第16話 旅路と遭遇

 森から一歩出ると、そこには満州の曠野が広がっていた。


 起伏の少ない、どこまでも続く大地。晴れ上がった青空は地平線とともに視界の先の先まで伸びている。空を遮るウラル山脈のように峻厳な山々はまったくなかった。遠く、指折り数えるほどしかない少数の森林が地下水脈の存在を示すくらいだ。ぬるい微風が、まっすぐに伸びる線路の消失点目掛けて吹くと、三人の進路を示しているように思えた。

 身を隠してくれた貴重な森にさよならを告げ、ゾーニャとヴィカは、ユズを連れて歩き出す。


 太陽の位置はまだ低い。

 出発を焦ったから、ではない。


「薄明薄暮。ロシア帝国と縁深き中央アジアに棲息するトゲモモリクガメは、体力を消耗する暑い日差しを避けるため、主に明け方と夕方に活動するのじゃ」


 ヴィカが得意げに語りだす。サバイバル心得を、ユズに説明している。ユズは感心しながら頷いた。反応が素直だ。ゾーニャはもう何度聞いたかわからない内容なのだが。


 夏の満州は暑い。中国北部と言えども、昼間は三〇度近くまで上昇する。太陽が天高く昇れば、遮るものの少ない曠野の地表はじりじりと焼かれる。人も例外ではない。涼しい時間帯のうちに歩き、距離を稼ぐ。日差しが厳しい時間帯は可能な限り休む。

 これが、ゾーニャとヴィカの移動の秘訣だった。


「どのくらい、距離をとる?」


 ゾーニャの言葉に、小柄な体に人生のように重い背嚢をしょいこんだヴィカが振り返る。答える代わりに、新たに加わったユズに聞かせるように口を開く。


「線路沿いは歩かぬようにな」

「なんでです? 沿って歩けば必ず街に着きます。線路がない場所を歩けば、迷子になりませんか」

「なに、完全に離れはせん。さりとて近すぎれば、目立つからの」


 小さなユズに歩調を合わせつつも、ヴィカは東西に伸びている線路からじょじょに距離をとる。充分離れると「これでよいじゃろう」と呟く。ざっと百メートルといったところだ。

 線路に沿って歩けば、たしかにユズの言う通り自分の位置を見失うということはない。特にこの広大な満州においてそれは重要だ。しかしその道行きのわかりやすさが孕んだ危険性は、いくつもある。


「目立つということは、いらんことを考える連中の目を引くのじゃ。特に、土地勘のない日本人引揚者は線路沿いを歩きたがるからの。非武装で持てる限りの財産を持ち歩き、女や子供もいる彼らはていのいいカモじゃ。野盗に馬賊、軍人くずれや食い詰めた農民、そういった者たちに襲われる可能性がぐっと高まる」

「……よく、わかります」


 沈んだ声音で頷くユズに、ヴィカは黙って手を添える。死んでしまった親切な老人たちを思い出しているのだろう。心細い幼子を庇護してくれた彼らの優しさは、ユズにとって掛け替えのないものだったに違いない。

 ヴィカは、左の掌でちいさな右手を包む。


「おぬしが気にすることではない」


 そう言って、ごくゆっくりと進んでいく。せまい歩幅。かつてシベリアからヨーロッパまで、地球を半周したゾーニャにしてみれば蝸牛のように遅い歩みだった。ヴィカはどこまでもユズに合わせる心積もりのようだ。

 ゾーニャは考える。この歩行速度だと――ハルビンまではどれほどかかるだろうか。


 ヴィカとゾーニャは、常に視界の端に線路を捉えながら歩いた。近すぎれば目立ち危険を呼び込むが、さりとて距離を取り過ぎれば自分の位置を見失いやすい。一定の間隔を空けながら線路が示す先へと進むのが、曠野を行くなのだ。


