第25話 エメリャノフ・スコープ(1)けもの狩り
倍率三・八七倍、画角五・五度、全長二七四ミリ、重量五九八グラムのエメリャノフ・テレスコープ・サイトの視界。あの人も同じものを見ていた。
胸の深部が痛む。回復不能の苦痛。
けっきょくのところ。
あの人は私を殺すことを、しくじったのだ。
☆ ★ ☆
マイバッハ・エンジンの力強い振動。鋼鉄の咆哮をたてる我らが鈍色のけもの。戦車によろわれ、車長のルイス・ゲープハルトは
「狙撃手? 狙撃手を排除しろと?」
度重なる赤軍との戦闘で小隊の稼働戦車はいまや一輌、自分たちのみだ。一九四四年、
いつか距離という名の命運も尽きる。
だが、まだ先のはずだった。
ルイスは訝しむ。
中隊本部からの命令は、対岸の展望塔に潜んだソ連の狙撃兵を砲撃しろというものだ。聞けば、市街地にある赤軍陣地の突破を試みた
つまり敵は、最小の戦力を持って何十倍もの兵隊の攻撃を防いでいるのだ。
ルイスは眉根を寄せる。
だが、たかがひとりかふたりを排除するために、88ミリ砲を使えと? 我々の敵は、いつだって戦車だったはず。歩兵に毛の生えたていどの相手を、戦車がする? 矜持の否定だ。砲兵どもは、それにもまして国防軍の狙撃兵はなにをしている。なぜ赤軍狙撃手を狩りださんのだ。
唇を噛むが、命令には逆らえない。
鬱屈した気分のまま、
曇天の空は灰一色。地上も同じだ。周囲は瓦礫と廃墟ばかり。隠れる場所は多い。河からこちらはドイツの陣地ではあるが、どこかに赤軍の戦車や対戦車ライフルをかかえた歩兵が待ち伏せしているとも限らない。
「堤防へ向かう。轍に沿って走れ、土埃を立てるなよ」
操縦手に命じる。エンジンが回転数を変え、無限軌道が大地を踏み砕き前進。瓦礫も土塊も等しく踏み潰していく。
やがて戦車が堤防へ差し掛かった。
ルイスは車長席から立ち上がった。周囲を確認する必要がある。ハッチを開き、上半身を
「そのまま登れ。稜線から砲塔を出して砲撃する。停車位置を直接視認する、命令したら止まるんだ」車体が斜めに傾ぎ、堤防を登っていく。司令塔に立ったままルイスは続ける「主砲が稜線を越えた、車体まで露出させる必要はない。ここでいい、止まれ!」
操縦手がブレーキを踏んだ。履帯が地面を噛みしめる。斜面に寄りかかるように戦車を停止させる。
砲塔旋回。回転リングが軋んだ音を立てる。まともな整備を受けられず、油圧系が不調を起こしているようだ。
人も機械も、万全とは言い難い。
砲身に角度をとらせ、ルイスは双眼鏡を覗いた。
調整ノブを回す。像が結ばれる。一キロ超先に、見えた。河を挟んだ反対側、丘の上に市街地を見下ろす展望塔。耐寒性に優れた赤レンガの堅固な建築物。平時はハイキング客で賑わっていたのだろうが、今はずる賢いキツネの巣だ。照準器を覗く砲手のゲーロ・ヘンチュケからも同様に見えているはずだ。
この距離は、たしかに戦車の間合いだ。
「榴弾装填、よく狙って撃て!」
双眼鏡から視線を外し、発砲命令。砲口から爆音。目玉がくにゃりと押される感触。物理的圧力を伴う音と衝撃。低く伸びた弾道が光の矢のように直進する。88ミリ砲の精度は折り紙付きだ。
狙い違わず命中した砲弾が、展望塔の外壁に当たり爆発を起こす。
違和感。爆発が目立ちすぎている。
双眼鏡をまた当てる。
建物は健在だった。
「馬鹿者が。だれが瞬発で撃てと言った!」
ルイスは怒鳴った。今の砲撃は、砲弾の信管設定を瞬発で撃ってしまったのだ。過敏すぎる信管は、建物外壁に接触した瞬間起爆してしまった。だから爆発が不自然に大きい。これでは頑丈なレンガ造りの表面で爆ぜただけで内部までダメージが達していない。
建物に潜んだ敵兵を攻撃するときは、信管の設定を遅発で撃つのが正しい。そうすれば、外壁をぶち抜いた砲弾は一定の時間経過のあとに室内で爆発、限定空間で破壊の嵐を解き放つ。最大の効力を発揮するのだ。
ありえないミス。部下たちは、みな極限状態での戦闘が続き疲労している。
「空薬莢が張り付いて……排莢不良です!」
「強制排莢しろ!」
装填手が悲鳴を上げた。ルイスは歯軋りする。運にも見放されているのか。高熱で真鍮製の薬莢が閉鎖器内に留まり自動排莢されなかった。このままでは次弾が撃てない。
装填手がハンマーを振り上げ、強制排莢レバーを殴りつける金属音が聞こえた。
無駄な時間を使ってしまった。
「再装填を急げ。ヘンチュケ、砲身が温まっているので弾道が上向くぞ。二射目は一シュトリヒ下を狙え」
命令を発したルイスの視界を何かが掠めた。頭上を通り過ぎ、後方で弾ける。
押し黙る。いま、なにがあった?
