第21話 ヤクートの記憶

一九三〇年代

六番目の月アルテュンニュの、ある初冬の日(サハの一年での10月。実際には11月に近い)


 一歩を踏み出すたび、足元からぱりぱりとした音が響く。いまだ土中では生きている根から吸い上げられた水分が枯れた葉や茎から染み出し、そこかしこで小さな氷柱を形成している。

 足元は地中から生えた霜柱だらけ。夏には豊潤な水気を含み森林を支える肥沃な大地そのものが、今や凍りついているのだ。


 木々には霜が張り付き氷の森となっている。肌に触れる空気は氷の針に感じられ、刺すようだ。これでもまだ本格的な冬には程遠い。深く吸い込めば肺腑すら腐らせる極低音の大気が満ちるのはまだ先だ。


 小刻みに息を付きながら、フェオドーラは姉に遅れまいと小さな歩幅で進む。去年自分の手で仕留めた獣革のコートに身を包み、ずんぐりとした格好をして。


 初めての狩りは上々だった。ヘラジカを銃弾たった一発で仕留められたのだから。動物を殺したことに罪悪感はなかった。田舎暮らしをしていれば、生き物の死は身近に溢れているから。ヤクートの男の子連中が、五歳くらいから屠畜を覚え始めることを考えれば遅いくらいだ。

 むしろ、狩りに成功し、これで一人前になったという興奮と喜びが大きかった。


 発射した弾丸が、無限の彼方に飛んでいくように思えて、フェオドーラは弾道の軌跡にイッチの祝福が見えたのだ。

 さあ、私が遣わしたヘラジカを持っていきなさい。豊穣の女神アイーシットが寿ぐ声すら聞こえた気がした。


 思い出に浸っていると、スィルグがぶるると鳴く。フェオドーラの思考は現実へと帰る。左手で引いた手綱には、荷物運搬用の荷台が繋がれた老馬が霜を砕きながらゆっくりとついてくる。


 ヤクートは馬を食べる。主食だ。もうすぐ子馬の屠畜ウバハ・エレレェの季節でもある。特に子馬の、背中の下の脇肉はやわらかくおいしい。血の一滴すら飲み干し、無駄にはしない。馬もまた、豊穣の女神の贈り物だから。


 この老馬は運良く食肉につぶされずにすみ、去勢され使役馬アットとして長年すごしたあとに姉が頼み込んで譲ってもらった。赤人参色クダイ・アラガスの体毛はすっかり色褪せ、老いているが、健気に働くのでフェオドーラは気に入っている。年寄りすぎるので明後日の方向に突き進んだり、おしっこを漏らしたり、草と間違ってフェオドーラの黒髪をむしゃむしゃしたりする。ちょっとポンコツなのはしかたない、働いてくれる馬はこのこしかいないのだから。

 それに一年もいっしょにいるのだから、もう家族といっていいだろう。


 生き物の死には慣れていても、このこがいなくなったら寂しいかな、とは思う。


 二人と一頭が、朝焼けを進む。肌がひりひりする。ヤクートの地ヤクーチアは極度に乾燥した気候であり、シベリアという地域から想像されるほどに降雪は深くはない。

 でも、冬はものすごく寒くなる。雪を溶かしものを滑らせる熱すら発生しないほどなので、スケートすらできはしない。だからヤクートは橇を使わず車輪を使うのだ。


 狩猟牧畜民族であるヤクートは夏と冬で生活様式が違う。マツの月ベスから熊手の月アテュルダクフまでの三ヶ月間は夏の宿営地サイイルイクで草刈りや漁労、馬と牛の牧畜を行う。冬の宿営地キュストイクでは丸太小屋バラガンに住み、家畜小屋ホトンで動物の世話をし、ヘラジカやウサギ、クロテンなどを対象に狩猟をする。冬の家こその家だ。


 ヤクートは出身地により自己認識も別だ。段丘出身者クホチョ・オグゴートゥに、平地の草地出身者アラース・オグゴートゥ山地出身者クハイアラーク・オグゴートゥの三種類。段丘とはレナ川中流域左岸部にある、ナム郡エンセリ、ヤクーツク市を含むトゥイマーダ、カンガラス郡エルケーニのことで、ようは都会者。とくにトゥマイーダは民族起源にかかわる大切な場所だ。フェオドーラは典型的な田舎の田舎者、林隙草地アラース生まれだった。


