最悪なタイミング

 仕事を再開した柚子は、怪我をする以前よりもさらに仕事を頑張るようになった。昼休みには社食にも行かず、弁当を食べながらパソコンに向き合って、記憶から抜け落ちてしまっていることは全部メモして……なんだか二年半分の遅れを必死に取り戻そうとしているように見えて、俺はとても心配だった。


 いくら会社が仕事をする場とはいえ、そういう話題が出ないとは限らないのだ。特にあの進藤先輩ともなれば、本人がいないところでもよく話題に上る人だ。柚子が知ってしまうのも時間の問題だろう。

 だけど、なかなか踏ん切りがつかなかった。俺が言ってしまえば柚子は傷つく。


『先輩……好きな人がいるんだって……』


 三年前のクリスマスイヴの日、そう言って泣いていた彼女の姿を思い出す。もう二度と、あんな柚子は見たくはなかった。

 どんな形で知ろうが傷つくのは同じだと、分かっていたはずなのに。

 腹を括れなかった俺に、天罰が下った。




 それは、柚子が仕事に復帰してから三週間程経った日のことだった。

 俺は隣の席の立川という後輩と一緒に、定時を過ぎても会社に残っていた。締め切りまで余裕はあるけど早めにやっとくか……と少し作業をしていたところに『どうしても計算が合わないんです』と泣きついてきた立川を見放すことができなくて手伝う羽目になったのだ。

 ちらりと向かいの席を見ると、柚子も残業をしていた。真剣な顔でパソコンの画面を見つめている。

 仕事のとき、柚子は大抵長い髪をハーフアップにしている。今日の服装は、淡い水色のブラウスに白のカーディガン、そして紺色の膝丈スカート。ずっと見ていたいけれど、気づかれたら怪しまれるので控えておく。


「あ、やっとできました!」


 立川のほっとしたような声が聞こえてきて視線を戻した。かなりのデータの量だったが、何とか無事に終わったようだ。


(意外とかかったな……)


 壁に掛けてある時計で時間を確かめると、もう二十時になろうとしていた。そしてその時計の下にいるのは課長と——


(進藤先輩……?)


 仕事のスピードが人一倍速い先輩がこんな時間まで残っているなんて珍しい。

 先輩は少し離れた席に座った課長と話をしていた。


「お前もあんなきれいな奥さんがいるんだから、早く帰ってやれよー」


「はい、そうですね」


 二人の声は決して大きくはなかったけれど、誰も喋っていなかったフロアに響き渡るには十分だった。

 はっとして柚子の方を見ると、彼女は目を見開いて固まっていた。

 そして自分の席に戻った先輩は、スーツのポケットから何かを取り出して——左手の薬指にはめた。

 誰がどう見ても、結婚指輪だった。

 そして先輩の席は、柚子の二つ隣だった。


「あっ……」


 そういえば先輩が会社で指輪をしているところを見たことがなかったが、仕事中はしないタイプなのか。

 とにかく、こんなタイミングで知られるなんて。

 そう思って咄嗟にだめだ——と言おうとしたが、もう遅かった。


「先輩……」


 柚子が口を開いた。その声は微かに震えていた。


「結婚、してたんですか……?」


 先輩は不思議そうに柚子の方を見た後、ふっと笑った。まるで何言ってんだ、と言いたげな表情。


「してるよ。てか、去年結婚式来てくれただろ。忘れちゃったのか——って、あっ……」


 そこまで言って、先輩はしまった、という顔をした。


「ごめん、記憶のこと忘れて、つい……」


「……失礼します」


 それだけ言うと、柚子は自分のバッグを持って出ていった。

 俺は出ていく柚子の姿を呆然として見送り——その姿が見えなくなってからガタっと席を立った。


(柚子!)


「ちょ、鷹尾さん——!?」


 残っていた他の三人に見られているのにも構わず、俺は経理部のフロアを飛び出した。

 廊下に出ると、柚子はパンプスで無理に走ろうとしていた。

 何とか彼女がエレベーターに着くまでに追いついて、その右腕を掴んで引き留める。


「佐藤——」


「先輩が、結婚してたなんて……」


 柚子は振り向いた。


「そんな大事なこと、忘れちゃってたんだ……私、馬鹿みたい」


 目が潤んでいるのがはっきりと分かるのに無理して笑おうとするのが痛々しくて、見ていられない。

 けれどそれもつかの間のことで、彼女の顔はすぐにつらそうに歪められた。


「鷹尾くん、知ってたんでしょ?」


 さっきよりも震えた声。


「私、ずっと先輩のこと相談してたのに。……どうして先に言ってくれないの?」


 それは、お前が傷つくと思ったから——と反射的に言おうとして、でも言えなかった。

 こんなの、ただの言い訳だ。


「ごめん……」


「信じてたのに」


 柚子は俺の手を振りほどき、再び走り出した。

 彼女が向こうを向く直前、頬に光る雫が見えた気がして、俺はそれ以上彼女を追いかけることができなかった。

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