第26話 エメリャノフ・スコープ(2)盲貫銃創
同じ視界。そう、いま私が見ているスコープはあの人の愛用品だった。
「なんで助けてくれないのフェーデチカ! 私を見捨てるの? 答えてよ!」
涙と洟で顔をくしゃくしゃにした私が叫ぶ。まわりには下卑た笑いの
私の顔面が歪んでいるのは死への恐怖から? 閉ざされる未来への悲嘆から?
いいえ、ちがう。あの人は見ているはずなのに、助けてくれないことへの怒りだ。見捨てた裏切りへのやるせなさだ。
戦争の記憶。過去の記憶。でも魂を焦がした感情は、今でも熾火のように燻っている。胸の奥で苦痛となっている。
「距離はわかるのか、お嬢さん」
スコープが映す世界が現在へと移り変わる。地平線の彼方まで続く、中国東北部の平地。舞い上がる塵に霞んだ山脈は、大興安嶺山脈だろうか。
伏射でライフルをかまえるクララの思考を引き戻したのは、茶色い短髪の男だった。ダニーラ・グリゴレンコ。引き締まった全身から男というものを発散させている。元
「俺が代わりに教えてやろうか」
「問題ありません」
クララは素っ気なく応える。
ふん、とダニーラが嘆息する。彼は帰りたがっているのだ。かつて自分が所属していた場所へと。戦時中、NKVDの特殊部隊であったモスクワ守備隊はスポーツ選手をはじめとした華やかなエリートたちから構成され、選抜されるのは名誉なこととされた。ダニーラは競技射手で、隊内では狙撃手として知られた一角の人物だった。
なんの因果か、今では囚人のひとりだ。
褫奪された地位への復帰。そのためにダニーラは、シシューキン少佐の関心を射止めたいのだ。
だから、庇護を受けるクララが気に入らない。
くだらない。モスクワ政府に知られぬよう軍歴を抹消された者たちが収容所から強引に集められただけとはいえ、目的を同じくする仲間内で争ってなんになるというのだ。
クララは意識をモシン・ナガンへと集中させる。
スコープに見えるのは人形を模した木の板。八路軍が射撃訓練に使っていたものだ。
PEスコープが像を拡大してくれる。照準線の交錯点が消失したT字、ツァイス製工作機械で製造されたスコープのジャーマン・ポスト・レティクル。照準線の太さは二ミルで、中心の空白は幅七ミルある。照準線縦軸の尖った先端はちょうど真ん中を指すので二分された空白の左右はそれぞれ幅三・五ミル、照準線を除けば二・五ミルということになる。
ソ連が使用するミルは円の半径に等しい長さの辺を持つ正三角形を、円の中心点の角度六〇度で分割した数字だ。つまりは円周角を六〇〇〇分割した角度を示し、一ミルが指し示す長さは換算すれば一〇〇メートル先ならば一〇センチ、一キロ先ならば一メートルの開き角度ということになる。
人間の胴体を模した木板の幅は実寸では約四〇センチあったはず。スコープで計測してみると、木の板はここからは〇・五ミル幅ほどに見える。
これより先、必要になるのは数学的知識だ。
三角比を使えば、距離が計算できる。つまり標的のサイズとミルから算出すれば、彼我の距離は八〇〇メートルあることになる。
ライフルとスコープの
風は吹いていた。弾丸の飛翔は三〇〇メートルあたりから横風の影響が無視できないほどになり、五、六〇〇メートルならば微風でも着弾は数センチどころかメートル単位でずれる。八〇〇メートルともなればなおさらだ。
観測した環境状況を折り込む。
クララは開いた狙撃兵手帳に視線を落とす。血がこびりつき、にかわのように固まっているページもあった。書かれた文字は神経質なまでに几帳面だ。戦時中に使用した手帳には、あの人の狙撃記録がクララ自身の字で記してあった。
戦闘中に照準を修正する方法は二種類ある。計算に強い狙撃手はスコープの設定を計算量に合わせ変更する。経験豊富な狙撃手は、手早く左右及び下方に伸びる照準線に沿って狙点自体を動かす。大学の数学科を休学し赤軍に志願したクララは前者だ。
