これから(1)

 俺は、翌日の十四日に自分のマンションの部屋に戻ることにした。

 父さんと二人だけの実家に居づらくなってしまったからだ。

 一人きりでいるのもそれはそれでつらいとは思うが、今は誰とも会いたくない。

 朝の十時くらいに目が覚めたが、柚子からの返信は相変わらず来ていなかった。

 父さんが昨日電話していたのは、多分離婚して出て行ったという元妻の女性。つまり柚子の——そして俺の、実の母親。

 ということは、柚子も真実を知ってしまったのだろう。

 だから、『お前の実家には行けなくなった』なんて敢えて伝えなくても大丈夫なはずだ。


『ごめん、やっぱり俺、今日戻るわ』


 一言だけメッセージを送り、何も知らなかった頃の幸せなやり取りが目に入る前にスマホの画面を暗転させた。

 空腹感はあっても何かを食べられる気はしなかったが、それでも一階に下りる。洗面所で顔を洗ってから鏡を見ると、この世の終わりのような顔をした自分がいて、そっと顔を背けた。

 朝食もろくに喉を通らず、昨日広げたばかりの少ない荷物をまとめて玄関に向かった俺を、父さんが見送りに来た。


「……いろいろと、ごめんな」


 父さんまで沈鬱な表情をしていて、その顔を見ていられず俯く。


「仕事頑張れよ」


「……」


 父さんとはまだ冷静に話ができる気がしなくて、何も言えず実家に背を向けた。

 父さんに限らず、今は口を開けば誰彼構わず当たってしまいそうだ。

 帰ってきたときより随分と重く感じられる荷物を背負い、駅に向かってのろのろと歩いた。太陽は既に昇っていて日差しがきつく、気を抜けばアスファルトに沈み込んでしまいそうだ。

 ……本当は、柚子と今顔を合わせるのが怖かった。

 いざ彼女を目の前にした自分がどうなってしまうかが分からなくて、怖くてどうしようもない。

 しかし仕事がまた始まってしまえば、嫌でもその姿を見ることになる。同じ部署なのだから、これだけは避けられない。

 駅に着いて改札を抜け、人がまばらなホームで待っていると、十五分程で電車が滑り込んできた。

 電車に乗って二人掛けの席の窓際に座っても、俺の頭は考えたくもないことを勝手に考えてしまう。


 やっと、振り向いてもらえたのに。

 一度離れてしまった彼女の気持ちを取り戻してまた結ばれたのに、最初から触れてはいけない人だったなんて。

 ついこの前プロポーズして、同じ未来を二人で描いていたはずなのに、このざまかよ。

 俺が一体何をしたっていうんだ? この世に神様とやらがいるのなら、この仕打ちは一体何なんだ?

 俺はこのとき程——柚子が記憶をなくしたときでさえ——自分の不運さを、運命の理不尽さを恨んだことはなかった。

 柚子だってそうだ。記憶が戻らなくても前を向くと決めたのに。これじゃあ意味がないじゃないか。せっかくの柚子の努力を踏みにじるなんて。

 例えこの先何があったとしても、柚子にだけは幸せになってほしいと思っていたののに。

 俺のことが好きだと言ってくれた彼女。その笑顔が泣き顔に変わってしまうことを考えるだけで、胸が切り刻まれるような感覚に襲われる。

 心の痛みを無理やり抑え込もうと唇を強く噛んだ。微かに血の味がしたけれど、そんなことはどうでもよかった。


「……死にてえ」


 どんなに仕事がつらくても言わなかった言葉を、初めて零した。

 いろいろな感情が渦巻いて、その苦しさに耐えられなくて、いっそ全てを投げ出して楽になりたかった。

 涙まで一緒に零れてきて、握った拳で慌てて乱暴に拭うけれど、堰を切ったように溢れ出してきて止まらない。


「――っ、ふ……、う……」


 電車の中なのに。人がどんどん乗ってくるのに。

 そう考えて冷静さを取り戻そうとしてもだめだった。声を抑えるのに必死だった。


 その後のことはよく覚えていない。

 気づいたら自分の部屋のソファーに倒れ込んでいて、時計を見るともう真夜中で、俺の周りにはビールの空き缶がいくつも転がっていた。身体が異様に重くてだるかった。

 風呂も着替えも食事も、何もかもが面倒で、俺はベッドに移動することもできず再び泥のような眠りに落ちていった。




 盆休み明けの最初の出勤日。

 家に一人でいる間眠ることしかできず重くなった頭と身体を引きずって、どうにか始業ぎりぎりに経理部のフロアへと辿り着いた。どんなにつらくても休めない自分の生真面目さにまで嫌気がさす。

 柚子の席を見ると埋まっていたから、彼女もちゃんと出勤している。でも、怖くてその姿を直視することができない。

 なかなか集中できなかったが何とか今日の分の仕事を終え、十九時前に席を立った。

 荷物をまとめてフロアを出ると、少し遅れて軽い足音が聞こえてきた。


「優くん——!」


 誰もいない会社の廊下。ここで俺を『優くん』と呼ぶのは一人しかいない。

 俺は反射的に足を止めてしまった。できる限り彼女のことは避けようと決めたばかりなのに。

 俺が後ろを向けないのを知っているかのように、柚子は俺の正面まで走ってきて俺を見上げた。大きな瞳に俺が写り——慌てて顔を背ける。

 二人の間に長い沈黙が舞い降り、やっと柚子は喋り始めた。


「あのね、その……話したいことがあって——」


「ごめん、俺は話したくない」


 半ば柚子の言葉を遮るように強引に会話を終わらせ、柚子の顔を見られないまま、その横を通り過ぎた。


「優くんっ……!」


 俺の名前を叫ぶ声が、俺の背中にぶつかる。でも柚子自身は追いかけて来なかった。

 今振り返ったら、柚子はきっと悲しそうな顔をしているだろう。それ程に悲痛な声だった。

 たった一言で柚子を傷つけてしまったことが痛い程に分かった。自分の心まで痛くて仕方がなかった。

 それでも振り返ることはできなかった。


 本当のことが分かった以上、俺たちは結婚はおろか、このまま付き合い続けることも許されない。心のどこかで、そんなことはもう分かっていた。

 それでも、認めたくなかった。

 柚子の口から『別れよう』と言われるのが怖かった。


 電車に乗っていても駅から歩いていても、今日の柚子の声が頭の中で何回も再生されておかしくなりそうだった。

 相変わらずぐるぐると回り続ける思考を断ち切りたくて、夕食もとらずベッドに寝転ぶと疲れがどっと出て来たのか、ものの数分で俺は眠りに就いていた。

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