 三人は歩き続けた。


 前を進むユズとヴィカから数歩離れて、ゾーニャはついて行く。

 ゾーニャもヴィカも、沈黙が苦手ではない。どちらも必要でなければしゃべらず、いくらでも黙っていられる性格だ。それは、今日を生き延びるために獲物を狩るのに必要な、生粋の狩人の性質なのだから。ふたりだけのときは、一言もしゃべらず長距離を移動することもあった。

 だから、ゾーニャは口を閉じたままだ。

 でも、意外なほどヴィカは饒舌だった。さっきの会話で気落ちしたユズを気遣っているのだろうか。


「疲れておらんか? 休もうかの?」

「まだいけます」

「喉は渇いておらんか? 水を飲むか?」

「だいじょうぶです」


 ひとり増えた道行きは、騒がしく、ふたりだけだったときが懐かしさを覚えるほどだ。でも、そんなにぎやかさも嫌いではなかった。昔を思い出すからだ。同じ小隊にいた、ナジェージダとニナはおしゃべりだったし、オリガは適切な合いの手を入れていたし、クララはゾーニャが沈黙すれば補うように口数を増やした。

 本当の名前を名乗っていたころ。ゾーニャの頭の中だけに残る、女の子たちの道行き。ベルリンに向けて進軍するかしましい少女たち。地球を半周した勇ましい軍勢たち。


 そんな、懐かしさがあった。


 彼女たちを失って、なにが変わっただろうか。大祖国戦争は終わり、ソビエトは勝ち、ナチス・ドイツは滅び去った。それでも世界は戦争の世紀へと流転し続けている。ゾーニャの人生を置き去りにして。


「わしもの。ハルビンに行ったことがあるんじゃよ」

「ほんとですか?」


 両手の先端を合わせ尖塔を作り、嬉しそうに答えるユズ。出会ったときから持っている洋式の肩掛け鞄が、腕の動きに連鎖しお腹のあたりで揺れている。

 ヴィカは首を縦に振った。


「祖父の知人の別荘ダーチャが松花江の太陽島にあったのじゃ。夏にそこに泊まったことがある」

「あそこは、ロシア系の人がいっぱいいますからね」

「そうじゃの。そこに一泊し、明くる日は母に連れられ、中央大街ジョンヤンダージェをめぐった。足元に花崗岩が敷き詰められたすばらしい街並みじゃった。口賢しい中国人の商売人、頭に大きなリボンをつけた娘の手を引くロシア人の母親、厳格そうなユダヤ人の紳士……。さまざまな人々が歩く、多民族都市の風情。そこにはいつまで見ていても飽きないたくさんの店が並んでおった。店をひやかし、石頭道街を歩き、聖ソフィア大聖堂にも行ったことがある。外から玉ねぎ型の塔を見上げ、中に入ってまた見上げた大聖堂の円形ドームには、ロシア正教会の歴史を感じたものじゃった」

「おざーさんは、正教会の信徒さんなんですね」

「そうじゃ。コサックの多くは、そうじゃった。……いやかの?」


 ユズと頭身が近いヴィカは、視線を合わせながら聞いた。戒めること「宗教はアヘン」であるソ連兵のゾーニャとは、ヴィカはろくに信仰の話をしなかったし、一方のゾーニャも信じる神について語ったことは少なかった。もっとも、無神論者が多い都市部の人間と違いヤクートは原始宗教的な自然観を持っているのだが。


 ぶんぶんぶん、とユズが頭を振る。


「そんなこと、ないです。信じるものがあるって、すてきなことだと思います。ぼくの――お父さんの――ですが、知り合いやお友達には、ロシア系の人だけでなく、ハルビン在住のユダヤ人もたくさんいましたから」


 横を向き、にっこりとヴィカが微笑む。ふたりが知っている、同じ街の話題が花開いていく。


「そうか。ユダヤ人といえば、わしは一度だけ、馬送爾モデルン賓館に泊まったことがあるぞい。高級木の建材が気品を漂わせ、モダンな雰囲気を佇ませておった。ハイラルでも見たことがないすばらしい建物での」

