第14話 旅立ちの朝
断続的な睡眠にもかかわらず、朝の爽やかな大気が心地良い目覚めをもたらした。ゾーニャは天幕のなかで猫のようにしなやかに背筋を伸ばす。コリをほぐし外に出ていくと、ヴィカはもうそこにいた。最後の見張りを続けて、そのまま朝食の用意を始めたらしかった。
焚火の前に座るヴィカ。彼女が作る朝食の微香が鼻をくすぐる。キノコのスープの匂いだ。夜のうちにすっかり消化がすんだ腹が刺激され、意識がはっきりと冴えた。
「
「朝出す分は、決めた場所にしておくのじゃぞ」
「終わったら埋めとくよ」
野外でするのはもう慣れ切っている。恥ずかしさよりも、むしろ気になるのは拭く葉っぱだ。シダはどこにでも生えているけれど、使用には適さない。同様にウコギやクサノオウの類はかぶれるし、イラクサは刺激毛がある。敏感な部分を拭いてしまってはかなわない。広葉樹の葉があれば、いちばん助かる。
手慣れた手付きで
「ところでおぬし」
焚火の火加減を調整していたヴィカが問う。
「わしのナイフを知らんか? 投擲用のが一本足りんのじゃが」
「しらないけど? きのう投げて、回収しわすれたんじゃないの」
「……やはりそうかのう。数えたつもりじゃったんだが、間違えたか。しかたない」
顎に手を当て訝し気な表情をする。
ヴィカの思考をよそに、よっこらせっとゾーニャは椅子代わりの倒木に座った。
「まあ、また使わずにすんでよかったんじゃないかな。それ以上なくすこともなかったワケだし」
「まあの」
一応納得し、ヴィカは料理に戻った。
けっきょく、恐れていた八路軍の夜襲はなかった。噂によると、八路軍は農民をかき集めた集合体なので、兵士の脱走は日常茶飯事らしい。赤軍ならば兵士の逃亡はそれだけで万死に値するか、よくて
だから、いなくなった人間を気にしないのかもしれない。
八路軍も、通りすがりの馬も、ヴィカの単なる取り越し苦労だったのだろうか――そう思うのは、きっと楽観主義なのだろうけど。
焚火を挟んだ反対側で、ヴィカはいつも通り料理を再開する。昨晩のやりとりなぞ無かったかのような平静さだ。ヴィカはいつだってそうだ。激情家のくせに、なるたけ隠し通そうとする。
「おは……ようございます」
ふわ、とあくび交じりにユズがでてくる。小さな手で両目をこすり、ゾーニャとヴィカを交互に見る。大人びた口調のユズだが、寝起きは年齢そのままの子供だった。
まあ、この子もいることだし。考えを一時中断する。ヴィカと昨晩の会話を再開し、わざわざ空気を悪くすることはあるまい、とゾーニャは思った。
下を向いてもじもじするユズ。
「あの……おトイレ、どこでしょうか」
お腹がはっているのだろう、下腹を抑えている。我慢していたのか、顔が赤かった。ヴィカがゾーニャを見る。
「案内せい。ついて行ってやるがよかろ」
「ひ、ひとりでできます!」
「さ、さよか。幼子みたいな扱いしてすまんの」
大声で叫ぶユズに、驚くヴィカ。ユズがひとりで行きたいのは、別に子供扱いされたくないからではないのだろうが――ゾーニャは指を差すと「あっちあっち、行けばわかるから」と場所を教えてやる。でもユズは逡巡している。外でするのは初めてなのだろうか。
「はい、どうぞ」
ブナの葉を複数枚、渡す。戸惑うユズに「これで拭くんだよ」というと、顔全体が真っ赤に染まる。恐る恐るブナの葉を手に取ると、ユズは無言のまま茂みに消える。
何事も体験なのだ、とゾーニャはしたり顔で頷いた。
ユズはそそくさと済ませて戻ってきた。
「ここ、あいてるよ」
ゾーニャは隣の空間を差し示してみせる。ユズはぽかんと口を開ける。遅れて意味を理解し、えと、と呟いた。迷っている表情。
「おざーさんのとなり、がいいです」
遠慮がちに言い、わざわざぐるっと回ってヴィカの隣へ。そこにはゾーニャが座るものより小さな倒木があるだけなのだが、ヴィカは嫌とは言わない。半分席を空けてやる。小柄な彼女でも、尻が片方浮いていた。