 林隙草地の男たちの仕事は薪を割ったり、魚釣りをしたり、草刈りしたり。女たちは子供や弟妹のお世話、牛の乳搾り、キノコやベリーの採集をする。

 狩猟は冬の男の仕事で、フェオドーラ姉妹を除けばふつうは女はやらない。


 しばらく進むと、姉が足を止めた。フェオドーラも横に並ぶ。馬はほんの少し行き過ぎて停止する。慣性で荷台の車輪が動き、傍らで滑って止まる。

 手をかざす。目を細める。眩しい。視界を光が乱反射していた。太陽光の照り返しだ。氷上が輝き、幾千もの煌めきを瞬かせている。

 指の庇から視線を覗かせる。一面に氷が張り、静止した湖面が広がっている。


 人跡未踏。足跡一つ、傷一つない。美しいとすら言える氷湖だった。


「妹よ、今年は一番乗りのようだ」


 姉がにこやかに笑い、頭をぺしぺし撫でてくる。触られたフェオドーラもえへへと笑う。早起きしたかいがある。おかげで、一番キレイな氷にありつけるのだから。


 今年も飲料の季節がきた。


「氷の水は清らかな水」、ヤクートの諺にもあるとおり、湖面の氷は汚いものも悪い菌も、ぜんぶ底に沈んでいるため安全で清潔な部分なのだ。

 ベリーとキノコを育む森林。馬と牛の牧畜を養う草原。そして、水資源である湖。典型的なヤクーチアの地形。


「空に星があるように、われわれは湖を持つ。湖は皆を足らしめる」というやつだ。

 冬が直前に控えた今の時期は、湖から氷を運び出すのに最適なタイミングだった。これ以上遅れて冬がくれば、氷が分厚くなりすぎて人力では切り出せなくなる。

 シベリアは地面を数メートルも掘れば、永久凍土が露出する。永久凍土に井戸を掘ろうとするのはの考えだ。


 でも、永久凍土にも利点はある。通年を通して零度以下に保たれている永久凍土内は、言わば天然の氷室だ。ヤクートの家には、地面を堀り抜いた氷を貯蔵する部屋の穴オンクチャフや、庭には小屋ブルース独立氷室ムース・アムバーラが必ずある。そこに冬前に切り出した湖の氷を仕舞っておき、必要になれば汚れを削り落とし切って溶かして生活水として使うのだ。


「氷が凍る」とは生活様式を指す慣用句で、そこから作る氷の水ムース・ウーはとても美味だ。


 採氷活動ムース・ウルッタ、氷の切り出しは重労働のため、大概は男たちの仕事だ。だが、フェオドーラの父と兄はでいなくなった。母は心労がたたりぽっくりと死んだ。

 誰にも責任のない、しかたのない出来事だった。

 代わって一家を支えていた祖父は、ある冬の日に狩猟に出掛け帰ってこなかった。狩りの道具も持たない出発だった。


 おじいちゃんが決めたことだ、しかたがない。


 だから、女しかいないフェオドーラ家では姉妹ふたりで氷の切り出しをやるしかない。

 たいへんではある。でも、生きるためにはしかたない。

 この世界は、たくさんのしかたないであふれているのだ。


「妹よ、木製雪かきカール・キュルジュフを」


 まず最初に、雪かきを使い湖面の雪をどかす。そのあとに、ノコギリで氷を切断し鉤棒バグゥールで引っ張り出す。それが氷の採り方である。姉が橇の中に仕舞った切り出し用の道具を準備し始める。

