君の好きな人は──

彼女のお願い（３）

　六月に入ると梅雨の影響で休日に雨が降ることが増え、七月は経理部全体が忙しくなって、土曜日はほとんど出勤になった。

　だから外出できる機会は少なかったのだが、それでもお互いの休みが合ったときはなるべく思い出の場所を巡ることにした。

　次の連休が来るまでは近場をまわることにしていたので、水族館や

　映画も何回か観に行った。柚子は恋愛ものが特に好きらしい。記憶をなくす以前から好きだった少女漫画が実写化されたと知ってかなりの衝撃を受けた後、『観たい！』と軽く叫んでいた。

　そこで、さっそくその会話をした二週間後の日曜日に観に行ったのだが……。

「なんか原作と違ってて、ちょっと微妙だったかも」

　映画の後に立ち寄った、近くのショッピングモール内のカフェにて。

　柚子は少しがっかりしたような顔でアイスカフェオレのグラスに口をつけた。

「あー、そういうのたまにあるよな」

　俺は原作を知らないから何とも言えないが、柚子が言うならそうなのだろう。

「まあいっか。俳優さんとか好みだったし」

（ああいうのが好きなのか？）

　……いろいろと思うところはあるが、何も言わないでおこう。

　とりあえず気持ちを落ち着かせるためにアイスコーヒーを一口飲んだ。

「そうそう、次はどこ行く？　まだ行ってないところって結構あるの？」

「そうだな……」

　もう七月の終わり頃だ。もうすぐ八月。この時期に柚子と行ったところと言えば……

「八月のはじめにある花火大会だな」

「花火大会！」

　柚子は目を輝かせて身を乗り出した。こういうときの彼女は本当に子供っぽく見える。普段は見せない、きっと俺たちの会社では俺しか知らない一面。

「あの毎年海岸の近くでやってるやつ？」

「そうそう」

「今年もやるんだねえ。……一昨年も去年も一緒に行ったの？」

「うん、行ったよ」

　柚子の記憶は未だに戻っていない。そのことに触れるたび、ほんの少しだけ彼女の顔が曇ってしまうように感じる。

「鷹尾くんは浴衣持ってるの？」

「ああ……一昨年普通の私服で行ったらお前に『浴衣がよかった』って言われて、去年買ったんだよ」

「えっ、私そんなこと言ったの！？」

　柚子は両手で頬を押さえた。

「やだ、恥ずかしい……って、何笑ってるの？」

「いや、かわいいなって思って——あっ……」

　そこで自分がかなり恥ずかしいことを言ってしまったことに気づいた。これはさっきの柚子の発言より恥ずかしいんじゃないか？

「っとにかく、行くんだろ？」

「う、うん、行く……」

　俺は火照った身体を冷ますように、残っていたアイスコーヒーを一気に飲み干した。

　花火大会が開催されるのは八月最初の日曜日で、その頃までには忙しかった業務もひと段落ついた。

　そして約束の日。

　黒い浴衣を押し入れから引っ張り出して、悪戦苦闘しつつ何とか自分で着付け、会場の近くの駅に向かう。電車の中にも同じように浴衣を着た人がたくさんいたが、男一人で浴衣を着ているのは少し恥ずかしいような気がする。

　改札を出て、待ち合わせ場所に決めたあのケーキ屋の前に着くと、見覚えのある浴衣が見えた。

「佐藤」

　近づいて声をかけると、柚子は俺を見上げた。

　去年と同じ待ち合わせ場所に、去年と同じ浴衣。この場所を指定したのは俺だけど、シチュエーションがあまりにも去年と酷似していて——俺は動きを止めていた。

「鷹尾くん……どうしたの？」

「……何でもないよ」

「それならいいけど」

　柚子が着ているのは、青地にピンクや紫の朝顔が描かれた浴衣だ。帯は明るい黄色で、髪はサイドで緩くまとめてある。

　会場の近くというだけあって、どこを見ても色とりどりの浴衣で視界は埋め尽くされているのに、柚子の姿だけがなぜか浮かび上がって見える。

「早く行こう！　お腹空いちゃった」

「さっそく食い物かよ……」

「いいじゃない、もうすぐ晩ご飯の時間だし」

　少し怒って頬を膨らませている彼女に、不意打ちはずるいと言いそうになったが堪えた。

「じゃあ、行くか」

「うん」

　二人で歩き出したとき、柚子の後ろから高校生と思われる何人かの集団が来て、そのうちの一人の男子が柚子にぶつかった。

「あっ」

「あ、すみません——」

「おっと」

　気づけば俺は、よろけてしまった柚子の身体を抱きとめていた。約四か月ぶりに触れた彼女は柔らかくて微かに甘い匂いがして、少し気を抜けば冷静さを失ってしまいそうだ。

「あ、ごめん……」

「……ううん、ありがとう」

　柚子の顔は見られなかったけれど、耳が微かに赤く染まっていった。

　それにしても、とにかく人が多い。もしいったんはぐれてしまえば、スマホを持っていても再び会うのは難しいだろう。だから——

「人が多くて危ないから、今日だけ手繋いでもいい？」

　手を繋いだことなんて数えきれない程あるはずなのに、どういうわけかすごく緊張してしまう。

　柚子は俺から目を背けたまま黙り込んで、それからこくんと頷いた。

「……はい」