第五章 交錯する思い

第23話 追跡者たち(上)

 ありていに言って、その男は私利私欲に肥え太っていた。


「わたくし、八路軍の皆々様のためにお役に立てるのではと思い馳せ参じました」


 丸々とした顔。いやに丁寧な美髯。甲高い声。だが今は、すべてが土埃に汚れていた。隠し切れない臆病さの象徴であった部下の数も少ない。

 マガミとスイフェンたち八路軍が出発してすぐ、男は現れた。

 男の名は富浩フゥー・ハオ。元満州国軍の砲兵下士だったがソ連が侵攻するやいなやお目付け役の日本人士官を殺害し部隊もろとも反旗を翻した男だ。野に下ったハオの部隊は素行が悪く匪賊となんら変わらないが、貴重な専門技能を持った砲兵部隊出身の下士官とあっては人材難の八路軍も無下にするわけにいかず、この男はお目溢しでで今日まで生き延びてきた。

 眉を歪めるスイフェン。面倒そうに口を開く。


「お前にかまっている暇はない」

「やや、これはこれは。実はわたくし桟荘チェンツァンである男と出会い、話しをしまして。とりとめもない会話だったのですが、聞けば八路軍のルゥ連長が部隊を率いなにかを探しているご様子。それでピンと来たのです」


 長口舌でいっきにまくし立てる。桟荘という中国語の言葉をマガミは知っている。人間と荷馬車に寝床を提供し、ときには倉庫業務も行う宿のことだ。

 スイフェンが政治指導員の顔色をうかがった。彼は判断の多くを父親が派遣したズィガオに依存している。問われたズィガオが無言のまま頷く。


「話せ」

「はい、はい。その男が言うには、浜洲線近くの森で奇妙なものを見つけたそうでございます」

「奇妙なもの? 我々が探しているのは人間だ」

「もちろんそうでございますとも。その男は馬を連れた行商人なのです。匪賊の襲撃を避けて――無論八路軍の皆様が快進撃に合わせ土着の賊を討伐してはおりますがなにせやつらは自然と湧いてくるものですからね――線路から少し離れたところを歩っておりました。なにやら捜索をしているご様子の八路軍の小規模な部隊を見掛けることしばし後。なんと、突然に銃声が響いたのです。これに馬が驚いてしまいました」

「ほう」


 憮然とした表情で聞いていたスイフェンの顔つきが変わる。ハオの銃声という言葉に興味を惹かれたようだ。


「続けろ」

「馬は森の中に逃げてしまい、行商人は慌てて後を追ったそうです。なにせ大切な商売道具ですので。苦労してようよう馬を見つけたのですが、その間も激しい銃声に慄いたと申しておりました」


 スイフェンとズィガオが顔を見合わせる。ハオが言っているのは行方不明になった古参排長が率いる部隊だと確認しているのだろう。


「そして、しかるにそこで見つけたものがあったそうなのです」

「もったいぶるな。それはいったいなんだ?」

「何者かの野営地です。少なくとも、二人分の煮炊きの跡も。それで行商人は、ははあこれは鉄砲を持った匪賊に違いない、正義を司る八路軍と戦いになったのだと恐ろしくなり、馬を連れこっそりとその場を離れました。そして、森を抜けるときに偶然遠目にしたそうです」

「なにをだ」

「武装した女がふたり。遠いので細部はわかりませんでしたが、髪が長いことから女と判断したそうです。長身の、黒髪をしたうすらでかい女とだいぶ小柄な狐色の髪をした少女。そのふたりが日本人の、裕福そうな服装から日本人に思えたそうですが、子供を捕まえていたと行商人はわたくしに説明してくれました。ひょっとすると、わたくしはこれぞ八路軍の皆様が探しておられる者ではと愚考したしだいでございます。よろしければ、わたくしがそこまでご案内できます。お役に立てそうでしょうか?」


 おおいに役に立った。


★ ☆ ★


 目的の子供がチチハルからハルビンに向かう引揚列車に乗ったところまではスイフェンは掴んでいる。母方の性を名乗っていたため発見が遅れ、手を回したときには手遅れだったとスイフェンは語っていた。中間駅がある薩爾図サルトに部下たちを派遣したが、そこでは子供を発見できなかった。


 つまり、理由は不明ながら途中で列車から降りたということだ。


 チチハルから進んだ線路沿い。ハオの案内についていき発見したのは、墓だった。こんもりとした地面のまわりに兵たちが集まる。渋面のスイフェンが頷く。連本部で待っていればよいものを、兵たちとともに前線にいる自分を喧伝したいのか、スイフェンはわざわざ出向いてきていた。


