後日談 向日葵の咲く庭

 佐藤楓さんが亡くなった。

 その知らせを聞いたのは、八月後半の出勤途中、父さんからの電話でだった。

 楓さんというのは、あの佐藤柚子の母親。つまり父さんの元妻で、俺の実の母親だ。


「明日の夜がお通夜で明後日が葬式らしいんだけど、お前はどうする?」


 仕事の都合もあるし、そもそも楓さん——母さんとの記憶はほとんど残っていない。そんな俺のことを考えて、参加の意思があるかどうかを尋ねてくれるところが父さんらしい。


「どっちも行けるようにするよ。父さんは?」


「俺は……向こうには新しい旦那さんもいるし……」


 葬儀などが行われるのは柚子の実家だ。いろいろと思うところはあるのかもしれないが……


「つまんない意地張ってんなよ」


 わざと明るい声を出した。


「優?」


「どうせ母さんのこと、ずっと忘れられてないんだろ? 最後くらい、ちゃんと見送りに行けよ。焼香だけでもいいから」


 結婚記念日が来るたびに、寂しそうな目をしていたの、何も言わなくても分かってたんだ。

 だからせめて最後くらいは、後悔しない選択をしてほしい。

 すると、父さんが電話口でふっと笑ったのが聞こえた。


「分かった、行くよ。……ありがとな」


 電話を切ると、もう会社のすぐ側まで来ていた。通い慣れた経理部のフロアへ向かうためにエレベーターに乗る。

 母さんの葬儀だから、当然あいつも行くんだよな。

 あれから十五年。あいつは今どうしているんだろう。

 十五年経って四十代になった俺も、結局まだ独り身だ。

 俺も人のことは言えないな、と思って肩をすくめた。変なところが親子で似たものだ。




 母さんの死因は肺がんらしい。

 実家に戻ってこの会社で働き始めた当初は柚子と連絡を取り合っていたが、忙しい日々を過ごすうちに頻度が減っていき、やがて途切れてしまった。だから母さんが病気だったことも、亡くなった後で知ることとなったのだ。

 生きているうちに連絡して、せめて一言でも話しておくべきだった。今の平均寿命を考えると、少し早いくらいの訃報だ。

 母さんの記憶はほとんど残っていない。それでも、小さな俺を包み込んでくれたあの温かさは、今でも胸の中に残っている気がしてならない。

 通夜の日は会社を早退する許可をもらい、父さんの運転で柚子の実家に行った。

 開始時間ぎりぎりになってしまったようで、俺たちが到着した頃には既に参列者が揃ってきている状態だった。急いで受付で名前を書き、中に入る。

 俺は母さんの息子なのだから親族の席の方に行くべきか迷ったが、知らない人ばかりみたいだしなんだか気が引ける。父さんも微妙な立ち位置なので、俺たちは後ろの方にこっそり座っていることにした。

 とはいえ今日は親族や特に親しかった人だけが集まる日なので、集まった人数はそれほど多くない。

 だから、自然と目に入ってしまった。

 黒い喪服姿で、でも艶やかで長い髪をハーフアップにしているのは昔と同じ。

 ここからだと後ろ姿しか見えないけれど、あれは——柚子だ。十五年も経っているはずなのに、直感的に気づいた。

 そしてすぐに通夜が始まった。長い読経の後に焼香の時間が来て、親族の人が順番に席を立つ。最初に焼香したのが柚子のお父さんと思しき人で、その次が柚子だった。

 俺の番が来たので立ち上がり、前に出た。向かい合った写真の中の母さんは、静かに微笑んでいた。顔も覚えていないくらいなのに、なぜかとても懐かしい感じがする。

 ふと熱いものが目に込み上げてきて、慌てて焼香を済ませた。

 そして戻ろうと振り返ったとき——最前列の彼女と目が合った。心臓に電流が流れたかのような衝撃が走る。

 柚子は目を見開いた。きっと俺だと気づいたのだろう。そして多分、俺も似たような表情をしていただろう。

 しかしこの場で話しかけるわけにもいかない。後で改めて話そう。

 そう思ったものの、遺族ともなるとなかなか忙しそうだし今は母親との別れを惜しむ時間だから、彼女が落ち着いてからにしよう。

 とりあえず今日のところはこれで帰ることにした。




 次の日の葬儀は近くの葬儀場で行われた。

 昨日は一日中曇り空だったが、今日は一転してすっかり晴れている。

 葬儀は滞りなく進んだ。父さんは悲しそうで、それでいて昔を懐かしむような顔で静かに座っていた。

 俺も母さんのことを偲びつつ、目では柚子を追っていた。

 柚子は俺よりも圧倒的に長い時間、母さんと過ごしている。だからその分、悲しみも俺よりずっと大きいはずだ。あいつはよく一人で抱え込もうとするから心配だが、今はこうして見守ることしかできない。