記録を参考にする。現在の環境も加味し、結論を出す。この距離での射撃は久しぶりだが、計算が間違っていないことを確信する。
スコープの横軸を調整するウィンデージ・ノブと、縦軸を調整するエレベーション・ノブを必要な数だけクリック。ひとつずらすとカチっと金属音が鳴る。音一回につき〇・一ミル、照準が修正される。
狙撃とは、つまるところ数字の世界なのだ。仮にライフルや弾薬が同じ性能を保つのならば、計算さえ間違わなければ狙撃は数学的に再現可能となる。
伏射姿勢のまま、もう一度、調整を終えたスコープを覗く。呼吸をコントロールし、不随意運動をおこす筋肉の裏切りに注意する。骨だけが忠臣だ。人差し指と薬室に収まった弾丸を一本の糸で結びつけるイメージ。息を吸い込み、吐き出し、止める。肉体を静止させる。
胸の奥が疼く。痛みだ。痛みとは、クララにとって「私」という存在を形作る。
なら。自身に命じる――痛みを楔にしろ。
身体の、筋肉の微細な揺らぎが収束する。凍りついたとすら思わせる、完璧な停止の瞬間。引き金を真後ろに絞り込む。炸裂音、ついで銃口炎。発射の反動とともに銃床が肩を打った。
弾道が伸び上がる。狙い違わなかった。木板が弾けた。
「命中したな。ライフルの精度が良いとみえる」
着弾観測していたダニーラが不機嫌そうに報告する。
距離八〇〇で初弾命中。クララは高揚する。ダニーラのセリフは間違ってはいない。クララが借り受けたのは、身震いするほど高精度のモシン・ナガンだ。スコープもくもりひとつない。優れた道具が与えてくれる自信と肯定という充足感は久しく味わっておらず、格別だった。
あの人は、常にこんな胸中に満たされていたのか。
傍らにいるのが嫌味で不遜な男であるのをいっとき忘れるほど、気分が良かった。
それに、クララに支給された弾薬。すべてが高水準に一定品質を保っていた。狙撃のおおいなる助けになる。軍の生産工場に手を回し最上級のものを揃えたのだろう。暗黙の内にイリヤ・シシューキン
力ある男。彼ならば、他人の人生を再生することも容易いに違いない。夢破れたダニーラに心酔されるのも理解はできる。
もっとも、不審な点はいくつもある。
クララの粛清された父親はNKVDの上級将校だった。NKVDの内情は多少なりとも知っているつもりだ。少佐は通常の作戦行動から明確に逸脱している。自前の戦力ではなく、強制収容所から人員を集めているのもそうだ。彼は省内トップのメルクロフにも秘密で今回の作戦を遂行しているように思えた。
なら、背後にいるのは誰だ。モスクワで暗闘する権力者のなかで、何者かがシシューキンを操っているのだ。
「良い腕をしているね」
思考を中断し、振り向く。もうひとり、クララの狙撃を見守っていた青年が初めて言葉を発した。ねぎらいの言葉なのだろうが、浅葱色の瞳には感情が読み取れない。透き通る肌をした、男とも女ともつかぬ異貌。一見して軟弱そうだが、かもしだす雰囲気は冷え切っている。
「ぼくのSVT−40では困難な距離だ」
不穏な気配の美人、ルカ・キリチェンコが褒め称える。
ルカはレニングラードの食屍鬼の異名を持ち、飢餓が支配する戦場をからくも生き延びた青年だ。凍りついた死体に潜み、ドイツ兵どもを狙撃していたという。故に食屍鬼と渾名されている。
「君なら狙えるだろうね。魔法の数字を」
彼もまた狙撃兵だった。同様に狙撃兵として学んだクララは、ルカの言わんとしていることが理解できる。
シシューキンによって集められた狙撃手四人のうち、三人がここにいる。モスクワ守備隊はどちらかというと治安維持を任務としていた。ダニーラの実力が不明な以上、単に戦時中の確認戦果だけを考慮すればルカが一番の狙撃兵となる。