飛来物が瓦礫の鉄骨にあたり、火花を散らしたのだ。直撃しても戦車という鋼鉄のけものにはなんの痛痒も与えないだろう。取るに足らない、ちっぽけな出来事だ。
しばしの黙考、しかし取り返しようのない時間が去った。
思考が飛来物の正体に至ると、ルイスの全身を悪寒が駆け抜ける。なんということを、信じられん。
「次弾、早く早く早く!」
叫びつつ砲塔内部に身を躍らせる。頭部が完全に防護された戦車に匿われる、一瞬前。
衝撃。苦痛は感じず、ただ熱かった。被弾した。銃撃された。銃弾が喉を貫いたのだ。身体の力が抜け、車長席へと落下していく。傷口から血が溢れて言葉も呼吸もままならない。
ルイスはただただ呻いた――これは現実なのか。狙撃されたのだ、自分は。一キロ先から赤軍の狙撃兵に。戦車のもっとも脆弱な部品、人間を狙った一撃に!
この距離は、戦車の間合いのはずだった。人間が、それをやれるのか。
化け物め。
ヘンチュケが何事かを叫ぶ。被弾した上官に動揺している。なにをしている、さっさと撃て。職業軍人であるルイスはもはや自らの生残にこだわっていなかった。上級司令部がわざわざひとひとりを排除するために戦車を遣わした理由に合点がいったからだ。
この狙撃兵は、危険すぎる。
おそらくは何百人者ものドイツ将兵を殺してきたであろうし、逃せばまた何百人も殺す。ここで仕留めねねばならん。ルイスは血の泡を吐き出す。最後の力を振り絞り、右手を振った。
若者に意思は伝わった。
二射目の砲撃音が、やけに遠い。意識が混濁し、やがて途絶えた。電撃戦の体現そのものであった戦車乗りは、愛した戦車とともに死ねなかったことが心残りになった。
☆ ★ ☆
河向こうに戦車がいる。
警告を発したのは狙撃兵のフェオドーラが先だった。
たしかに、重戦車を双眼鏡から視認できた。とたん、大地そのものが崩壊したと思わせる衝撃。振動と轟音に身体が竦み上がる。天地が動転し見当識すら失った。魔女の大鍋の中でぐらぐら煮られればこんな感じなのだろうか。
直前に戦車の砲撃炎が見えていた。榴弾に直撃され、潜んでいた展望塔は巨大な爆発にみまわれたのだ。
衝撃が広がりきったあとに残ったのは、不意な静寂。揺れが嘘のように収まる。
閉じていた目を開く。三半規管に衝撃の残波があるのか、酔ったように周囲が揺らぐ。かぶりを振り、視界をはっきりさせる。
建物はいまだ健在だった。足元も、しっかりと存在している。
自分は生きている。生きているのだ。
銃声が響き、意識が現実を再認識させる。
赤軍狙撃小隊で観測手を務めるクララ・フェイギナには生を噛み締めている猶予はなかった。砲撃のさなかも微動だにしなかったフェオドーラが発砲していた。彼女は姿勢を変えず呟く。
「二射目も外した」
当たり前だ。戦車までどれくらい離れていると考えているのだ。たしかに戦車長が無敵の戦車から上半身を出しているのは千載一遇の好機だ。
だが、いまの状況下ではスコープを使ったとしても砲塔の人間はマッチ棒の先端みたいにしか見えまい。並の射手では狙撃困難な距離なのだから。
それを、この人は狙おうとしている。
フェオドーラはクララが砲撃に恐怖し、着弾観測を逃したことを咎めもしなかった。
ボルト・ハンドルを操作し空薬莢を弾き飛ばし、固定弾倉から長距離用重量弾を薬室へと再装填する。逃げるという選択肢は存在しないと言いたげに、折敷いたまま狙撃姿勢を解かない。曲げた左腕を立てた左膝に乗せ台座とし、ライフルを置いている。左手は、引き金に指を添えた右手の前腕に再度添えた。荷箱に背中を預け、スコープ越しに破孔から戦車を見据えている。