 こうして全てが終わったのは夕方だった。

 スマホを見ると柚子からメッセージが来ていたので、葬儀場から柚子の家に行った。父さんは先に帰ると言って、一人で行ってしまった。

 柚子の家は一軒家で、庭には向日葵の花が綺麗に咲いていた。その黄色い花びらは夕日に照らされてオレンジがかっている。何となく向日葵たちに見惚れていたら、


「優くん」


 と俺の名前を呼ぶ声。

 下の名前にくん付けなんて、久しぶりに呼ばれた。


「……お疲れ。久しぶり」


「元気だった?」


「うん」


 柚子は庭に面した縁側に出て来ていた。

 十五年経って、彼女は確実に年を重ねていた。しかし、その美しさは全く損なわれていない。

 記憶の中の柚子と目の前の柚子が重なる。途端に胸が疼いた気がして向日葵に視線を戻した。


「綺麗でしょう? この向日葵。お母さんが大事に育ててたんだ。……お母さん入院してからは、お父さんがちゃんとお世話してたんだって」


 明るい声音が少し震えた気がして、はっと再び柚子を見た。柚子の目には溢れんばかりの雫が溜まり、向日葵よりもさらにオレンジ色に輝いていた。


「いつかはこうなるかもって、覚悟はしてた、はずなのに……いざそのときが来たら私、涙が止まらなくって」


 新しい涙が彼女の滑らかな頬を滑っていく。そんな彼女を抱き締めたいと衝動的に思って手を伸ばし——しかしその手を引っ込めた。

 さすがにだめだ。

 十五年前に忘れようとした想いの欠片がまだ心の中で燻ぶっていたことを、このとき初めて思い知った。

 代わりにもう一度手を伸ばし、柚子の頭をそっと撫でた。


「つらかったな」


 柚子はしゃくり上げた。まるで昔に戻ったみたいだ——


「おい、柚子に何をしてる」


 知らない声が庭に響いた。

 驚いて玄関の方を見ると、眼鏡をかけた喪服姿の男性がこちらを睨んでいた。思わずまた手を引っ込める。


「えっと、あの——」


「柚子に気安く触るな」


 男性は静かに、でも今にも殴りかかってきそうな雰囲気を出しながら近づいてくる。

 慌てた俺を助けてくれたのは柚子だった。


貴仁たかひとさん、違うの」


「何が」


「この人が優くん。私のお兄ちゃん!」


「――!」


 柚子が『貴仁さん』と呼んだその男性は驚いた表情をして、それから頭を下げた。


「失礼しました。勘違いしてしまってすみません」


「あ、いえ……」


 そんなことより、柚子が親しげに名前で呼んでいるということは……


「優くん、この人が私の旦那さん、です」


「……」


 十年以上も前だろうか、柚子が結婚し、名字が佐藤から中原に変わったと聞いたのは。確かこのときも、父さんに知らされたんだっけ。

 そうか、お前は幸せにしてくれる人を見つけられたんだな。


「そうか。今さらだけど、おめでとう」


 彼女への気持ちが完全に消えたと言えば嘘になる。

 だけど、彼女のことを心から祝福することができるくらいには、傷はもう癒えている……はずだ。まだ自信はないけれど。


「じゃあ、俺はそろそろ帰るよ。――幸せにな」


 それだけ言って二人に背を向け、俺は歩き出す。


「――優くんも!」


 決して大きくはなかったけれど、彼女の声は確かに俺の耳に、そして心に届いた。

 後ろは振り向かず軽く右手だけ上げて、俺は佐藤家の庭を後にした。

 大輪の向日葵たちに見守られながら。




 fin


 

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