「すみません」
「かまわんぞい」
密着して座る。ゾーニャは鼻を掻いた――昨日から感じていたが。ユズに避けられている。これはまったく、なんというか。苦手に思われているもんだ。
飯盒のなかでじっくりことこと煮込まれるスープを見て、ゾーニャは気持ちを切り替えた。
今日の朝ごはん、すごく良い匂いを立てている。
「おいしそうです。なんですか、それ?」
ユズに答える代わりに、ヴィカは中身の詰まった瓶をちゃぷん、と揺らした。
「ここに昨日採取したキノコの漬物がある。ヒラタケ他のキノコを
乳酸菌育成が趣味のヴィカが得意げに語りだす。
まあ、今日は彼女の口上は許容範囲内だ。ちゃんと料理をしてくれれば、他に言うことはない。
キノコの香り豊かな匂いを嗅ぎながら、ゾーニャはブーツから取り出したスプーンを握った。
「この発酵したキノコが具材じゃ。さらに味の染み出た漬け汁も使う。水を足し濃度を調節し、ここにロシア風サラミを入れる。ことこと煮込むと、キノコとサラミの香味スープのできあがりじゃ!
飯盒から皿替わりの蓋に注いでもらい、湯気が立つスープをゾーニャは受け取った。キノコとサラミをぐるぐるかき混ぜ、具材もろともにスープを一口すする。
うん、しみてるしみてる。
「ちょっとすっぱいけど、このすっぱさがロシアっぽい味の気がする」
「わしが育ったのは満州じゃがな。まあ、満州は気候と白系ロシア人を多く抱えることから、『満州の味』といったらロシア料理も含まれるじゃろうな」
「おひたしもちょーだい」
琺瑯のカップに入ったおひたしを受け取る。乾燥させたキスゲの若葉と花を戻したものだ。色味は茶色を帯び食欲をそそるとは言い難いが、花を食べる、なんてのは珍しい。すくって齧る。
このキスゲ、マジメな味。
三人は最後の黒パンをもそもそと食べる。おかずはヴィカお手製のスープに、サラダ代わりのおひたしもある。採取したキノコや野草が中心だが、野外生活にしては贅沢な食事だ。
本当は昨晩、ゾーニャは朝食を取らずに出発することを主張した。
でも、ヴィカは反対した。子供を急かすものはでない、というのがヴィカの主張だった。それで食べることになった朝ごはんだった。決まったからにはゾーニャも文句はない。空腹では、なにをするにも問題になるからだ。スープをずずずとすすり、パンをかじかじ、おひたしをむしゃむしゃ。生理的反応を抑えきれず、おおきなゲップ。
せわしないゾーニャの隣で、ユズがおいしそうにパンを頬張っている。
先に食事を終えたヴィカは愛用している蛤刃のナイフを研ぎながら、隣のユズに話しかける。
「おぬしはハルビンに親戚がおるといったな」
「はい、そうです。列車に乗って行って、親戚のお世話になる予定でした」
猫舌なのだろう。ユズは借りたスプーンで飯盒から熱いスープをすくうと、ふーふー息を吹きかけ冷ます。ちょうどいい温度に下がったのを確かめながら、ゆっくり飲みこみ首肯する。
「口に合うておるか? わしの作る黒パンやスープは日本人には少しばかり酸味が強いからの」
「おいしいですよ! あじあ号で食べたロシア料理みたいです」
「ふむ。超特急あじあ号か」
あじあ号の名前はゾーニャも聞いたことがある。ヴィカがいつかした昔語りのときに。
満鉄ご自慢のあじあ号は同社工作課の技術者、
パシナ型は流線型をしたたいへん美しい造形の機関車として知られていた。展望一等車には嵌め込み式の曲面ガラスを採用し満州の景色を楽しめるサロンといった趣で、さらに驚くべきことに客車部分にはアメリカのキャリア・エンジニアリング製冷房装置を備えていた。全客車にエアコンを完備した列車はアメリカの一部にあるのみで、ヨーロッパでもまず見られない最新鋭の設備だ。