「あそこは、すごいホテルでした! ヤマトホテルと同じくらい立派で、豪華で」

「わしには荘厳すぎるくらいじゃった。それからの。道理菜市場デュオリィカイ・シーチャンで土産物を選び、美食街の張包舗ツァンバオプゥの肉汁したたる豚肉マンを頬張ったもんじゃ」

「肉まん、ぼくも大好きです。そうだ、食べ物といえば。中央大街のカフェのマルスによく行きました。ロシアパンが不思議な味で」

「おお、なんとなんと。わしの母もそこのパンは買ったことがあるぞ。祖父の土産にして、別荘で母が簡単な料理をつくる。仲間たちが訪ねてくると祖父は彼らとともに食事にし、いっしょにビールを飲んでおったんじゃ」

「ハルビンはビールが名物ですからね。中国で一番、製造の歴史が古いそうですし。父も好きでした」


 ほんの少しのあいだ、ふたりは歩みを止め。ヴィカが空いていた右手でユズの頬に触れる。ゾーニャはかまわず突き進む。彼女たちのような満州国育ちだけが持つ憐憫に立ち入るのは、なんだか厚かましく思えたからだ。大都会への思い出話は、好きなだけすればいい。どうせ行き先は同じなのだ、満州の案内役のヴィカと前後が入れ替わっても差し支えはない。


 それに。ゾーニャが語るべき時間を共にした仲間たちは、ほとんどが死んでしまった。泥濘の海のなかに、死骸となって沈んでいった。生き残ったのはわずか。

 ゾーニャの過去を知る人間は、満州にいないはずだった。


 なんなら。このまま単独でも歩いて行ける。


 果てしのない曠野に、ひとりぼっちで歩いていたのだから。少なくとも、誇りと怒りと感受性の塊のような女であるヴィカに殺されかけるまでは。


 リェーズヴィエ


 彼女の煮えたぎった感情は熔け混じり、鍛造され、鋭い切っ先と化していた。殺意という名の、刃こぼれひとつない純粋さだった。

 そんな女と今はいっしょにいるのだから、不思議なものだ。

 殺されかけてなお、いやむしろ、ヴィカのひた向きさを好ましくさえ思っている。


 生き急ぐのに必死なのは、怠惰な人生を送るよりよほど有意義だ。


「みな、あの街が好きじゃったんじゃな」


 追い抜く間際に。ユズが左手でヴィカの手を覆い、合わせて自分の頬に重ねる。唇をかみ、努めて明るく言ってみせる。


「ハルビンについたら、おざーさんが食べたいもの、ごちそうしますよ! きっと、ぜったい、かならず……たぶん、ですけど」


 はしゃいだ声音は、最後は消えるように萎んでいった。ヴィカは、ただ、すこしだけ頷く。


「楽しみにしておるよ」


 ユズの頭をひと撫でし、そう答えた。


 主要交通網の結節点にある北満の大都市ハルビンは、戦略上見逃すことはできない場所だ。ゾーニャが脱走したあとのこととはいえ、一年前のソ連の進軍は絶対に受けている。彼らが本国に去った後も、中国共産党の手中にあるのは確実だ。

 ふたりが行った場所や店は、まだ同じように存在しているのだろうか。


 あえて、誰も疑問を口にはしなかった。


 先頭に立ったゾーニャは、足元に微かな抵抗を感じる。上っている。小さな坂。土が弓状に盛り上がっているのだ。しなった弓の内側に、ゾーニャたちはいた。測量用にでも築山された地面の名残なのだろうか。いや、もっと過去だ。人為的なものを感じるが、時という膨大な流れが人の痕跡を覆ってしまうほどの昔になされたものだ。

 貴人が従僕に命じて盛らせたうてな? それとも、戦争に使われた陣地の跡?