咄嗟には動き難いが、撃ち下ろしに向いた狙撃姿勢だ。
三度目の正直とでも言いたいのか。無謀きわまる。
「次に砲撃されれば、こんどこそ危ない――」
「ヤクートの諺にある――
狙撃続行というわけだ。
純粋ロシア人のクララにはときおりヤクート語が混じるフェオドーラの言葉は完全に理解できない。
でも、姿勢が狙撃兵としての頑なな態度を示していた。フェオドーラは彼方を見つめたまま動かない。高踏的な姿。落ち着いた呼吸と心拍は一定で、稠密な内部機構を持つ機械を思わせる。精神が身体を扼しているのだ。どれだけ苛酷な自然環境で人生を過ごせば、これほどの射手が形作られるのだろうか。クララはヤクート族狩人の底しれぬ集中力に息を呑む。
それにしても。この人は、戦車に狙われ命の危機が差し迫ったこの状況で本当にやろうとしているのだ。
極大射程、一キロ超えの狙撃を。
上手くいくとは思えなかった。
逃げ出すのは理にかなっている。迂闊にも同じ位置で狙撃し続けてしまったのは事実だ。早急に移動すべきではある。具申すべきだ、と理性が告げる。
見計らったようにフェオドーラが口を開いた。
「二射も外したのは、たぶん、あたしの距離の計測がまちがっているから。あなたなら、正しい数字を出せると思うんだ」
噛み締めた歯から息が細々漏れていく。
こんな場面で信頼を寄せてくるのか。
通常、狙撃手と観測手は同等の技量を持った同士で組む。モスクワ女子中央狙撃兵学校での席次九位のクララには技術面での自負はある。しかしクララとフェオドーラの腕には雲泥の差があった。
卓越した実力者に助言を求められているのだ。
そう言われたら。やるしか、ないではないか。覚悟と諦めが入り混じった心境で、クララは上官兼相棒のために必死に頭を巡らせる。口内がねばねばする。緊張に乾いた唇を舌を、必死に湿らせ言う。
「ここからだと我々と戦車の、見た目の距離は一一〇〇メートルあります。でも、私たちのほうが高所にいます。角度が二〇度ついてるんです。銃弾の落下は見た目の距離でなく地表面の距離に応じて発生する重力に影響されます。撃ち上げだろうと撃ち下ろしだろうと、角度のついた射撃では弾道が標的の上を行くのは、地表面の距離を正確に算出していないからです」
いまにも二射目の榴弾が飛び込んでくるのではないか。気持ちを押しつぶさんとする恐怖を半ば無視する。滴る脂汗を無視。見た目の距離に騙されてはならない。
必要なのは、正確さだ。計算を誤るな。誤れば、致命的な結果になる。赤軍への志願以前は大学で数学を学んでいた自分ならできる。今日は無風だ、河川上ですら凪いでいる。
だから距離に集中すればいい。
狙撃とは数字そのものだ。人間の情緒は関与しない、冷たい方程式の世界なのだ。自分たちと標的は二等辺三角形の関係にある。横倒しの三角形。斜辺の長さと角度がわかっているから、あとは高さを求める必要がある。高さが正確な距離になるのだ。
狙撃兵手帳に鉛筆を走らせる。手が震える。数字がのたくる。左手で押さえつける。
三角関数を使い、計算式を紐解く。
答えがでた。
「正確な彼我の距離は一〇三三メートルです!」
つまり、見た目の距離から七〇メートル分考慮して狙撃する必要がある。
待ってという隙もなかった。クララが双眼鏡を覗く前に照準を修正し、フェオドーラが撃った。湿った大気に銃声が響く。
