終章 桜並木の道で(3)

 翌朝はここ最近で一番目覚めがよかった。久しぶりによく眠れたようだ。

 昨日のことを思い出して隣を見ると柚子はいなくなっていて、不安に駆られた。


「……柚子?」


 急いで着替えて彼女の姿を探すと、


「おはよう、優くん」


 柚子は洗面所で髪をハーフアップに結い上げていた。

 また柚子がいなくなっているんじゃないかと思っていたが杞憂だったようで、ほっと胸を撫で下ろす。


「おはよ」


「朝ご飯、食べよ」


「うん」


 先に柚子がリビングに行き、俺も顔を洗って後を追う。

 昨日コンビニで買っておいたおにぎりやサンドウィッチを二人で分けた。

 そして、二人で洗面所に並んで歯磨きをした。九月のあの日から柚子がここに来ることはなかったのに、捨てられなかった柚子用の歯ブラシ。


「こいつももう、捨てなきゃだな」


 せっかく綺麗に洗って、また使ってもらえたのにな……なんて考えていると、


「引っ越し先に持っていく?」


 茶化すように柚子が言ったので言い返す。


「そんなことするか、バカ」


「あ、バカって言った!」


 そこで二人同時に噴き出した。

 こんなくだらないことで笑い合えるのも、これが最後なんて。




 引っ越し業者の人の来る時間が迫っていた。

 俺は柚子を見送るためにマンションの外まで一緒に出ていた。

 柚子は川の方を見て目を丸くした。


「桜、もう咲いてる」


「本当だ」


 昨日通ってきた桜並木。まだ大部分が蕾だった桜は、夜の間にたくさんの花を開かせていた。七分咲きと言ったところだろうか。天気がいいので、風にふわりと舞う花びらたちが柔らかく照らされている。

 しばらく無言でその風景を眺め——柚子は桜から俺に視線を戻した。


「優くん」


「何?」


「新しい会社でも頑張ってね」


「うん」


「たまには連絡してよ」


「うん」


「……幸せに、なってね」


「……」


 お前なしじゃ、幸せになんてなれねえよ。

 そう言ってやりたい気持ちでいっぱいだ。

 でも、そんなことを言って、柚子の精一杯の笑顔を曇らせるわけにはいかないから。

 柚子には最後まで、笑っていてほしいから。

 ぐっと奥歯を噛んで、それからまっすぐ柚子の目を見た。


「……うん」


 柚子は俺の答えを聞いて安心したように、そっと目を閉じた。


「今はまだ無理かもしれないけど、いつか……普通の兄妹として、笑って会えるようになったらいいな」


「そうだな」


 時間が解決してくれる。俺たちはそう信じて待つことしかできない。

 柚子はそこで腕時計を見て、そろそろ時間だねと呟いた。俺は無言で頷いた。

 柚子はもう一度、その大きな瞳で俺を見て——


「ばいばい、元気でね——お兄ちゃん」


 その瞬間だけ、泣きそうな顔で笑っていた。


「……ばいばい」


 そして柚子は、俺に背を向けて歩き出した。


 きっとこの先、どれ程綺麗で魅力的な女性と出会ったとしても、そのたびに柚子のことを思い出してしまう。そして、その女性に柚子を重ねてしまう。

 誰も、柚子の代わりになどなれない。

 誰かを代わりにするなんて不誠実なこともできない。

 それならもう、俺は一人で生きていく。

 それでいいんだ、俺は。


 桜並木に溶け込んでいく彼女。俺はその姿が見えなくなるまで見送り続けて、それからそっと背を向けた。

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