 マガミの前で、下っ端たちが不自然な盛り上がりを掘り返す。野生動物が食い荒らさない程度の深さから、真新しい死体が次々と見つかった。

 知らぬ顔ぶれの死体が三つ。消息を絶った八路軍の兵士のものが複数。


「三八式の小銃弾で射殺された日本人が三人。これはおそらく部隊の誰かが撃った。八路軍の兵は撃たれた者もいるが、刀傷もある。どう思う?」


 部下を下がらせ、死体を検分していたスイフェンが振り向く。マガミは肩をすくめると、彼の隣に近付き片膝をついた。

 無精ひげを掻いて頭部を撃たれた死体を見る。射入腔と、比して大きい射出腔。三八式の口径でついた傷ではない。無残な頭部だが、青灰色の服装から死体が八路軍下級指揮官の排長だとわかった。


 マガミは嘆息する。支那事変日中戦争勃発時からの共産党の忠臣で、スイフェンが信頼を寄せていた古参兵がこうもあっさり殺されているとは。


 舐めるように移動した視線が、切断された右腕で止まった。


 こりゃまあ。見事なもんだ。


 感心する。刃を入れやすい関節部から一刀両断にされている。切り落とされた腕は胴体といっしょに埋められていたが、切断面を見る限り思い切りの良い斬り口だ。手慣れてやがるな、とマガミは感じた。

 犠牲者は自身が斬られたことすら認識しないうちに腕部がずり落ち、落下してから腕を失ったことに気が付いたに違いない。

 スイフェンが横目でマガミを見る。


「軍刀は日本兵の象徴だったな。満州鉄道大連工場の冶金技術は、そうした軍刀を作成する日本本国の技術よりもさらに上だったそうだが」

「満鉄刀か? たしかにありゃあ、刀匠が己の才覚を頼りに作っていた日本刀すべてを過去のものにしちまった近代技術の粋だ。だが、満鉄刀でも並の軍人が使っちゃここまでは斬れねえ」


 部下のひとりがスイフェンを呼ぶ。ボルトが引き抜かれた小銃を手にしていた。八路軍の兵士たちを襲った連中は、使用不能にするためにご丁寧に火器を可能な限り分解して捨てていたらしかった。


「八路軍の兵士が皆殺しか。彼らはどこの部隊に襲われたのだ。わざわざ死体を埋葬した理由も理解できんが、この殺し方は素人のものではない。士気と練度に劣る蒋介石の革命軍や匪賊のやり口とは思えん。唯一可能性があるのはハイラルにいまだ駐屯しているソ連ぐらいだが、彼らには理由がない。どんな軍隊がやったというのだ」


 スイフェンが唇を噛む。八路軍の理想を信ずる若者は、部下を何者かに殺され困惑と怒りが沸き上がっているようだった。マガミはその場から動かず、顎に手を当てて考える。指でおとがいを叩く。

 斬殺に刺殺、そして射殺。実に多種多様に富んだ殺し方だ。


 考えていると、スイフェンが無言のままナイフを差し出してきた。ぎょっとするも、興味を惹かれる。先端が血で濡れた小型のナイフ。まじまじと確認する。見覚えがあった。


「これは?」

「部下が見つけた。線路の向こう側に落ちていたらしい」

「プラストゥン・ナイフに似ているな」

沿海地方プラストゥンか。極東海に面する、ロシアの最果てだな」

「ああ。沿海地方に到達したコサックが使うナイフの通称だ。といっても沿海地方に限ったわけではなく、原型となったナイフがあるんだろう。小型軽量なので投擲にも向いているが……」


 検分のために受け取ろうとするマガミ。指先が柄に触れたとき、脳裏を電流がかけぬける。

 。自分が発した単語に、記憶が蘇る。


 秘密裏の会合。一九三八年、ハルビン。天の河スンガリーの畔、太陽島。ある白系ロシア人の別荘ダーチャ。扉を守る自分と、ちょろちょろはしこい少女。悪ふざけに投擲されるナイフ。刃が頬を掠め、冷や汗をかく自分。面白おかしく笑う少女は、焦げた狐色の髪をしていた。