彼女は即座にエメリャノフ・スコープから目を離し振り返る。
漆黒の瞳、吸い込まれるように冥い核心部。
愚者の視線。羆を思い起こす瞳孔が見つめてくる。
「離脱する」
「着弾観測ができていません」
「時間切れ。付き合ってくれてありがとう」
それではあなたの戦果にならない。
なら、なんのために危険を冒して狙撃した。
狙撃の戦果認定には本人以外の証言が必要になる。千メートルを超える距離で、重戦車の戦車長を仕留めたとなれば
独ソ戦はナチスが始めた。人種は人間の価値階層の中で序列化しうるという強固な信仰を
無論、ヤクート人とてその惨禍からは逃れられないだろう。
だが、シベリアで暮らしていたフェオドーラにとって戦火は遠かったはず。武勲を求めないのならば、なにが戦争に参加する理由になったと言うのだろうか。
問い掛けは言葉にならずに終わった。
相棒だが上官でもあるフェオドーラは有無を言わさぬ行動にでた。抗弁する前に立ち上がった彼女に腕を掴まれる。まるで鉤爪に握られる感触。クララは顔をしかめる。痛いほどだった。十センチは上背がある彼女に力では敵わない。たたらを踏みつつ、引っ張られドアを出る。
背後で破滅的な音が響く。
転がる勢いで階下に差し掛かったとき、いまのいままで潜んでいた部屋が大爆発を起こした。二撃目の榴弾が壁をぶち抜いて飛び込んできたのだ。
フェオドーラは素早かった。引きずり倒される。視線ががくんと落ち、腕と膝をしたたかに打つ。庇われたのだと理解するまえに、耳がきぃんと鳴った。爆風に煽られフェオドーラとぶつかる。絡み合う。抱かれる。渦巻く突風がふたりを追い抜いていく。周囲が暗くなる。
夜を思わせる闇。
降りたのは、爆煙という暗幕。
感じられるのは私と彼女の気配のみ。
束の間、世界に取り残されたのはふたりだけだと錯覚する。でも、長くは続かなかった。どすん、という音ともに顔の横に落下物。建材が剥がれ落ちたのだろう。頬を掠めていた。
青褪めるが、血の気が引くと同時に冷静になる。
あと少しでも脱出が遅れていれば、爆発により致命傷を負っていた。数秒差で命を拾った。また、フェオドーラに助けられたのだ。
充満する煙と埃を吸い込まないよう、小さく口を開いた囁き声が耳朶を打つ。
「車長は撃ったよ。これで、あの戦車はちゃんと力を発揮できない」
彼女が唇を頬に這わせてくる。
「
「ヤクートの信仰は、わかりません」
「だから、あなたの計算に、いつもたすかっている」
耳元で紡がれる、感謝の言葉。舌足らずのフェーデチカと陰口を叩かれる不明瞭なロシア語だ。会話は終わり、クララは助け起こされた。上官兼相棒の服の端をためらいがちに摘まむ。離れ離れになってしまわぬために。
フェオドーラはクララの手を引き剥がした。失望が心を覆う。
でも、すぐに覆された。フェオドーラは代わりに掌同士を合わせ、指先をからませる。つながりが、より強くなった。
晴れぬ視界、煙のなかを、互いにもつれあいながら足早に歩き始める。
導いてくれるフェオドーラの吐息と体温は、軍服越しでも温かった。
死と隣り合わせの戦場で、クララは思ってしまう。
私は、たよられている。国家に自らの価値を示し続けねばならない私が。実利と冷たい方程式を超えた関係が、私と彼女、観測手と狙撃手、部下と上官のふたりには、たしかにあるんだ。
幸福な、一瞬だった。
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