第15話 策動する者
かつては大勢の若い日本人たちが過ごした満州開拓団の食堂で、テムレンギーン・ホランは居心地の悪いまま、直立不動の姿勢を保っていた。
「
赤ら顔で不潔な服装をした、髭面の男がゲップとともに口を開いた。尻に椅子を敷き、
老廃物にまみれた軍服からは、兵士として求められる素養は微塵も感じられない。
「ああ、出ていったよ。隊伍を組んで、大仰ぶってね?」
問われた女が答える。壁にもたれさせた身体は長身で、平均的なモンゴル人の青年より上背があるホランよりも頭ひとつ分高い。肩幅は広く、茶色い髪を短く切りそろえた姿は男のようだ。腰に佩いた銀モールが巻かれた竜騎兵用サーベルはけっして飾りではなく、一振りすれば人間の首なぞ簡単に切り落とせる膂力はあるだろう。
大柄な女は目をすがめる。
「それにしても、飲み過ぎだよ。少しは控えたら?」
「こんな辺境の地では神もお目こぼししてくださるというものだ。飲まずにはおられん」
「また神様に禁酒を誓ってたのかい? 宗教を理由に
「お前さんがその
シーウィと呼ばれた男がまた酒瓶の中身を嚥下する。喉が鳴る。典型的な酒乱だ。焼けるように熱いはずの濃いアルコールを、シーウィは平然と飲んだ。ホランは彼の本名を知らない。八路軍はおろか、ロシア人たち誰もが彼を本名で呼ばないからだ。ただそのあだ名が、男が懲罰部隊の一員であることを示していることだけは知っている。
けっして讃えられず、謳われない、名前のない兵士たち。彼らの死を悼むのは寄生する南京虫や
長身のベラは肩をすくめると、壁から離れてホランに向き直った。酔っ払いと話をしても益がないと判断したのだろう。女に見下ろされるという初めての経験に戸惑う。
それでなくとも、ホランの立場は微妙と言わざるを得ないからだ。
「坊や、酒の相手でもしてあげたら?」
今日初めて出会った人物だが、ベラは多くの場合、疑問形で話すとわかった。だがその口調は問いかけでなく、強制性をともなっていることも承知している。
固い表情を維持するホラン。
「自分はあなた方と、八路軍の。通訳のために呼ばれてここにいるだけだ」
「シベリアの収容所に送られるよりは良いんじゃない?」
「共産主義者に与しているのを同じ建大生に見られるぐらいなら、シベリア行きのほうがましだ」
「あら、ずいぶんな言いようだね。主義主張よりも、生き永らえているほうが重要だと思うけどさ?」
「自分の知っているコサックは、なにより名誉を重んじていた。あなたにその矜持はないのか」
「……へえ。挑発するのかい。あたし、そんなに気が長いほうじゃないけど?」
ベラが唇を舌先で湿らせ、サーベルの柄に手をかけた。捕食動物の舌なめずり。厚ぼったい唇の中には、やはり牙が収まっているのだろうか。ホランは生唾を呑み込む。
だが、恐怖を表情には出さなかった。モンゴル国で増大しつつあったソ連の圧力に抵抗した結果、一族は敗走し満州国に組み込まれたとはいえ、ホランの血筋は戦いに生きる家系であり父は偉大な将軍だったからだ。
覚悟を決めるホランは、しかし、切って捨てられることはなかった。
「袖にされたな、ベラ。赤軍に騎兵ありとファシストに恐れられたクバン・コサックが、たかが口喧嘩でいきり立つな。酒がまずくなるわい」
シーウィが大口を開けて笑った。豪快で、間抜けで、すえた臭いが漂う、あらゆる緊張をしぼませる酒飲みの笑いだった。
興を削がれたように視線を流し、ベラは柄から手を離した。本来は軍帽か乗馬ズボンに縫い付けられている銀モールが、鞘の上で揺れ動く。
輝く銀は、クバン・コサックを象徴する軍団色だ。
ホランが知るコサックの軍団色は黄色だった。ザバイカル・コサックを象徴する色。ともに学び、研鑽し、親友といってよかった青年は、その色に誇りを持っていた。