ルカが言う魔法の数字。嫉妬と称賛に浴しながら、クララは独り言のように述べる。
「あの人は」
シシューキンの背後関係に悩むのはあとだ。
言葉に出すと、感情が否応なくこみ上げてくる。ともに分かち合ったはずの勝利の余韻が。これも記憶だ。戦争の、あの人の。
「一キロ先の戦車と撃ち合って勝ったことがあります。虎を殺したことがあるんです。距離一キロは、我々狙撃兵にとって、そう、たしかに魔法の数字です」
いっけん脈絡のないクララのセリフにダニーラが戸惑う。ルカを見る。なにを言っているかわかるか、という表情だ。ルカは変わらず無感動な面でクララを見つめる。
一キロメートルという距離は、狙撃手にとって特別な数字だ。なにせメトリック法でのひとつの区切りでもある。
現代の精度の良い手動装填式ライフルなら命中させられる距離ではある。だが、そこには才能という壁もまた厳然として存在する。一キロともなればスコープ越しでも人間という標的は小指の爪先じみて見える。狙うのには才能と、そして運もいる。
容易に達成できた者もいれば、打ち破れずに舞台から去っていく者もいた。
だからこそ、才能の指標になる距離といえる。
「魔法の数字」とは言い得て妙なのだ。
また胸が疼き始めた。
あの人が与えた、痛みだから。
あの人は、才覚あるひとりだった。
クララの肉体に、いいや魂に染み付いた存在でもある。
あの人は赤軍、いや人類史で五指に入るほどの狙撃能力を持っていた。狙撃兵として正規の訓練経験があるクララには痛いほど才能が理解できた。
凡人には到達できない高み。ウラル山脈よりも険しい隔たり。あの人と同様の絶巓に辿り着けたものは、人類史に果たして何人いるのだろうか。
だがあの人の学力はせいぜいが初等学校二、三年生レベルにすぎなかった。数字の理を理解せず、ミルがなんたるかを知らず、三角比を使えず、正確な距離の算出ができず、観測手が同道しない場合には勘と経験則に頼って撃っていた。
頭のなかにあるものさしを使ったり、物体の見え方、人間ならば顔の表情の仔細や身体の輪郭のにじみなどから距離を推測していたのだ。計算数学を識る者からすれば信じられないほど原始的な方法だ。距離が遠くなればなるほど、致命的な欠点にすらなった。
だから、傑出した才がありながら、狙撃兵としては未来永劫にわたり完成できなかった。
クララが思い出に耽溺していると、宿舎の方角から男女が歩いてくる。片方は知った顔だ。クララは出迎えようと立ち上がった。クバン・コサックの黒服に身を包んだ女は粗野な言動のベラ・ゴゼワ。モンゴル系の容姿の男は先日始めて会った。通訳として連れてこられた現地人でホランという名のはず。
近寄った彼女たちに、機先を制したいのか喋りかけたのはダニーラが先だった。
「なんの用だ」
ホランが遠慮がちに口を開く。
「あなたたちを少佐が呼んでいる」
「理由は?」
腕組みをしたダニーラが尊大に聞く。気圧されるホラン。彼の襟首をベラが掴み、強引に退かせる。位置を入れ替えた彼女は長身のため、ダニーラを見下ろす形になった。常に疑問形で話す独特な口調で答える。
「探しものを見つけた、だとさ?」
「日本人の子供か。ようやくだな」
「素性のよくわからん女ふたりに保護されてるらしいよ? 白系ロシア人かなんかかと、黒髪で背の高い狙撃手って話しだ。知らせをよこしたマキシムによると、狙撃手はえらく腕が良いってさ?」
「姿が見えんと思っていたが、俺たちを出し抜く気か。一匹狼気取りもたいがいだ」
ベラの言葉にクララは眼を見開く。心臓が一度大きく、跳ねる。疼痛が激しくなった。
それは、癒えることのない痛みだ。
魂の一部が他者の言葉というナイフに抉り出され、滴る血肉をもってあの人の輪郭を形成する。
