君の好きな人は──

海月陽菜

別れは唐突に(1)

 人はいつだって、予告もなしに絶望という底の見えない穴の淵に立たされる。

 そして、そのことに気づいたときにはもう、背中を押されている──。




 四月上旬、桜が満開になりすっかり華やいだ川沿いの道を、俺──鷹尾優たかおゆうは恋人の佐藤柚子ゆずこと歩いていた。

 俺たちは同じ会社の経理部に務めている同期で、仕事終わりに待ち合わせて同じ電車に乗った。

 俺の住むマンションの最寄り駅に着くと近くのコンビニに寄って、金曜日だから飲もうなんて言って缶ビールやチューハイを買い、再び帰路に着いた。


「やっぱり式を挙げるとなると、お金かかるよねえ」


 溜息混じりに呟く彼女の手には、なぜか結婚情報誌。

 言っておくけれど、俺はまだプロポーズなんてしていない。

 本人曰く、『こういうのって、読んでるだけでも楽しいじゃん』とのことだ。

 ……本人はそう言っているけれど。


(本当は期待してたりすんのかな……)


 いや、俺だっていつかはしなければと思っている。というか、そろそろしたい。でもまだ覚悟を決めきれずにいる。


「でもやっぱり、綺麗な教会で挙式って憧れるんだよね」


 そんな俺の胸のうちを知ってか知らずか、俺の恋人は楽しそうに語るのだった。そして俺は、そんな柚子を見るのがとても好きだ。

 黒く艶やかな髪を胸の下まで伸ばした彼女は、普段は見た目通り大人しい。でも俺の前では時々こんな風にはしゃぐことがあって、それがたまらなくかわいいといつも思っている。

 やがて俺たちは、道の途中にあるちょっとした階段に差し掛かった。この階段を上って上の道に上がればうちのマンションが見えてくる。

 仕事終わりに階段ってきついよね、なんて笑いながら、最後の一段を上ろうとしたときだった。


「あっ」


 急に強い風が吹いて、柚子が持っていた雑誌を取り上げた。


「おっと」


 俺はなんとか右腕を伸ばして雑誌の端を掴む。

 と、自分の身体がぐらりと傾くのを感じた。


「優くん!」


 滅多に大声を出さない柚子が俺の名前を叫んだ。そして俺の左腕を掴んで引き戻そうとする腕。

 しかし彼女一人で俺を支えられるわけもなく、俺たちは二人して階段を転げ落ちていった。

 咄嗟に柚子を庇おうと抱き締めたけれど、転がっていると訳が分からなくなってきた。

 永遠のように思われた時間がやっと終わり——俺たちの身体はようやく襲いかかってきた衝撃から解放された。


「っ……」


 あらゆるところが痛むが、大したけがはしていなさそうだ。


(無事、だったのか……?)


「柚子、大丈夫——」


 声をかけながら隣の柚子を見て——身体中の血の気が引いた。


「柚子!」


 彼女はぐったりしていて俺の呼びかけに答える気配がない。

 焦って身体を抱えようとしたとき、生温かいものが手にべっとりとついた。

 それが何かなんて、暗くてよく見えなくてもすぐに分かった。


「柚子! 柚子!」


 何よりも大切な恋人が危険な状況にあるというのに、パニックになった俺は彼女の名前を叫ぶことしかできなかった。

 その後すぐに、偶然通りかかって俺の声を聞いた通行人の方に救急車を呼んでもらい、柚子は近くの市立病院に搬送された。救急隊員になだめられた俺も乗せてもらい、彼女を失うことへの恐怖にただただ震えていた。

 俺が捕まえた雑誌はぼろぼろになって、階段の下に置き去りになっていた。

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