 ナイフの扱いに長けた、まるで手に負えないクソガキの記憶。


 だから、よく覚えている。柄の意匠。刃の研がれ方。投げつけられたナイフは、今スイフェンが手にしているものと同じだった。


 密室の中で顔突き合わせるのはザバイカル・コサックの長老スタロシカヴィノクロヴ・ウルヴァーンと、樋口季一郎ハルビン特務機関長。マガミの傍らでは樋口の個人的な護衛であるユダヤ人青年のミハエル・コーガンが不動の姿勢を保っている。彼とは昨年の第一回極東ユダヤ人大会以来からの付き合いだった。室内で同席するのはハルビン憲兵隊特別高等警察課課長の河村愛三憲兵少佐。特務と憲兵には軋轢もあるが、憲兵にどちらが蛇の頭か尻尾であるか思い知らせるために大都市の特高課課長は特務の人員が兼務するのだ。

 そして、もうひとり。警察権と裁判権を併せ持ち即決死刑すら独断で行える防諜組織保安局の警正こと譲羽倫道ゆずりは りんどう大尉。

 満州の裏の顔を代表するお歴々だ。


「どうかしたのか?」

「ちょっと思い当たることがあってな」

「ほう」


 押し黙ったマガミにスイフェンが訝しげな視線を寄越す。

 マガミは声に出さずひとりごちる。樋口機関長、あんたの蒔いた種は思わぬところで芽吹いてるかもしれませんぜ。


 では、この殺人劇の主役は? 間違いなくこの刃の主だ。火器が席捲する戦場では、回りくどすぎる殺しだからだ。こんな方法を自由に選ぶ時点で、戦いの主導権はこいつが握っている。


 そして、不必要なまでにばら撒かれている三八式小銃の弾丸。


 そんな手法を好む人間に心当たりは? 答えは、ある。火器で武装した兵士何人も相手に刃を振るう、蛮勇を持つ男たちに。

 そう、過去には「たち」だった。だが生き残りは指折り数えられるほどだろう。


 内心で語りかける。

 嬢ちゃん。お前さんは生きていたのかい、ヴィクトリア・ウルヴァーナ。ザファー・レベデフに学んだ剣技は健在か。

さて。八路軍のお坊ちゃんにどこまで詳しく説明したものか。マガミは思案する。


「軍隊じゃないぜ」

「なぜそう思う。三八式小銃の弾も多量に使われているが」

「その点には、思い当たる火器がある。フェドロフ自動小銃だ」

「知らん。どのような小銃なのだ」


 手振りで続きを話せ、そうスイフェンが示す。


「帝政ロシア時代に実用化された完全自動装填の小銃さ。当時どころか今ですら先進的な機構だ。連続発砲時のコントロールを容易にするため、低威力だが低反動の三八式実包を使う。だが、共産党の政権奪取とソビエトの勃興により量産は半端な形に終わった。弾薬の供給を大日本帝国からの輸入に頼っていたからな。一部は日ソが激突した張鼓峰事件でも使用された」

「その古臭い小銃が使われたという根拠は?」

「まあ聞いてくれ。加えて、下っ端どもを一刀で殺してる。これほど腕が立つ人間が、何人もいるとは思えん。こりゃあ、そうとうな達人だ。ひとりの達人の仕業と考えたほうが自然だ。指揮官の致命傷の大きさを見るに、口径の違う小銃を使った射手は別にいるだろうが。それでもごく少人数のはず。そう推測すると、八路軍を襲ったのは、ま、せいぜい二、三人だろうな」

「心当たりがありそうな口ぶりだな」


 マガミはスイフェンに視線を送り、意味深に口の端を湾曲させる。


「浅野部隊」

「聞かん名だな」

「表舞台に立つような連中じゃなかったからな」

「で、その謎めいた部隊は刀を振るうサムライの集まりだったというわけか?」


 満州の夏は日本で言う梅雨にあたる。湿度が高く不快だ。南方出身のマガミでも、じっとしているだけで汗ばんでくる。マガミは胸元をはだけると、手をうちわ代わりに扇ぐ。

 いや。汗が流れ落ちたのは、単に気候だけが原因なのだろうか。もし本当に浅野部隊が相手ならば、これほど厄介な存在は他にないと心得ているからか。


 そうとも。真上源一郎は彼らのことをよく知っている。ザバイカル・コサックの長だった、禿頭で巨漢の老人と直接話したこともある。


 ゆらりとマガミは立ち上がる。


「日本人の部隊じゃない。浅野部隊の中核は白系ロシア人。そして、なかでもハイラル部隊はコサックにより成立していた」

「コサック? ロシア帝国の騎馬兵か」

「ああ、そうさ。コサックにとってロシア皇帝ツァーリは対等な契約相手にすぎず、忠誠というよりは義理があった。税を免除される代わりに武を振るう皇帝の鉾だ。平時は穀物農耕と牧畜を組み合わせた営農を行い、戦時には強力な騎兵として戦う。やつらは火器だけでなく刀剣の扱いにも長けた近接戦闘の達人だ。これほどの使い手が、コサックだとしたら合点がいく。それに、皇帝派と共産主義者がおこしたロシア内戦にはフェドロフ自動小銃が投入されていた。これが俺の推測の根拠だ」