死に彩られた女。数えるのが億劫なほどの人間を屠ってきた女。
語られることのない、しかして忘れ難い女。
「黒髪の女? それで、狙撃手ですか? ひょっとして、ヤクート族では?」
「さてね。又聞きだし、詳しいことはあたしも知らないよ?」
クララは左手で顔面を抑えた。肉体の最奥、骨身に軋む苦痛に耐えるために。
マキシムは鳥撃ちを得意とした元猟師だ。徴兵されると狙撃兵となり、すぐさま四〇人殺し勇敢記章と優秀狙撃兵の称号を得た。協調性が低く独断専行の悪癖があると聞いているが、殊勲は嘘をつかない。技量は信用に値するだろう。彼が見誤るはずがない。
一流が一流と認める黒髪長身の女狙撃手が、ごろごろいてたまるか。
ならば。
やっぱり。やっぱり生きていた。あの人がそう簡単に死ぬはずがない。あの人はNKVD――少佐ははっきりとは言わなかったが、おそらくは満州侵攻のさいにも暗躍していたスターリン直属の秘密防諜部隊スメルシュ。今はMGBの第三局だ――六名を射殺し軍を脱走した。愛用のライフルを殺害現場に置き去りにして。
行方はようとして知れなかったそうだ。
そんな女が、今でも生きていたのだ。
澱から吹き上がるように、あの人との思い出が続々と蘇る。モスクワ中央女子狙撃兵学校の二期生として、小隊に配属されたばかりのころの出会い。ヤクート人の信仰に従いあの人が素手で馬を屠畜する場面。仲間たちを混じえた、
愛し合ったときの、あの人の体温の暖かさと染み付いた戦場の女の子の匂い。
ずっといっしょだったのだ。
忘れられる、ものか。
「なぜ泣いているんだい」
ルカが聞く。泣いている? 私が? クララは目尻を触る。濡れている。涙を流している。憤激を、憎悪をぶつける相手が生きていると聞けば復讐の喜びに歓声をあげると思っていたが、ちがった。
喜色、そう喜色ではない。あの人の確実な生存の報せは。
かぶりを振る。いいや、ずっと昏い色合いだ。これはなんだ? この感情をなんと形容すべきなのだ? 言葉にできる前に形が消失し、雲散霧消していく。口の端にのせられない。
ただ思い出す光景があった。
機関銃弾の火線の下で。ほんとうは、キツネ穴で追い詰められたとき。ドイツ兵と戦い最期は別れのキスとともに自爆して果てたマリーア・ポリヴァノナとナタリア・コショヴァのように劇的に、ともに死んでほしかった。美しい最期ならば、きっと絵になる。
でもそうはならず、あの人も、クララも、運命が分かたれた今でも生きている。
名誉も名声もなく、ただ人間性を否定するばかりの戦争からも開放されなかった。暖炉の側でとろとろ眠りたかった、ささやかな願いも叶わなかった。
なにもかも、手に入らなかった。触れたと思った次瞬には、砂の城のようにひび割れ毀たれていった。あの人もただ弾丸のみを置き去りにし姿を消した。
救ってくれると信じていたのに。
そうか。クララは納得する――たぶんきっと。あの人に向けるこの感情は、執着と呼ぶのがふさわしいのだろう。
素敵だ。素敵な言葉だ。
肉体の深部が熱くなる。熱傷じみた感覚。
痛みの源泉は、古傷だ。
クララは急に思い立つ。
涙を指で弾き、払いとばす。
伏せると、再度スコープを覗き込む。まわりの人間は突然の行動に困惑したようだが、狙撃姿勢をとるクララになにも言わない。察したようにふたりの狙撃兵は双眼鏡を覗き込む。
遠くに影が見える。人間とは違う、四つ足の生き物。首をおろし草を喰んでいるようだ。頭からは枝状の角が伸びている。影の形から推測するに、どこからか迷い出てきたアカシカだろうか。豆粒のようなサイズ。
クララは記憶を探る。アカシカの平均全長は一・五メートルといったところだ。スコープ中央部の空白に当てはめる。縦の照準線に区切られた幅は二・五ミル、さらにその半分。いや、わずかに大きい。一・三ミル。
