった俺の言葉を、立ち上がった柚子の声が遮った。

 普段は大人しい彼女だが、その胸には確かな強さが秘められていることを俺は知っている。その強さが滲み出た声に、思わず口をつぐむ。


「……上がれよ」


 それに対して自分の声は何だか弱々しく聞こえ、俺は彼女から目を逸らしてドアの鍵を開けた。

 部屋に入ってソファーに力なく座り込むんで、自分の膝をじっと見つめた。柚子も俺の隣にそっと座った。

 二人の距離がいつもより少し離れているのは、多分気のせいではない。


「晩ご飯、食べた?」


「まだ」


「何か作ろうか?」


「……いい」


 体調が悪いわけではない。けれどちゃんとした食事をとる気にはなれない。このところずっとこんな感じだ。


「……最近ちゃんと食べてる? お昼も夜もずっと仕事してるし、心配で——」


「そんな話しに来たなら、帰ってくれ……」


 柚子が俺を気遣ってくれているのは痛い程伝わってくるのに、胸に居座り続ける黒い感情が邪魔をする。そんな感情を抑えながら出した声は、自分でも驚くくらいに素っ気なかった。

 柚子の肩がびくっと揺れたのが分かった。


「っ、ごめんなさい……」


 全く傷の癒えていない胸に、さらに痛みが走る。

 決して柚子を怯えさせたいわけじゃないのに、俺はなぜこんな酷いことが言えるのか。

 深く息をついて太腿に肘をつき、組んだ手の上に頭をもたせ掛けた。


「優くんも、聞いたんだよね」


 俺とお前が兄妹だってことか?

 そう返すべきなのに、声が出ない。

 口に出してしまえば、その事実を認めてしまうことになるような気がして。

 俺が何も言わないことを無言の肯定と捉えたのか、柚子は喋り続けた。


「ほんと、びっくりだよね。何も知らなかったのは、私たちだけなんて……」


 努めて明るく話そうとしているけれど、不自然さを感じてしまう。


「そうだ、これ、返すね……」


 そう言って柚子が取り出したのは、小さな白いケース。

 花火大会の日、プロポーズしたときに俺が渡したものだった。


「また他に好きな人ができて、プロポーズするってなったら、その人にあげて」


 そんなこと、できるわけがない。したくもない。

 そんなこと、お前には嘘でも言ってほしくないのに。


「なあ、何でそんなに平気そうなんだよ……!」


 そう叫びながら横を向くと、柚子の目からは涙がぼろぼろと零れていて。

 俺はそのときになって初めて、柚子の声が震えていたことに気づいた。


「私だってつらいよ! 優くんと結婚して、幸せになれるんだって思ってたのに……! でも……」


 彼女の顔は悲しみに歪んだ。


「……だめなの。優くんは他の人と、幸せにならないとだめなの。だって、私たちは、兄妹なんだから——」


 嫌だ、そんなの認めたくない。

 衝動的に彼女の身体をソファーに押し倒し、言葉の続きとともにその唇を塞ぐ。

 強引に唇を割り開くと熱い吐息が漏れて、俺の中で渦巻く名前も分からない感情を煽った。


「優く……んんっ……」


 柚子は俺の身体の下でもがこうとするけれど、無理やり押さえつける。荒々しくなる手つきはもう自分でも止められない。

 ブラウスもスカートもはだけさせ、自分のものだという印を至るところに付けていく。室内に儚い水音と柚子の声だけが響く。


 俺を幸せにできるのはお前しかいないって、俺が幸せにしたいのもお前だけだって、お前が一番分かってるくせに。

 お前を他の男になんて渡したくない。触れさせたくもない。


 そう叫びたくて、でもできなくて、ただただ激情に身を任せた。

 一つに繋がったとき、柚子の目から一粒の雫が微かに光りながら落ちていったのが見えた気がした——。




 柚子は疲れて眠ってしまった。

 彼女の小さな身体をベッドに運んで寝かせ、俺も横になったがなかなか寝付けず、窓の外を眺めていた。

 欠けた月が天高く昇り、布団からはみ出した柚子の白い肌を照らしている.


 自分だってつらいだろうに……いや、もしかしたら俺以上につらいかもしれないのに、柚子は逃げずに俺と向き合ってくれた。

 そんな柚子に、俺は何てことをしてしまったのか——。


 柚子のあどけない寝顔を見つめながら、俺は激しい後悔と自責の念に苛まれていた。

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