第24話 追跡者たち(下)

 スイフェンは気を取り直し、話の続きを促す。


「コサックと浅野部隊の関係は?」

「極東アジアの支配権をめぐり、いずれソビエトと雌雄を決するときが来ると大日本帝国は考えていた。そこで対ソ連への諜報・破壊工作などの謀略の尖兵とすべく、満州内の白系ロシア人たちを支援し組織化・武装化させた。日本側の指揮官だった満州国軍は浅野上校の名をその部隊は冠していた」

「それが浅野部隊というわけか」

「そうだ。浅野部隊は白系ロシア人からなっているが、第三部隊であるハイラル部隊はコサックのみだ。編制上は満州国軍の隷下だったが、実際には違う。設立にあたり背後にいたのは関東軍情報部ことハルビン特務機関だ。いわば特務機関直轄の秘匿謀略部隊。満州事変の首魁のひとり、関東軍高級参謀の板垣征四郎も一枚噛んでいた。それに、本国で間諜を養成していた帝国陸軍中野学校も連絡員を派遣している」

「秘密部隊だと言うわりには、ずいぶんと詳しいじゃないか」


 スイフェンは若く、戦場での経験は浅い、ひな鳥のような男だが、詳細な説明にさすがにいぶかしむように首を傾ける。

 おっと――これは、しゃべり過ぎちまったようだ。満州国の暗部を司っていた自分の素性を知られるわけにはいかない。中国人にはずいぶんと恨まれている。マガミは自身を戒める。


「秘密というのは、建前上なんだ。浅野部隊はハイラルじゃあ、コミュニティ内のエリートとしてけっこう名前が知られていたんだぜ。今はもう存在しない部隊だが。日ソ戦争で壊滅しちまった」

「それで、八路軍兵士をやったのは浅野部隊の生き残りというわけか。部隊はなぜ壊滅した? 地上最強のソ連赤軍と戦ったか?」


 こんどは声に出してマガミは笑った。失笑というやつだ。

 たしかに、開拓村に偽装したコサックの秘密基地はソ連機械化部隊にまっさきに蹂躙された。日本本国・四国の七割に匹敵する面積を誇った開拓村は、日ソ戦争の初期にあらゆる連絡が途絶した。


 コサックたちは皆殺しにされたに決まっている。

 彼らの最期を知る者がいるとすれば当のソ連兵ぐらいのものだ。


 だが、ハイラルにいた一部の部隊は違う。

 浅野部隊は対ソ静謐の決定から数年前に武装を解かれていた。だがハイラルにいたコサックたちはソ連襲来の混乱のなか、自主的に部隊を編成し武器を取り出陣しようとした。遊撃隊となり、隊伍が伸び切ったソ連赤軍の後方を突き分断。前衛部隊を孤立させ、しかるに駆け付けた関東軍と協同しこれを撃滅する。


 そんな夢物語を抱いて果てた。


 コサックたちは騎馬とともに、赤軍という百戦錬磨の戦象の群れに、自らが走狗と知りながら果敢に挑もうとした。

 そして、度し難い裏切りにより終焉を迎えた。

 スイフェンは部下に収まっている日本人の、突然の笑い声に困惑していた。マガミは皮肉気に口の端を歪める。


「ちげえよ。ハイラル・コサックの部隊を最終的に壊滅させたのは、我々日本人だ。ひとり残らず殺した。それで終わったはずだった」


 浅野部隊小隊長だったザファーもその時死んだはずだ。元関東軍軍曹を自称する男は愉快そうに肩を揺らす。


 いまだ大陸を亡霊のように彷徨い、宿敵である共産主義者を血祭りにあげているコサックがいる。老ウルヴァーンとザファーの意思は死してなお生きている。

 復讐者の刃は、八路軍に与している自分の血も欲しているのかと思うと、愉快でたまらなかった。マガミとは逆説的な男なのだ。


 浅野部隊は極秘部隊だ。隊舎外での制服着用を禁止され、関東軍が最大規模に膨らんだ空前絶後の演習、関特演のさいには赤軍に偽装し国境線を秘密裏に突破してさえいた。

 関東軍の日和見さえなければ、実際に破壊工作任務に投入されていただろう。


 戦争のルールを無視する極秘作戦を専門にする非合法部隊。だから、満州国の敗北を確信した特務機関は浅野部隊のコサックたちを生かしたままにはしておけなかった。口を封じる必要があった。