「コサックはロシア革命時に、皇室側に義を尽くし共産主義者と戦った。最後には駆逐され絶滅政策がとられたと聞いている」

「滅んだ国から逃れた一派がいたのさ。そいつらはロシア帝国から資金と装備の一部を持ち出し、流れ流れて中国東北部へとたどり着いた。ザバイカル・コサックだ。満州国が興ったあとでも、彼らはそこにいた。敗北してなおそのコサックの軍勢は、打倒ソ連共産党を諦めなかった。雌伏の時を過ごし、力を貯め機会をうかがっていた」


 満州国の歴史にも関連する昔語りに関心を示したのか、スイフェンが先を促す。


「満州国行政区分興安北省アルグン左翼旗、三河さんが。ロシア語名は捻れる豊かな三河トリョフレーチエ。要塞都市ハイラルから北にあるその地はガン河、デルブル河、ハウル河の三本の河川が混じり合うことからそう呼ばれた。ザバイカル・コサックたちはそこで暮らしていた」


 マガミは説明を続ける。大日本帝国のコサックの調査は一九二〇年代に開始されている。といっても三河は当時は日本領土ではなかったので出向くわけにもいかず、文献調査や亡命ロシア人への聞き取りが主だった。そのなかで、コサック女に惚れてしまい子を設けのちにハイラルに移り住んだ日本人もいた。


 なんにしろコサックたちのことを調べ、どう扱うかは満州国が興ってからの三〇年代から本格的に議論され始めた。主に調査に当たったのは関東軍や特務機関、地元行政官、満鉄だ。満映も記録映画を残している。いわば公を中心にコサックたちは調べられていった。


「日本人にとってコサックというのは『共産主義に抵抗した自由の民』『根っからの軍人』『皇帝への忠誠を貫く忠節の民』といったところでね。ただ支配を嫌うコサックの奔放さは日本人にはときに傲慢に映る。それは満州国にとって『白色人種として』の『征服民族の誇り』が根底にあるが故とみなされた」

「白色人種? コサックは人種的集まりではないはず。逃亡農民や犯罪者、流浪者を起源とする種々の人間の軍事組織ではないのか」

「そのとおりだ。といっても三河にあった十九個のコサック開拓村は民族構成上完全にロシア人の村だった。コサックすなわちロシア民族集団、開拓村はこうした日本人のコサック観に影響している」


 満州の都市部に暮らす日本人にとって野に近い場所にいるコサックたちは未知の人々だ。彼らのことが伝わるその過程で日本人のコサック観は変化・固定化していく。本来ならザバイカル・コサックにはスラブ系だけでなくエヴェンキやブリヤートといったツングースカ系も所属しているはずなのに、いつしか彼らの存在は無いものとして扱われ始めた。


「つまり、日本人のコサック観はこうだ――征服者としての白人。同時に、国家にアジア的忠義精神も持つ人々。同一の人種、同一の宗教、同一の文化。まるである種の民族のようにコサックたちを扱い始める」


 スイフェンの視線が変わる。好奇心と分析から、批難と侮蔑を込めたものへ。


「分断と再定義。ある種の理想化。お前たちはいつもそうだ。人間を自らに扱いやすいように変貌を強制する。五族協和を掲げる満州国もそうだった。支配者がすべてを包容するのではなく、被支配者のみに変わることを望んでいた」

「国を運営する、というのはそういうことじぇねえかい。国家とはなんのためにあるのかってことだ。理想だけじゃあやっていけねえ。八路軍はそうならないと?」

「ならんさ。姓は人民シン・レンミン。我々はそのためにある」

「それはスイフェン、お前たち共産党が真の権力を知らねえからだよ」


 マガミの反論にスイフェンの顔が険しくなる。嘆息する。これは、余計な一言だったか。若い八路軍指揮官は怒気を払うためにかぶりを振り、鼻を鳴らした。


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