 フェオドーラも手伝おうと振り返る、その直前。ふと日差しが陰った。


 老馬が小さくいなないた。


 恐怖と畏怖の声――なにを怖がってるの。

 老馬を落ち着かせようと、手をかざすのをやめるフェオドーラ。光の陰影に紛れていた対岸が、初めて詳細が見て取れた。


 広がる針葉樹林。森林と同化するように暗い体毛が蠢いている。何かがいる。やがてそいつは二本足で凍った地面をひしがせ、立ち上がり、何倍も大きくなる。

 フェオドーラは恐怖に呪縛され、動けなかった。頼りの姉は準備に忙しく気付いていない。


 やがて双眸は、王が持つ威厳を思わせヤクーチアを睥睨する。フェオドーラはぶるりと震える。城塞じみた堅固な体躯に。人間などひと咬みで砕きそうな顎門あぎとに。巨木のようなかいなと、ぞろりと並ぶ爪に。


 なによりも、人とは異なる摂理に生きるものの視線に慄いた。

――すぐに正体がわかった。


 震えが止まらない。瞳孔が開き、産毛が総毛立つ。身体が大地に金縛られ動けない。

 このまま黙っていては、あれに食べられてしまう。いや、食べきれなくてあとにとっておこうと生きたまま埋められて辛いことになるかもしれない。

 それが自然の掟なら。この世界がたくさんのしかたないであふれているのなら。

死ぬことも、しかたのないことなのだろうか?


 老馬が怯え、鼻先でフェオドーラの頭を小突く。


 押された拍子に、ごくりと唾を飲み込む。恐怖に鳴らした喉の音がやけに大きく感じられる。

 でも、濡れたおかげか、喉の筋肉が辛うじて動きだす。必死に声を搾り出す。


森の者チャターギューだ」


 言葉に出すと金縛りが解けた。息を呑み込みながら姉の袖を引く。

 森の者とは、エフェーのことだ。ヤクートは精霊に祝福儀礼アルグスを捧げる狩りのとき、悪霊に邪魔されぬよう獲物の真の名をけっして呼ばない。トナカイならば単にけものクィール。そして熊には特別の敬意を込め森の者と呼ぶ。

