第22話 残響するのはサビ猫の問い
「無知とは幸福だ。ただの田舎娘のままでいられれば、戦争を知らず幸せだったのにな」
白昼夢。声が聞こえる。
ひさしぶりに、神様に祈るなんてしたから? ゾーニャは自分を叱咤する。まぼろしに耳を傾けている場合か。
うざったい牽制射を続けていた正面の敵兵を射殺する。右から回り込もうとした一団に、八路軍からちょうだいした日本製の手榴弾を投げつける。ピンを抜いてからきちんと待つのも忘れなかった。ころころと転がり落ちる手榴弾。ヴィカの指摘通りの時間が過ぎると耳を劈く爆発がおき、複数人を薙ぎ倒す。
舌打ち。ひとりやり損ねた。危害半径の外側、だいぶ後ろにいたヤツが無傷だ。仲間たちの死体をまたぎ、駆け登ってくる。
武装した歩兵は平地なら一秒に五メートルほど走る。もう距離五〇を割っている。固定弾倉に残弾なし。モシンナガンに軽量弾をひとつ、叩き込む。
この距離では胴体の致命的部位に命中させても、反撃される可能性がある。人間はたとえ太い血管を破壊されても、血中酸素とアドレナリンが全身と脳に行き渡っていれば最大十五秒ていどは動き続けるからだ。
すばやく照準を合わせる。男の姿はもうレティクルの過半に達している。距離が近すぎる。このまま撃てば弾道は上を行く。狙点を下方に修正する。
狙うべきは頭部だ。
一撃で神経系を断つ。経験則に合わせて照準を修正。引き金を絞る。銃声。肩に反動。国民革命軍の兵士の頭がぱっと砕け散る。
これで何人殺した? 蒋介石の小規模な軍隊のほとんどだ。二桁はこえている。
だから、たいした数じゃない。
射撃の反動で銃床に打ち付けられた肩は痛いし、息も乱れ気味だけど、まだ疲れてない。もっと殺せる。
命を蕩尽し成り立つ生暖かい空間。
戦場。
ゾーニャは他の誰でもない、ただひとりでそれを形作っている。
機関銃が破壊されると、国民革命軍の兵士は少なからず逃散した。もとより士気に劣る烏合の衆らしい。
だが、仲間のかたきを討つつもりなのか、何人かは果敢にもゾーニャのこもる丘陵へと突撃してきた。それとも、もはや前方にしか活路がないと知っているからか。
どちらも逃すつもりはない。向かってくる物は無論、逃げる者も。どこかにいるであろう本隊に報告されたらまた危険を招くから。
皆殺しにする必要がある。
風切り音。地面がはじける。間近に着弾だ。足音。もう距離という利点は消え失せている。また敵兵が迫る。
意気込んでも、しょせんモシン・ナガンは手動装填。ゾーニャのモシン・ナガンは狙撃銃仕様でスコープが邪魔になるため、挿弾子が使えない。五発まとめての挿弾ができないため、さっきから何度も弾切れを繰り返している。
敵兵はもう近距離だ。一発ずつ入れていては間に合わないと判断し、ライフルから手を離す。予備武装の回転式拳銃を取り出す。
たいがいの下士官がそうするように、右手だけでは持たない。両手できちんとグリップを把持。撃鉄を起こす。
革命軍兵士の男に狙いを合わせ、引き金を引く。
スミス&ウェッソン、モデル3。独ソ戦のとき以来、パルチザンの老兵から借りっぱなしになっているものだ。返却すべき相手はもういないけれど。
帝政ロシア時代の古めかしい拳銃が火を吹いた。
一発目は外した。心のなかで悪態。拳銃は扱いが難しい。最後の武器だとは言い得て妙だ。あんまり頼りたくない。再度撃鉄を起こす。シリンダーが回転し、次の弾へ。呼吸を落ち着かせ、二発目を撃つ。こんどは肩に被弾し、男はもんどり打って倒れた。
あと一人。疲れてなどいないはずなのに、視界がぶれる。狙いをつけるのが遅れる。地形を盾にするゾーニャに命中させる自信が無かったのだろうか。仲間が撃たれた隙に、最後の兵士は丘を登りきっていた。
目と目が合う。若い、いや少年と言っていい兵士だった。同じアジア系なれど、ゾーニャよりも年齢も背も低い。貧弱な体躯に長大なライフルが似合っていない。
「
腹這いのゾーニャを見下ろし、何事かを叫ぶ。馬のいななきにも似ている。かまえたライフルの先端が躊躇いにぶれている。
