後日談 葉桜の季節
新年度が始まるとともに、新入社員が来て会社は慌ただしくなった。
ようやくいろいろと落ち着いてきた四月下旬の休日、私はある人に連絡をとって会っていた。
「お忙しいところ、わざわざすみません」
「いえいえ、こちらこそ、ここまで来ていただいて……」
誰かというと、あの事故でお世話になった、病院の速水先生だ。
先生は頭の傷を縫ってくれただけでなく、その後の検査でもしばらく私を診てくれた。そして何より、記憶をなくしてショックを受けていた私を支えてくれた、優しい先生だ。
だから、記憶を取り戻した今、改めてお礼を言いたかった。
いろいろと落ち着いてからと思ったら、もう一ヶ月も経ってしまったけれど。
先生は今日も病院にいて、午後からは手術が控えているらしいのに、わざわざこうして私のために時間をとってくれた。
先生の提案でやって来たのは、病院の中庭だった。端にある大きな桜の木は既に花を散らしていて、若々しい緑色の葉をつけている。私たちは木のベンチに並んで腰掛けていた。
「ただの虫垂炎──盲腸の手術なんで、大したことはないですよ。あ、と言っても手術は手術ですから、ちゃんとやりますよ」
「そうなんですね」
自分の患者ではなくなっても気を遣ってくれる程、この先生は患者想いの人だ。
「あのときは、ありがとうございました。傷もかなり目立たなくなりましたし、ちゃんと仕事にも復帰できました」
改めて感謝の気持ちを伝えると、先生は何でもないとでもいうように笑って手を振った。
「いえ、当然のことなので。それより……」
先生は真面目な医者の顔に戻る。
「記憶、戻ったんですね?」
「はい……」
「……それにしては、浮かない顔ですね」
「……」
そんなに表情に出ていたのだろうか、何だか見透かされているような感じがした。
先生はそれ以上追求せず、違う質問を私に投げかける。
「彼は、元気ですか?」
先生の言う『彼』とは──きっとあの人のことだろう。
あの日、私と一緒にこの病院に来て、私の記憶の一部がなくなったことを知り、それを取り戻そうと協力してくれた人。
そして、私を愛してくれた人。
「……彼は、転勤してしまいました。家庭の事情で、なんて言って」
「そうですか……彼にももう一度、会いたかったですね」
先生は寂しそうに言って、遠い目で青空を眺めた。
「彼は、彼とのことを忘れてしまった私を諦めず、ずっと支えて、また振り向かせてくれました。だから、今度は私が支えてあげたかった……」
いろいろと思い出すと泣いてしまいそうになって、それでもぐっと堪える。
「だけど、私たちには確かな繋がりがあります。いつか、全て思い出にして、笑って会えるようになったとき──」
──そのときに、できる限りのことをしてあげたいんです。
気づけば私は笑顔になっていた。
そんな私の話を、何のことだかよく分からないだろうに、先生は何も言わず聞いてくれた。
あまり長居しても迷惑になるだろうと、区切りがついたところでベンチを立った。
「今日はありがとうございました。手術、頑張ってください」
「こちらこそ。久しぶりにお会いできてうれしかったです」
先生は医局に戻ります、と言って病院の建物に入っていった。
「私が言うのもなんですが、お二人が幸せになれることを祈っています」
別れ際に、祝福の言葉を残して。
記憶が戻ってよかったのか、今でも考えてしまうことがある。
欠けていた部分が埋まったことはうれしいはずなのに、あの人を好きだった自分が戻って来た頃には、もうあの人と別れる直前だった。
それでもやっぱり思う。あの人への気持ちが、あの人との思い出が全て戻って来てよかったと。
あの人と結ばれることは叶わなかった。
それでも、私たちには別の絆があるから。
私たちの繋がりは、もう決して切れないのだと分かったから──。
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