 この遭遇は意図したものではないが、フェオドーラの口からでたのは狩りの言葉だった。

 姉が頭を廻らせる。


「熊か、しかも大きい。妹よ、よく気が付いた。私よりも早いな。でも、慌てることはないぞ」


 ごくごく落ち着き払った声音で言う。


 吠え声が対岸まで轟く。耳を聾する咆哮だ。まるで生きている颶風のようだった。

 冬を目前に控えた今の時期は、冬籠もりのために熊は飢えて危険だ。眠りの前の晩餐にしようと、フェオドーラの老馬の臭いに惹かれたのか。そして副食は、もちろん。

 察した姉が力強く言う。


「安心しろ、妹よ。熊は視力よりも嗅覚に頼る。今は無風。我々には気がついていない」


 姉はまったく動じていなかった。


「橇にライフルがある」


 無理だよ! フェオドーラは声にならない叫びをあげる。姉が使うライフルは、帝政時代の古臭い代物だ。固定弾倉はなく装弾数は薬室のわずか一発のみ。

 おじいちゃんが唯一、残してくれたものだけど。

 あれはヘラジカと比べものにならない体躯だ。とてもじゃないが、熊のぶ厚い筋肉と脂肪を貫通し一撃で致命傷を与えることができるとは思えない。

 反撃される可能性は高い。


「精霊に聖なる火をもってウォトカを捧げている猶予はないな。まあ、これは狩りではないが」


 姉が予備弾薬を咥える。薬莢の金属部が寒さで唇に貼り付かぬよう歯でがっちりと。

 そしてベルダン・ライフルを取り出し、泰然とかまえる。手慣れたさまは、優雅ですらあった。

 薬室を開放し一発目を装填。狙いを定め、引き金を引き絞る。撃発。銃口から火花が散る。


 ボッと熊の頭部、その一部が砕けた。

 でも、まだ斃れない。なんという生命力だろうか。血と骨を垂れ流しつつ、ぐるりとこうべを巡らし姉妹を見据える。フェオドーラは姉の獣革のコートをぎゅっと握る。


 森の者の視線は、静謐で孤絶している。ただ黒い瞳が、飛来する死を超然と見つめている。

 まるで、自分が何者かをも知らない愚者のようだ。


 フェオドーラはふと納得し、同時に疑問が湧き上がる。これは、姉の言う通り狩りではない。

 ならば、なぜあの熊は殺されねばならないのだろうか。


 コートの陰に妹を隠し、姉はボルト・ハンドルを操作。使い捨てのベルダン式薬莢を排莢。乱れを知らぬ指先で次弾を口から引き抜き、二発目を装填。

 疑問を言葉にできぬまま、フェオドーラは口を開く。


「おねえ!」

「人も獣も」


 フェオドーラが身を揺すっても、姉は照星を覗き照準を崩さない。


「脳の構造はそう変わらない。脳の大脳部、内嚢。あるいはそこから神経が伸びた交錯点である延髄。それらは肉体の運動機能を司る。もし破壊されれば」


 再発射。小気味良い銃声が轟く。寒く乾燥した重い大気の抵抗を無視し、弾丸が飛翔する。姉の初弾は、熊の顔面を振り向かせることに成功していた。意図した射撃だったのだ。

 二発目が直撃する。熊の鼻が弾け飛び、口径約十一ミリの弾が鼻腔を穿孔し頭蓋のなかに潜り込む。


 瞬時に熊が倒れた。

 無様で、哀れな転倒。フェオドーラは、恐怖のなかに憐れみがさざ波のように揺らめくのを感じる。湖面に投じられた一石が、波紋を生じさせるように。


「すぐさま死なずとも、即座に四肢が弛緩し動きが停止する」


 やめて。もういいじゃん。狩りじゃないのなら――フェオドーラの声は、銃声に掻き消された。

 三発目を頭部へ、潰れた鼻先から脳を貫く。ベルダン・ライフルの猛り声がヤクーチアに木霊する。


 熊の体表から、凍える大気に生命の痕跡を示す蒸気がどっと沸き立った。獣特有の荒い息遣いが、筋肉の動きが、心臓の脈動が、じょじょに消えていく。


 沈黙。


 姉がライフルを背に回す。おそるおそる庇護者の陰から身を乗り出すフェオドーラ。


「死んじゃった」


 呟くと、姉の優しい手が帽子に置かれた。


 田舎暮らしだ、生き物の死には慣れている。食べたり毛皮にしたりするために、殺す。その死にはたいがいに意味がある。そして意味のある死には、常にイッチの祝福がある。


 でも、森の者の死には、なにがしかの意味があり、それは、しかたないものなのだったろうか。


 姉の手を両手で握りしめる。手袋越しの感触が恐怖を溶かしてくれる。いや、それ以上に悲しみがあった。ほんの少し、怒りもあるかもしれない。さまざまな感情がない混ぜになり涙が込み上げてくる。ぐずつく。


 老馬に後頭部をぐりぐりされると、たくさんの「しかたない」といっしょに感情が溢れ出した。


「なんであたしたち、こんなにたいへんな場所で暮らしてるんだろう」


 魂すら凍てつかせる寒波。夏と冬で住居を変える移動生活。獰猛なけものたち、死と隣合わせの狩り。忙しない家畜の世話。気候に左右される採集生活。水だって、都会のように蛇口をひねれば出てくるわけじゃない。


 それに、おじいちゃん。


 大人たちは誰も言わないけれど、ヤクートには棄民の慣習がある。動きの悪くなった年寄りは、みずから寒くて孤独な小屋に籠もるのだ。


 そして、ひとりきりで逝く。


 おじいちゃんは狩人だったから、森に行くのを選んだだけだ。


 それはしかたのないことなのだろうか?