お部屋を冷やす、と言われてもゾーニャにはなんのことだかわからない。暖房貨車付きの汽車にはゾーニャも乗ったことがあるが、まあ暖める、というのは理屈でわかる。
それに対して冷房というのはとても不思議な技術だ。
アジア号のなかでも、とりわけ有名だった食堂車には白系ロシア人の美人ウェイトレスがいて――十代半ばから二十代前半の女の子で、たぶん満鉄のえらいさんたちの趣味だ。スケベおやじどもめ――彼女たちに給仕されながら、カクテルを飲んだりコーヒーやデザートを楽しんだり、ロシア料理に加え和洋どちらの料理なども食べることができたらしい。
ゾーニャは汽車を使った旅行のことはよく知らない。乗ったことがあるのは軍用列車だけで、ぎゅうぎゅう詰めで劣悪な居住性ばかりが思い出に残っている。極東最高の特急列車は、さぞかし乗り心地が良かったのだろうか。
だが満州の象徴であったあじあ号は一九四三年二月に、戦況悪化と軍事輸送の優先により線路上から姿を消してしまったそうだ。すべては夢の跡、というやつである。
「あじあ号は三等客席でもそれなりの乗車賃が必要じゃ。おぬしが着ている服も野外活動には不向きじゃが、和装に袴に編み上げブーツというモダンな恰好じゃ。ユズ、おぬしはけっこう良いとこの子供じゃな」
「……たぶん、そうです。他のおうちよりは恵まれていたと思います。お父さんは満鉄調査部の職員でしたから」
「東洋随一のシンクタンク勤めか。かなりのエリートインテリじゃの」
琺瑯カップをくるくる回しヴィカが喋る。
日本人が着る衣服は大正期に大きく変化した。和と洋が巧みに融合し、モダンで洗練された格好をする人が増えた。花開いた服飾文化は昭和期に絶頂の極みを迎え、そして戦争という名の清貧さを好む時代に叩き潰された。
国民服とモンペの台頭である。
あの野暮ったい服装はなぜか戦前を代表する格好だと思われがちだが、実際には戦時中のたった数年間に推奨されたものなのだ。
だが戦火に喘ぐ日本本国とは違い、満州では終戦直前まで和装洋装現地の民族衣装を自らの美的信念のもとに着用していた人々が大勢いて、平和を謳歌すらしていた。満州の政府系機関であった協和会の制服ですら、垢抜けたデザインは国民服以上だと評判だった。
良い服を着ている人間は、良いところの出だというのはわかるが。
そんな話をされてもゾーニャは知った顔をして頷くことしかできない。軍服と男物の下着ばかり支給されていた身としては、羨ましいという感情すら湧いてこなかった。
まあ、着た切り雀のふたりには関係ない話ではあるのだ。
ごちそうさまです、と言ってユズは飯盒を置いた。両手の指を合わせながら下を向く。もじもじしているときの癖なのだろう、そのあとの言葉は小さすぎて聞こえなかった。
スープの最後の一滴まで飲み干しながら、ゾーニャはふたりの会話を聞いている。
「そこまでのエリートの子息が、なぜひとりで引揚用の列車に乗ったのじゃ」
「えっと……お父さんもお母さんも、もういませんから」
「……そうか。すまんことを聞いたの」
押し黙るユズ。戦争に巻き込まれて死んだか、それともシベリアに連行されたか。ヴィカはそれ以上尋ねなかったが、初めてゾーニャを見たユズの反応を見れば、両親の最期は安らかなものではなかったに違いない。
ヴィカは詫びると、悲しげに目を伏せたユズを慰めるように抱き寄せる。ユズの小さな頭に顎先を乗せて続ける。
「おぬしがよければ、途中までわしらがいっしょに送っていこうと思うのじゃが」
ヴィカの提案にユズが彼女の両肩を掴んで身を離す。視線を合わせる。口角を緩め、落ち込んでいたとは思えないほど明るい表情をする。花開いたような笑みだ。
でも。人の気持ちに鈍感なゾーニャでもわかるほど、努力して笑顔を作っている。悲しみを堪えた子供のわざとらしい笑みは、痛々しかった。
「本当ですか。おざーさんが僕と来てくれるなら、うれしいです!」