「なに言ってるの? わかんないよ」
馬の乳を嘗め、馬の肉を食べ育ち、体格に恵まれているゾーニャは力任せに回転式拳銃を操る。モデル3の銃口を向け、残りの弾丸を少年兵の頭部と胴体に叩き込む。
硝煙だけでなく、血の臭いが間近に香った。直撃させるたび、ゾーニャは返り血を浴びる。
最後の力で引き金が引かれたのか。ライフルから飛び出した弾丸がゾーニャの肩口をかすめ、土をはじけさせた。ヤクートの血筋を示す長い黒髪が千切れ飛ぶ。
少年兵が斃れた。
もうゾーニャは彼にかまっていなかった。再装填のために中折式のモデル3をヒンジから
影がゾーニャを覆った。
影は伸び上がった人の全身の形をしている。見上げれば、さきほど右腕を撃った男が、無事な腕で銃剣を握り締めて至近にいる。
モシンナガンは手元にない。モデル3も装填中だ。
どうする? 迷いは一瞬、決断は刹那だった。拳銃と弾丸を捨てる。
「あたしのナイフは、戦闘用じゃないんだけどな」
ぼやく。息を止め腹筋の力だけで起き上がる。同時に鞘からヤクートナイフを抜き放つ。
立ち上がる。火花。甲高い金属音。突き出された銃剣をナイフで受け止め、手首を返す。刃先が逸れた。防御ががら空きになった。ゾーニャのナイフは完璧に実用品なので、戦闘用ナイフと違い刺突用の刃先は持たない。突き刺せないのだ。
代わりに刃をひらめかせ、そのまま男の頸動脈をひと薙ぎ。
狩人であり、家畜の屠畜経験もあるゾーニャは知っている。喉をかき切るのは、いまいち出血しない。だが頸動脈は違う、一撃で致命的な大出血を引き起こす。どんなときも手入れを欠かさなかった狩猟用の刃が、ごくあっさりと皮膚と血管を斬り裂いた。
心臓の脈動に合わせ、断続的に血が噴出する。
苦悶の表情をし男が崩れ落ちる。けものならば暴れる時間を、男は無為に浪費した。溢れ出た血を抑えようと足掻き、どうしようもないまま力が抜けていく。鼓動もまた失せて消えた。
これで皆殺しだ。
ここまで武器を使い切ったのはずいぶんと久しぶりだった。
生き血にまみれたナイフと右手を見て、ゾーニャは深呼吸する。再認識――うん。大丈夫。まだ疲れてない。まだまだ、殺せる。
誰のために? 決まってる、ヴィカのためだ。
でも、最近いつも傍らにいる、獣臭と植物の青臭さと年ごろの少女の匂いが混じった娘はいまいない。
素性がよくわからない、かわいらしいが愚かで賢しい小娘を追っていった。今朝からずっと、あの子にヴィカを独占されている。ふたりはゾーニャよりもずっと話が合うのだからしょうがないけれど、ゾーニャ自身を納得させるのに言い訳が必要だった。
ヴィカの匂いの代わりに、臭気が鼻孔をくすぐる。
こぼれた脳液の臭い。
ながれた血の臭い。
くだけた骨の臭い。
充満するのは死の臭い。酩酊せずにはいられない。
背後に気配。
でも、驚きはしなかった。懐かしい
「やっぱりお前は私が見込んだとおりの人殺しだよ、
全身がまだらに焼け焦げた、
過去を、記憶を、ゾーニャは呼び起こされる。ああ、あたしは血に酔っているんだ。だから、これは残響だ。
そうゾーニャにはわかっていても、確かな実存を感じずにはいられなかった。血とともにいつも過去から忍び寄るのは、あの女。
彼女がそっと背中にしなだれかかる。姉が師ならば、彼女は先生だった。ロシア語のむつかしい読み書きと、算数を熱心に教えてくれた。鼻先と鼻先をキスさせながら話す癖のある女。今日は、うしろにいる。背後から伸びてきた右手が、真紅に濡れそぼったゾーニャの手を愛おしげに覆う。
「守ってやるぞフェオドーラ。私の全霊を込めてだ。お前が少数民族だろうが女と寝ようが相棒が薬中だろうとな。その代わり、私のために殺して殺して殺し尽くしておくれ」
特大の願いを込め、ロシア人としてはいささか変な名前の政治委員、アンナ・イリイーニシュナ・クローゲンシュトリヒが続ける。
「そうしてこの世界に、共産主義という病痾を伝染させてくれ。お前がひとり撃ち斃すたび、伏して流れた血を苗床に共産主義が広がっていく。昔話をさせてくれ。私の父祖は故郷ドイツを捨てウクライナへ渡り、そして革命に感銘しソビエトに渡った一族だ。私はその末娘なのさ」