 ほんとうは、ずっとずっといっしょに暮らして、孫たちに気を揉んでいたかったに違いない。あたしだって――おじいちゃんが嫌いな孫なんて、いるはずがないじゃないか。


「あたし、この土地は好きだよ。お祭りウヒャフは楽しいし、景色は綺麗だし、みんな助け合って生きてる。大好きだよ。うまれた場所だもん。でも」


 鼻水をすする妹に、姉はしゃがみ込み、目線を揃える。


 互いの額と鼻先をそれぞれ触れ合わせてくれる。姉の体温は、暖かだった。それっぽっちのものですら、姉妹で分け合わねばならないように。


「たまに、ライフルから飛ばした弾丸みたいに、どこか遠くへ行きたくなるんだ」


「妹よ」


 藍が混じる夜光雲の眼。ヤクートの血筋を示す深い色合い。先に生まれたものの使命として幼子おさなごを慈しむ、真摯な瞳が見ている。


「昔話を少しだけ語ろうか。私たちヤクートが大きくわけて二つの集団の集合体だというのは知っているな?」


「うん」


「レナ川左岸部のカンガラス族とナム族を率いるディギン。レナ川右岸部からアムガ川はメンゲ族、ボロゴン族、パツール族を纏めるレゲィ。対立はあれど、徹底した敵対もなし。巨大な政治組織になることもなし。素朴で静かな暮らし。だがそこに、彼らがやってきた。一六三〇年代のことだ」


「彼ら?」


皇帝ツァーリの尖兵。税の支払いを免除される代わりに、武を振るう一団。彼らは我々とは違った形で馬を使役し、騎乗に長けた強力で無慈悲な騎兵だ。我々の先祖は、ディギンは彼らの侵略に抗い、だが近代火器を操るコサックに大敗した。併呑はされず、隷属はされたが血は残され、毛皮税ヤサークを払うことになった。そこからロシアの、スラヴ人の支配が始まった」


 フェオドーラは姉のライフルの銃把をさわる。豊穣をもたらす上層の神が顕現させたかのように、たしかな形を持ってそこにある。

 目尻から零れた涙が、頬を伝い落ち凍った地面を濡らして温度を失う。


 コサックさえいなければ。ヤクートは寒い思いをすることもないし、おじいちゃんがいなくなることもなかった。

 たくさんの「しかたない」も、なかった。


 ごとん。心の奥底で、なにかがずれた。世界を支える背骨のひとつがずれた気がする。指先がこわばった。姉が旧式ライフルの薬室を開放し次弾を装填するときよりも鈍く、不気味な音。

 なんだかわからないが、決定的に変わってしまったのだ。この感覚は、なんというのだろうか。ただただ言葉にできないことが気持ち悪くて、姉の昔語りにフェオドーラは問うた。


「コサックは、悪い奴らなの?」


 目尻を下げ、姉は困ったように笑う。


「さて、どうだろう。憎んだり怒ったり、恐れたりするにはあまりに長い時が過ぎた。時代というのは情けを持たない。血で血を贖う革命が起きたんだ。ついにはあんなに強かったコサックや皇帝すら駆逐され、ソビエトという国家が勃興し、そして」


 両腕を背へと回し、姉は妹を抱きしめる。

 颶風が氷上から吹き付ける。うねり、つよく、さすように。


 いままでは感じさえしなかったのに。汗ばんだ姉の匂いには、なにかが入り混じっている。


 血の臭い。脳漿の臭い。骨の臭い。


 森の者の、死の臭いだ。


「一九二二年にヤクート自治ソビエト社会主義共和国が設立された。レーニンによる民族平等理念の具現化。新たな支配者である共産党コミュニスチーチェスカヤ・パルティヤはヤクーチアに港を建設し、鉱山を開いた。ダイヤモンド、石炭、金。石油や天然ガスも掘り出され始めた。知らない人も物も、入ってくるようになった。大公国よりも、帝政時代よりも働き口も増えた。だが」


 ヤクートは独自の言葉を持つ。しかし、ロシア人たちがやってくるにつれ、ロシア語もたくさん増えていった。


「開発や労働の中心部はスラヴ人たちに占有されている。我々は、いずれの経済活動にもなんら参加はできなかった。モスクワ政府にとって、ヤクーチアは事実上の国内植民地だ。覆しようのない格差がある。我々サハの地位は、スラヴ人ほどには高くない。いいか、妹よ」


 共産党という言葉は、ヤクートの語彙にないものだ。


 いずれ生活様式を一変させ、ヤクートを定住化させ、集団農業化させるともっぱらの噂。そうなれば、老馬も持てなくなる。

 これも、しかたのないことなのだろうか?


「自分の人生は、自分で選びなさい。流されるままに生きるんじゃないぞ」


 さとしてくれた姉は暖かだったはずなのに。

 なぜか、まとわりつく死の臭いが鼻についた。

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