否応なしに、彼を思い出す。白皙の美青年、その深い思慮と巧みな馬術を。学業を終えた夜に行われる座談会で、彼の巧みな弁舌と理論構築は常に他者を圧倒していた。馬を操らせれば誰よりも速く、そして曲芸を難なくこなし、馬上での射撃も剣術も並ぶものはいなかった。卒業すれば、彼は支配層の日本人すら指導下に治め、満州を導く傑物になれたはずだ。
思い出せずには、いられなかった。なぜなら、満州で育ったホランが最も恵まれた青春時代の記憶だったからだ。
ベラには気取らぬよう、こぶしを握る。
満州最高の教育機関、建国大学。あの青年とは、「塾」と呼ばれる寮で同じになった。同級生だ。授業も食事も睡眠も、生活のすべてを共にすごしたのだ。敗戦により建国大学が機能を停止したあと北満に潜伏していたホランは、進駐したソ連兵に捕らえられシベリアに送られるはずだった。だがそうはならず、大学時代に学んだロシア語でも中国語でも意思疎通ができることから収容所送りを免れ、ロシア人に通訳を命じられここにいた。
ホランは思う――自分は恥多く生き永らえている。お前はそんな自分を嗤うか、ヴァレーリィ小沢。
ベラは押し黙ったホランへの興味を無くしていた。ぐるりと周囲を見回す。
「そういえば。小便に行ったマキシム・ガリムジャノフはいいとして。あの娘はどうしたんだい?」
「姫君は、我らが
乾杯するようにシーウィは酒瓶を掲げた。
★ ☆ ★
窓辺から差し込む光を上半身に浴び、彼女は淡く輝いていた。優れた射手であることを示すように遠くを見つめる視線は、静謐さを保ったまますでに十数分も継続されている。峻厳なウラル山脈と暗く沈んだ針葉樹林、寒空を反射する河川の狭間に生まれという彼女にとって、どこまでも広大な草原が続く極東アジアは物珍しいのだろうか。
それとも、茫漠とした地に、自らの未来の不透明さをも幻視しているのか。
だが、NKGBはソビエトの暗部であり、敵対者に過酷な運命を下してきたことにイリヤもまた例外ではなかった。NKGBは一九四六年のソビエト連邦閣僚会議の設置により
スターリンの偏執さを象徴するように、ソビエトの
MGBとは、のちに
イリヤ・シシューキンは、いわゆる
無言で立つイリヤに気が付いたのか、彼女は外を眺めるのを止める。視線を伏せた。祈るように
やがて彼女が面を上げ、凍える視線をイリヤに投げかけた。氷雪が吹きすさぶ色に似た双眸には、絶え間ない沈痛がひしめいている。
果たして彼女は、本当に薬物中毒を克服しているのだろうか。
大祖国戦争のさなかに戦死したある中隊付政治担当副官の手により、彼女は所属部隊から叩き出された。イリヤが戦後に収容所から掬い上げたとき、彼女は骨のようにやせ細っていたが、今では幾分か回復をしているようには感じる。
だがそれでも、人形を思わせる人工物めいた皮膚と関節の質感は変わってはいなかった。健全さとはいまだ無縁だ。
まあ、それはいい。イリヤにとって彼女が使える人材かどうかが重要なのだ。
ソビエトの人民を恐怖と疑心暗鬼に叩き込んだスターリンの忠実なしもべ、ラヴレンチー・ベリヤの権勢は衰えつつある。あの変態的な性倒錯者であるベリヤに仕えたカフカス・マフィアの一味・忠臣フセヴォロド・メルクーロフは今や権力の座を追われ、代わって愚物だが仕事熱心なヴィクトル・アバクーモフが国家保安省を手中に収めた。外国諜報部門はいまだベリヤの掌握下にあるが、遠からぬうちにそれもまた失われるだろう。
スターリンは、あれだけ便利に使ったベリヤをもまた疑っている。
もっとも、お偉方の権力争いに興味はない。最大の問題はイリヤ自身が生き延びるためには、権謀術数渦巻くソビエトのなかで誰につくか、ということだった。