息継ぎすらしない言葉が無限を思わせ続く。
「私の両親は泥濘と蚊ばかりの地、
囁き。祈り。戦争がなければ詩人にでもなっていたであろう女の詠唱が戦場に混在し木霊する。
ヤクートには地獄という概念がない。死ねば例外なくみんな、小さな世界に逝くだけだ。ゾーニャに地獄という言葉を教えてくれたのはアンナだ。
「ひろがれ、ひろがれ、
ゾーニャは思う――ヴィカはどこにいった? 孤独を意識せずにはいられない。ひとりきりになると、過去が足速に追いすがる。
こうべをめぐらせる。遠くに人影。国民革命軍の兵ではない。
獣革のコートに身を包み、旧式のベルダン・ライフルを持っている。痩せさらばえた老人。悲しげな視線。黙念と見ている。
おじいちゃん。
またたくと、そこには別人がいる。
ルパシカを着た、禿頭の巨漢。三八式歩兵銃と
いま死んだのは、だれのおじいちゃんなのだろうか。決まっている。
「おじいちゃんが嫌いな孫なんて、いないよ」
政治委員に代わって、小さな手が血まみれの右手を握る。不意の感触に心臓が跳ねその手を振り払う。ナイフが落ちる。
老人の姿が掻き消えた。小さな手も消えた。
「あ」
全身をまさぐられる。声に出せない疼きがする。亡霊の感触。不躾で無遠慮で無体な指。醜いまだらのさび猫が求める抱擁は、人肌を恋するあまりに激しかった。自分も相手も傷つける。
疼痛めいた快感から逃れようとよろめき歩きだす。
でも、囁きはついてくる。
「私の言葉をゆめゆめ忘れるなよ。
言葉が、伝播する。血液とともに全身を、心臓を、脳を。心を
女の教えてくれた言葉でゾーニャは応える。
「
「そうだ、そのとおりだ。
――国家というシステムの前に透明な存在になる。なぜなら、お前は人民の心を歓呼させるほど見目麗しくなく、女で、あまつさえ少数民族出身だからだ。これを大罪と言わずなんという? お前は、謳われるには値せず、傾聴するには発音が不明瞭で舌足らずで、故にただ捨て置かれるだけだ。寒さのなかに。孤独のうちに。傷の深部に。死が眼前に迫るまで。
「みな、
くつくつとした声音。
どれだけ進んでも、女の囁きは近い。
ヴィカは? ヴィカはどこへいった? 誰もがあたしの殺しの才能にすがりつく。まるでそこに救いがあるとでも思いこんで。あたしは血まみれのイコンなのだ。
正面から挑み、見据え、対等に歩んでくれたのは、ただひとり。コサックの孫娘だけ。
ヴィカ、ヴィカ、ヴィクトリア。ヴィクトリア・ウルヴァーナ。
果たして彼女は、旅のすえにあたしを求めてくれるのだろうか。命を燃え上がらせ、祖父の仇を討つために。
もし。もしならば。妄想が止まらない――ヴィカの服をナイフで切り裂き裸身に剥いたなら。きっとその肌は、信じられないほどきめ細かく柔らかなのだろう。青白い静脈が、全身に螺鈿を思わせ奔っていて。
嗜虐心が芽生える。ヴィカには消えない傷をつけられた。だからヴィカの秘めやかなところに、あたしの痕跡を刻む権利がある。彼女のことを考えると
「『なぜ私は狂った期待を抱き、お前に耳を傾けるのか。なぜ私の胸はふるえるのか何か予言的な旋律に』。忘れないでおくれ、忘れないでおくれ。未来を標す銃声を響かせ殺すことを。私の話したことを」
自己憐憫めいた笑いが聞こえる。初めからなかったかのように、さび猫の気配は消え去った。
丘に立つと、眼下に惨禍が広がっていた。死体、死体、死体。誰がこれほど殺したのだ?
「わかってるよアーニャ。この国も、じきに赤く染まる」
見晴らす限りの大地に散らばる死体を見下ろし、ゾーニャはうっそりと呟いた。
ドイツ系の人間はすぐわかる。なぜなら、その姓は常に無性形であり性別により変化しないからだ。
同化ユダヤ人。それが彼女だった。
でも、下層階級を示す
でも、哀れな女の最期の願いは、記憶に焼き付いてついぞ忘れられなかった。
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