 それは、馬や槍や弓が猛威を振るった時代だったのだろうか。

 だが、歩を鈍らせるほどではない。背負った荷物は大重量だが、野生に生きてきたゾーニャはさしたる苦労もせず坂を上り切る。


 眼前には、なだらかな斜面が広がり、またずっと曠野が続いている。


 違和感。


 視界の端。線路とは逆方向、右手側。


 光った。

 ゾーニャは歩を止めた。


 こうべを巡らす。遠くで影が蠢いている。狙撃手がよくそうするように、頭の中の物差しで距離を測る。並の視力ならば朧な人影にしか見えぬそれを、ゾーニャの優れた視力と分解能は観察する。複数人いる。さすがに細部は見て取れぬが、人影たちが慌ただしく動きを見せ、なにかをかまえるのがわかった。

 丘を警戒していたらしき彼らのほうが、一寸早くゾーニャたちに気が付いていたのだ。


 朝を終えた太陽は、人影たちと相対するように天に昇りつつあり、地表に光を投げかけている。

 ならば。


 いまのは、双眼鏡のレンズに生じた反射光だ。


 ゾーニャの背嚢に、誰かがぶつかる。自分の頭頂部より二〇センチほど低い場所に生じた、むぎゅ、という背丈の感覚からするとヴィカだろう。その音は、ひどく間が抜けていた。


「人の進路を塞いで止まるのではないぞ」


 不満の言葉は聞こえていたが理解している余裕はなかった。


 ゾーニャは、全身が総毛立つ。筋肉の繊維ひとつひとつがぴりぴりと痺れた。遠くを見ていた目が、緊迫に瞳孔が開くのを自分ですら感じる。咄嗟に背後に手を伸ばし、ヴィカが首から下げていた日本製の双眼鏡を借り出す。犬の手綱のように首ごと全身を引っ張られ、ヴィカが変な声をあげたが無視。


 最大望遠で双眼鏡の接眼レンズに両目を当てる。


 下士官だろう。双眼鏡を覗く人影が指示する傍ら。長く、突き出た槍のようなシルエット。ライフルよりも大型の火器。人影は長大な銃身をもうひとりの肩に乗せ、姿勢を安定させようとしているように思えた。曠野や草原など開けた場所での移動中の緊急射撃によく使われる、見間違うはずのないあの依託射撃方法は。

 確信が危険を確実視する。まさか、あんなものが旧満州にあるなんて。


 もはや是非もなし。彼らは、発砲しようとしている。


「ヴィカ」


 後ろから来て、丘を越えようとしたふたりに声をかける。片手をあげて静止させようとする。


「なんじゃ――」


 ヴィカが言いかける。何かが飛来し、地面を叩き土埃を立てた。ライフルによる射撃だ。ヴィカも攻撃に気が付き、口を閉ざす。ゾーニャが視線を注いでいたのとは別の射手が咄嗟に撃ったのだろうが、この一撃はお世辞にも筋がいいとは言えず、だいぶ手前に着弾している。彼我の距離もかなり離れているし、彼らの腕では当てられまい。

 だがゾーニャが描いた脅威の相関図、その最上位に位置するのは。


「MG34だ」


 双眼鏡を手放す。ヴィカの答えを待たず、ゾーニャは右手で彼女を腕ごと引き摺り倒す。地形を盾にすべく、丘の影へと身を伏せる。もう片方の手も、確実に掴んだはずだった。


 幼い娘が、ゾーニャに心を開いていないということを、忘れていなければ。


 指先が肌に触れると、恐れ慄くように身が捩られ、ちいさな手が引っこめられた。ゾーニャの伸ばした左手は、手首を掴んでしかし滑って離れた。

 流れる視界のなかで、呆然と佇むユズ。ゾーニャが触れた皮膚を、火傷でもしたように押さえている。


 大気がはじけた音がする。銃弾の飛来音。誰かの叫びが、けたたましい音に遮られる。


 着弾の痕跡を示す土煙があがる。ゾーニャたち目掛け、蛇のように斜面を駆け上がってくる。連射しながら狙いをつけているのだ。一発だけでも人体に致命傷を与えるのに充分な威力の弾が向かってくる。

 それが、奔流のように。


 かつてゾーニャの仲間たちを葦のように切り払った、死神の鎌。ドイツ製機関銃マシーネン・ゲヴェーア34の金切り声が満州に轟き渡る。

 真紅の、そして熱い飛沫がゾーニャの頬を濡らして滴った。

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