だからこそ、共産党の中枢から秘密裡に命じられた今回の作戦は成功させねばならない。
イリヤは手で払う。蝶が威圧的な風に吹かれ舞い上がり、ふらふらと落下する。世界を鮮やかに詠う詩人の感性を、イリヤは持っていなかった。蝶は蝶にすぎず、ただの虫だ。部屋のなかに迷い込まれても、なんの感慨も抱けない。実務的な男なのだ。
代わりに質素な執務室に置かれた唯一の価値ある物を示そうと、机に敷かれていた布をめくり上げる。
彼女が小首を傾げ、ほんのわずか、眉を下げた。
現れたのは、鉄と木からなる造形品。あらゆる戦争と流血とを支えてきた、一本のライフルだった。
モシン・ナガンM1891/30。大祖国戦の象徴。ナチス・ドイツを退けたスナイパー・ライフル。
「製造番号も造兵廠の刻印も、君が言っていたもので間違いない」
「満州で失われた。そう聞いていましたが、見つかったんですね」
「中隊の管理庫に眠っていた。記録によれば、皆殺しにされた
「僥倖、です」
部屋に入ってから初めての、彼女との会話だった。雲雀の鳴き声を思わせる麗しい声音が、予想よりも饒舌に紡がれ、イリヤは満足を覚える。
ソ連軍やMGBの将兵に気取られぬよう、戦力の大部分を収容所の囚人どもからかき集めたイリヤの部隊は、甚だ忠誠心に疑問があった。もちろん、自由を引き換えに彼らを使役する権利をイリヤは与えられているが、部下たちとは互いに信用も信頼もないのは事実だ。
優れた射手の心中を射止められるのならば、所在不明になっていた狙撃銃のひとつやふたつ、探し出すのは無益ではない。
「さわっても?」
「君のライフルだ、好きにしたまえ」
「はい。ありがとうございます」
穏やかに微笑み、彼女は歩み寄った。あっけなく蝶が踏みつけられ、くしゃりと潰れる。意に介さず彼女はさらに進んだ。蝶が持っていたあらゆる色は失せ、小さな黒い染みが跡に残される。
モシン・ナガンに手を伸ばす。白い指先が愛おし気に銃身を撫で上げ、絹をなぞるように滑り、やがて銃床へと至る。彼女は、頬を緩めたうっとりとした表情をしていた。ライフルをゆっくりと持ち上げ、スコープを覗き込む。
優雅で、物憂げで、没落しつつある貴族の令嬢が失われていく宝石でも扱うように繊細な仕草だった。
「綺麗。レンズにくもりも、濁りも、傷もない。古いエメリャノフ・スコープとは思えないくらい透き通ってる。零点規正は?」
「していない。発見時のままだ。粗雑に扱われていなければ、以前の持ち主がしたままだろう。まあ再調整は必要だろうが。君が、好きなようにするといい」
まるで亡くした恋人がその手に舞い戻ったかのように、彼女はモシン・ナガンを情熱的に抱く。彼女にとって珍しい感情の漏出は、思い出の品に触れたことにより失われた人間性を取り戻し、あふれたかのようですらあった。
「ずいぶんと心を込めて扱っているな。私は狙撃に関しては素人だが、君が希望したライフルはそこまで素晴らしいものなのか」
「ええ、もちろんです。現存するモシン・ナガンのなかでは、間違いなく最高峰の精度をしています」
「まるで見てきたように言うのだな」
すぐには答えず、彼女は上目遣いでイリヤを見る。瞳には変わらず雪と氷が混じっている。ぬくもりは、大祖国戦争に置いてきたか。視線から想像を喚起され、イリヤは思考を巡らせる。
眼前にいる女。少女時代を終えつつある肉体は順当に未来に進んでいるが、裏腹なことに思いは常に過去に馳せている――遠い場所を覗く瞳に宿る感情は、依存と執着だ。
人形は、持ち主を懐古するものなのだろうか。
「このライフルが、戦争で
魂に染み入る声で、クララ・フェイギナは囀った。
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