手のひらを合わせて喜ぶ。
子供をひとり放り出すのも忍びないからの、とヴィカは返した。彼女の弁によれば、満州はとてつもなく巨大だ。なにせ日本本国の三・五倍、一三〇万平方キロメートルもある。
広大な荒野を行く者に敵は多い。野盗に野生動物、休戦中だが小競り合いを続ける共産党と国民政府との諍い、そして天候や気温といった自然環境そのものも脅威になる。
野外生存技術に長けたゾーニャやヴィカはともかく、大の大人ですら行き倒れが続出している。ふたりは道半ばで果てた日本人引揚者を何人も見てきた。
ひ弱なお金持ちの子供が、ひとりで歩くのは不可能だ。
ヴィカがユズを送っていきたいというのなら、ゾーニャには反対する理由がない。旧満州の案内役をヴィカに任せているのだから。北満に積極的に留まっている理由もないし、風の吹くまま、よりはだいぶ信頼できる道行きなのもたしかだ。
ヴィカは懐から防水布を取り出す。口を開け、中から折り畳まれた紙片を引っ張り出す。丁寧に広げていくと、関東軍が作成したらしい満州の地図だった。
色が変じ古びた地図を、指先がゆっくりとなぞっていく。
「わしらは今ここ、大興安嶺山脈を遠く離れ、チチハル南東におる。このまま進めばハルビンじゃ。ここを出発点とするとなれば。引揚列車は旧首都・新京まで行き、そのあとは奉天から錦州に南下する。途中で歩かねばならん場所もあるじゃろうが、最終的には遼東湾のコロ島から引揚者用の帰還船が日本に向けて出港しているという話じゃ」
「ぼくもそう聞いてます。ハルビンで親戚、ええと、お母さんの実家の方と合流して、とりあえず奉天を目指すつもりでした」
「じゃあ、ハルビンに行けばなんとかなるな。そこにある親戚の家までの同道じゃ」
「よろしくお願いします!」
ぺこりと頭を下げるユズ。
ヴィカはユズの頭越しにゾーニャを見る。
「おぬしもそれでよいかの?」
「旅の行き先はヴィカにまかせてあるから、あたしはそれでいーよ」
ズボンで指を拭いながら答える。満州の地理はあんまりわからないし、なにより決定するのは頭の良いヴィカの仕事だとゾーニャは思っているので、異論はなかった。
根無し草の自分は、ヴィカのお尻にくっついて行くだけだ。
「天幕をたたんで焚火を埋めて、あたしたちがいた痕跡を消さなきゃね。とりあえず出発のまえに、みんなで食後のキノコ茶でも飲もうか。あ、でもお水はスープに使っちゃったか」
「ふむ……では植物から水を集めてはどうじゃろうか」
「植物からあつめる?」
ヴィカは蛤刃のナイフを振るい、手近な枝を切り落とす。落とした枝を手に持ち、得意げにガサガサと揺らしてみせる。
枝は若木で緑の葉がたくさん生い茂っていた。
「新鮮な葉っぱが付いた枝を、水筒などの密閉容器に入れておくのじゃ。切り落とされたあとでも植物はしばらく呼吸しておるから、蒸散作用により水筒内の湿度があがる。外と内で湿度差ができると、内部で結露が発生するのじゃ」
「ほうほう」
「すると、水筒内に自然と水が溜まっていくことになる。この水は余計な沈殿物もなく、細菌などにも汚染されておらぬ。清浄で安心な飲み水といえるのじゃ」
「すごい! と思ったけど、それって水が溜まるまですごく時間がかかりそうだよね。あたしはいますぐキノコ茶を飲みたいんだけど?」
ゾーニャの言葉にあからさまにヴィカが不機嫌そうな顔をする。鼻をふんと鳴らし、植生豊かな森の奥を指さしながら声を荒げる。
「わしの親切がわからんやつじゃのう。だったら葉っぱから朝露でも舐めておくがよかろ!」
「あたしは水じゃなくてお茶が飲みたいんだよ~」
間の抜けた会話に、ユズがくすりと笑う。朝食は、楽しいまま終わることができた。
出発のときが、迫っていた。
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