 彼らからすれば、マガミもまた裏切り者だろう。


 マガミの笑いの理由を尋ねようとスイフェンが口を開きかける。とたん、部下のひとりが誰何の声をあげた。

 スイフェンが振り向く。口を閉ざし、マガミも声の方向を見る。


 スラヴ系らしき男が、かがみこみ指揮官の射殺体を眺めている。

 いつの間にかそこにいたのだ。近寄られた気配すら感じなかった。


 男はひとり納得したように頷いていた。胡麻塩頭と細く尖った顎は反り返った曲線を描き、灰色眼の金壺眼と相まってまるで嘲笑する三日月を思わせる。陰気な顔つきの男だった。


 農民あがりの兵たちは、言葉を荒げる以上のことはしなかった。面識のないロシア人を畏怖するように距離を取っていた。ロシア人は八路軍の兵士ではなかった。日本人の子供の捜索を依頼した、ソ連からの客人のひとりだ。あの詩人のような佐官の指揮下を離れ、独断専行でスイフェンたちについてきた人物だった。


 彼は、憑りつかれたように醜い射出腔を観察している。腹を開いた患者を眺める外科医のように、露出した人間の内部を嫌悪していない。薄気味の悪い男だ。満州の白系ロシア人社会と付き合いのあったマガミですらそう感じるほど、男の真意を測りかねる。


 たっぷり数十秒が過ぎた。ようやく満足したのか、ロシア人は立ち上がった。マガミは記憶を探る。酔っぱらいの韃靼人タタール人が話しかけていたのを思い出す。

 たしか、このロシア人は仲間からマキシム・ガリムジャノフとか呼ばれていたはずだ。


 マキシムは右手を掲げてみせる。スイフェンとマガミによく見ろと言わんばかりに。

 錐めいた鋭い指先が、なにかを摘まんでいる。


 固いものを突き抜けたことを示す、いびつな弾丸。血と脳の残骸に濡れていた。頭蓋に貫入し、内部の柔らかな組織に致命的な空洞を生じさせた痕跡がこびりついている。おそらくは――八路軍排長の頭蓋を貫通した弾丸だ。彼は弾と傷口を検分していたらしかった。


「снайпер」


 普段は寡黙であろう声質で、マキシムがうっすりと囁く。


 ロシア語での会話をこなせる政治指導員のズィガオは今ここにいない。ハオを連れて森の中を調査している。スイフェンはマガミに命じる。


「なんと言っている」

「俺のロシア語は、まずいなんてものじゃねえぞ」

「話せると聞いた」

「あじあ号の白系ロシア人ウェイトレスに入れ込んでた時期があっただけだ。わけえときの話だよ」


 内心で舌打ちしながら答える。八路軍に身を置くマガミは、自分が慎重に立ち回る必要があることは痛いほどわかっているが、つい漏らしたことがあったのだ。ロシア語を話すことができる本当の理由は女絡みではないのだが、少なくともスイフェンにはそう思わせておく必要があった。

 スイフェンは執拗に命令する。


「かまわん。理解できるのだろう? 通訳しろ」


 不承不承ながら頷く。もう一度マキシムを見る。彼は律義にも、さきほどよりはほんの少しだけ声量をあげ、聞き取りやすく音節を区切って口を開いた。


「狙撃手がいる」


 労働者階級を示す角張ったロシア語だ。簡潔に述べると歩きだす。離れた位置から手招き。マガミを呼んでいるらしかった。スイフェンに小突かれる。背を押され、マガミは陰気なロシア人の隣に歩み寄った。


「中国人の仲間を殺した連中について教えてくれ」


 首肯するとマガミはハオから聞いた目撃情報を話してやる。マキシムは頷きもせず話題を変えた。


「あんた、ここからあの男まで何百メートルあると思う?」


 唐突な問い掛け。指さされた方向を見る。森のなかで、所在無げに八路軍の兵士が立っている。マキシムに無理やり連れて行かれたのだろう。

 マガミは質問の意図を把握しかねながらも指を立ててみる。人間にとって最も身近な計測器はなにか。指や前腕の長さ、肘の角度だ。人間の前腕尺骨に尺という言葉が使われているのも前腕骨が古代ギリシャで長さの計測に使われていたことが由来である。これらの部位のサイズは個人毎にささいな差異はあれどもそう大きな誤差はない。

 比較対象となる物体の大きさをあらかじめ知っていれば、自分の身体の部位と比べて距離が計算ができるのだ。


 なるほど、とマガミは納得する。あの突っ立たせた兵士は距離を測るためそこに置いたのか。栄養不足の農民兵の身長は五尺半もあるまい。マガミは腕を伸ばすと指を複数本立てたり開いたり閉じてみたり腕を曲げたりまた伸ばしたりする。