三角比から計算すれば彼我の距離は、一一五三メートルあることになる。
薬室に収まっているのは長距離射撃用重量弾。狙撃兵手帳に視線を落とす。必要なぶんだけスコープのノブを回す。
準備を整えて、もう一度狙撃姿勢をとる。
呼吸を、筋肉を、肉体を精神を狙撃用に最適化する。引き金を絞る。銃撃。
なにも起こりはしなかった。
「外したな」
「観測報告を聞きたいかい?」
発砲のあとでも、アカシカは立っていた。
ダニーラの満足した呟きと、助けを申し出るルカ。クララはルカの提案に首を振る。弾丸の飛翔の軌跡は自分も見た。ボルトを操作し排莢。次弾を薬室へ。黙念とスコープを覗く。千メートル以上もあれば風は二度あるいは三度反転する。見て取れば、夏の日差しに炙られた、陽炎がゆらゆら立ち昇っている。
最後のゆらめきは直上へと昇らず、左に流れていた。
「向こう側は、三時方向から風が強く吹いてます」
クララは独り言のように呟いた。
アカシカは、まだそこにいる。距離が遠いので銃声は聞こえなかったが、なにかが飛来した気配を察知したのだろう。周辺をさぐるように頭を上げている。
すぐにも逃げ出すかもしれない。まわりの四人は沈黙し成り行きを見ている。ルカからは許容を感じる。早く撃て、と言わんばかりにダニーラがため息をつく。
無言の圧力を無視し狙撃に集中する。
世界が遠くなる。意識が自信の肉体へ埋没していく。自分の心音が、耳の中の血流のうねりすら聞こえる。没入を深める。やがてあらゆる音が消えた。代わりに指先にかかる引き金の感覚が強くなる。
それでも肉体の深部の傷は、忘却できない。
あの人が、最後にくれたもの。
回復不能の傷。
刹那、確信が訪れた。
引き金を絞る。
炎とともに銃弾が迸った。
「
とつぜん銃声に混じりドイツ語が聞こえた。
銃口炎のなかにまた幻視。
胸に痛み。撃たれた痛み。
盲貫銃創の痛み。
あの人は、見ていたのだ。スコープ越しに。そして、撃った。狙撃した。ドイツ兵どもではなく、私を、クララ・フェイギナを射殺しようとした。
弾丸は、胸に着弾した。
粉砕したのは心臓ではなく、骨だ。風の気まぐれが弾道に影響を与えのか、あるいは作為があったのか。胸骨に当たった弾丸は砕け、破片がいまだ胸の底にある。太い血管に近すぎるので外科的に取り除くのが不可能なのだ。
苦痛の源泉だった。
けっきょくのところ。
あの人は、フェオドーラはクララを殺し損ねたのだ。ソ連邦英雄のタチアナ・バレンティナはさんざん暴行されたあと両眼を抉り出されて処刑された。身の毛もよだつ死。あの人は虜囚の身となった相棒を憐れみ、かつてキツネ穴のなかで語った希望通り、最期に苦しまぬよう自ら手を下したのだ。
とても慈悲深い決断だ。あの人の胸中にあったのは、唇を噛みちぎらんばかりの懊悩だろうか。それとも、重荷から解放される安堵だろうか。はたまた、正しいことをしているという自己満足か。
でも失敗した。心臓を外した。終わりを与えられなかった。決断のあらゆる意味は消滅した。
だから、いまでも。
私は、クララ・フェイギナは喘鳴の生のなか、地上を徘徊している。
銃口炎が消えると、回顧も消えた。
着弾まで二秒強。放たれた銃弾はあまりの距離に弾速は四割ていどに、運動エネルギーは初速の二割以下にまで減衰する。
クララは凄絶な笑みを浮かべる。
一キロ超先で、アカシカが倒れた。
魔法の数字を手に入れたのだ。
――ねえ聞こえた、フェーデチカ? あなたのライフルの銃声が。
ぜったい、会いに行くから。こんどは私を完璧に殺してよ。できないのなら、私があなたを――
颶風の愚者、螺鈿の裸者 うぉーけん @war-ken
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