 暗算。脳みそをこねくりまわす。

 あー、と前置き。


「ざっと四〇〇メートルってとこかね」

「良い線をいっている」


 そりゃどうも、とマガミは答えた。根暗そうな男に褒められても嬉しくない。


「誤差一割以内なら及第点だ。あの男は身長一六〇センチほどか。ライフルスコープで距離を計算してみたが、彼我の距離は実際には四二〇メートルといったところだ。地面についた血の量と転がっていた薬莢から推測するに、射手の銃撃位置はあそこで指揮官が撃たれたのはここだろう」

「近いとは言えねえが、訓練した人間が小銃を使えば狙って当てられる距離だろ」

「あそこからだと茂った下草が邪魔になる。伏射や膝射では狙いがつけにくい。射手は安定性に欠ける立射で撃ったはずだ」

「なるほど。たいした洞察力だ」

「だが最大の問題は」


 言葉の音調を変えつつマキシムが続ける。よく聞けと暗に言っているのだ。指先で自身の耳の後ろをとんとんと突く。


「脳幹を一撃で破壊している。ここを撃たれると、人間は指先をぴくりとも動かせず即座に行動不能になる。握った拳銃の引き金すら引けん。この着弾は偶然と言うにはあまりに精密すぎる。狙ってやったとしたら、とんでもない技術といえる」


 そういってマキシムは頬をひくつかせる。痙攣だろうか。

 いや違う、とマガミは推測する。これは寡黙な男の呵々大笑なのだ。マキシムは震えるほど喜んでいるのだ。

 期せずして優れた射手と出会えたことに。


「精密な立射を担保するのは確乎たる上半身と、地に足つき支える重機のように太い下半身。射手は長身の、黒髪の女のほうだ。会いたい。いい女にちがいない」


 摘んでいた弾丸がマガミに放り投げられた。咄嗟に受け取ってしまう。人間のやわらかい内部組織にまみれていたであろう湿った感触に顔をしかめる。


「シシューキン同志少佐に連絡しろ。くだんの餓鬼に繋がる痕跡を見つけたとな。弾もいっしょに持っていけ、なにかわかるかもしれん。俺は餓鬼もコサックもどうでもいい。だが、この狙撃手は俺の獲物だ。俺の好きにさせろ」


 寡黙な男の瞳孔が真円を描く。興奮している。紛れもない内心の発露だ。


「極東に流されつまらん戦に駆り出されたもんだと思っていたが。なかなかどうして、面白い狩りができそうだ」


 マキシムは持っている小銃を撫で付ける。後方に細長い筒を思わせる照準用眼鏡が装着されていた。PUスコープ付きモシン・ナガンだ。

 この男もまた狙撃兵なのだ。


「その件に関しては、使いを出そう。ときにマガミ」


 傍らに並んだスイフェンが語りかける。


「三河は国境地帯にあり対ソ防衛上重要な地域だ。満州国勅令軍機保護法の『特別地域』に指定されていた。訪問には特別な許可が必要で、一介の軍曹には近付けなかったはず。なぜそんな秘密地帯のことをお前は知悉している?」

「さっきも説明したぜ」

「そうか。そのとおりだ」

「ああ」

「ときにハルビンにはロシア語を専門的に学べる満州国立大学のハルビン学院があったろう。あそこは特務機関とも関係が深かったはずだな?」


 スイフェンの推察に絶句する。単なる若造だと侮っていた。質問すると同時にマガミという男の素性を探っていたのだろう。しょせん有力者のボンボンで、ここまで思慮明晰な人間だとは考えていなかった。

 スイフェンの思考は、マガミの正体に迫っている。


「元関東軍軍曹マガミを自称する男よ。お前は何者で、何を目的に私の傍らにいる?」


 答えに窮する。

 スイフェンが眼を細める。息を吐く。沈黙するマガミに興味を失くしたように踵を返す。背中越しに会話を締めくくる。


「まあかまわんさ。いまは、まだ。腐敗した蒋介石派だろうが日本の傀儡政権だった汪兆銘派だろうが、あらゆる者を受け入れるのが八路軍だ。マガミ、お前も新生中国建国のために精一杯働いてくれ」


 これ以上ごかませんかもな、マガミは冷や汗をかいた。なんにしろ、喋りすぎたのは事実だ。

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