第17話 この手を離さないで

 SSTR-1短波無線送受信機は、第二次世界大戦中に戦略事務局OSSが生んだ数々の奇々怪々なスパイ用アイテムのなかでも、傑作のひとつといって過言ではない。もっと後の年には小型で、持ち運びがしやすく、目立たない後継品が登場したが、古くなってなお変わらぬ優位性を保っていた。


 中国に運びこむのは、苦もなかった。機材すべてを合わせてもごく普通のスーツケースに偽装できるほどコンパクトに収まるのだ。

 電源ユニットと予備部品、スーパーヘテロダイン方式の受信機と、無線電信方式の送信機の四つのモジュールからなるこの装置は、一八五〇キロに及ぶ広範囲の通達距離を誇り、さらには電源の種類を問わない汎用性を持つ。通常の電源に繋ぐのはもちろん、手動で発電することもできるし、火力式熱電気発電により炊爨中の飯盒の熱量を電源とすることさえ可能なのだ。

 大戦を支えた性能はいささかも衰えていない。


 スチュアートは軍曹たちが用意した部屋の一室に陣取り、大きな頭を拷問具のように締め付けていたヘッドホンを外す。今日は短波通信に影響する高空の電子密度が安定しているのか、無線機の感度は良好だ。

 機械の通電音が消え、ごくかすかに部屋の空気を震わせ消える。音叉のような共鳴音だった。

 誰も言葉を発さず、スチュアートの無線通信を見守っていた。階下の飯屋は、静かなものだった。一行のなかでは一番目立たない、現地人としても通じる朝鮮系の伍長が昼間に覗いてた来たようすでは、開店休業状態で閑古鳥が鳴いているらしかった。


 奉天とはいえ、大通りから外れた区画にあるこの場所は人通りもまばらだった。国共内戦の影響かどうかは判断がつかないが。


 どうであれ、スチュアートにとっては好都合だった。


「それで、支局はなんと?」


 ホーロー製のカップに淹れた中国茶をもてあそんでいた軍曹が尋ねる。すっかり冷めきり、湯気はとうに消え失せている。緑灰色をした雑種茶は口に合わなかったのか、一口飲んだだけだった。戦時中に占領下のフランスで飲んだ、チコリの根を焙煎した代用コーヒーとどちらがまずいのだろうかとスチュアートは考える。


 あれは、苦みがえぐかった。


 自嘲する。代用コーヒーの味は苦笑とともに思い出になったが、今の職務は当時となんら変わりがなかった。自分はいつまで、この仕事を続けるのだろうか。

 言うまでもない。人生が破綻するまでだ。


 手元に視線を落とす。受信した暗号文を復号したメッセージを見る。

 さて。どう動くべきか。


「ときに伍長」

「なんです」

「国民党の監視員はどうだね?」

「角の建物。正面入口に人影は現れないですが、セオリー通り裏口から出入りしてるんでしょう。三人一組です」


 目立たぬようそっと窓辺に立ち、通りを監視していた伍長が答える。

 敵ではないが、味方ともいいかねる国民党を警戒しているのだ。


「近い夜に、航空便が届く予定なのだが。スチンソン軽飛行機が荷物を運んできてくれる。目立たず見咎められず、こっそりと受け取りたいのだが、可能かね?」

「やれるでしょう」


 伍長は陰気な男だが、よく通る声をしていた。耳に心地良いバリトン。寡黙ではあるが、意外なことに口下手ではなく、淀みなく話すのを信条としている。


「現在、中国共産党と国民革命軍は日本人難民帰還のために一時休戦中です。小競り合いは続いてますが、大規模な戦闘は控えている。この機会に国民党は東北輔車団トンペイフゥーチゥーァツァンを叩くのに熱中しています」

「東北輔車団? 聞いた名だが、詳しくは知らんね」

「野に下った元満州国軍。満人を中心に、現地人で構成された部隊です。実際には関東軍の下請けというか。この組織の一部隊が、ソ連侵攻の混乱に乗じお目付け役の日本人士官を殺害して軍を離脱しました。戦後は同じ穴のムジナをあつめ団を名乗っていますが、ま、実態は野盗まがいの軍人くずれ集団といったところですな。大陸東北部を荒らしまわっているので、国民党としても放ってはおけない。最前線に張り付かせていた部隊を回してでも、東北輔車団を叩き潰すことにしたようです。噂じゃ、共産党軍が静観してるのをいいことに北部まで出向いて掃討してるとか。ですので、我々の監視に回している人数はそんなに多くはないでしょう。三人程度、かんたんに出し抜けます」


 伍長の説明にスチュアートは頷いた。

 不意に言葉がつがれる。


「あの人たちが。静かに、いなくなってくれればいいの?」


 限りなく透明に近い声音で、彼女が問うた。たしかに彼女なら、人間の二人や三人、文字通り消せるだろう。息ひとつ乱さずに、眉を跳ね上げさせることもなしに。かつてドイツの若者たちを幾人も消去したように。

 しかし、スチュアートは首を縦に振らなかった。


「その必要はないよ」


 彼女に視線を移す。自分がヨーロッパから連れてきた少女を、灰色の瞳で見る。運命が、出会った人間が違えば、鉄火場にいずにすんだかもしれない娘に。

 リリアナ・シェラーは、銀糸の髪の養女は、変わらずそこにいた。椅子にすわり、じっとスチュアートを見ている。心が悼んだ。彼女が宝石色の視線を注いでいるのは現在ではない。いつだって己の内面を見ているのだ。一九四四年、六月。勝利を目前としたあの時代に、永遠に止まってしまったままの時間を。

 

 無慈悲なナチス・ドイツが擁する軍情報部アプヴェーア親衛隊情報部ジッヒャーハイツディーンストとしのぎを削り、ときには同盟国ソビエトに黙ったまま彼らの大切な暗号帳をザクセンで手中に収め暗号通信解読ヴェノナに道筋をつけた、無類の〝鏡の荒野〟の住人であるスチュアートですら心がざわついた。


 ごく近い未来。また彼女を、送り出さねばならない現実があった。手を離せば溶け消えてしまいそうな、幻じみた少女を。

 彼女は再び死を重ねるのだろう。自らに死が跳ね返るまで、密かに秘めやかに希いながら。


 左手で髭を触る。考え事をするときの癖だった。


「では、準備をするとしよう。近い夜に、ここを出る」


 懊悩を腹の底深くに隠したまま、何食わぬ顔でスチュアートは告げた。



★ ☆ ★ ☆ ★


 いくばくか経ち。

 荒れた道を行くフォード車は、サスペンションがへたっているのか、うねりを踏みつけると車体が跳ね上がった。


 ヘッドライトは付けていない。車通りが皆無の曠野でライトを点ければ、サーチライトのようにどこまでも光芒が伸びていく。わざわざ目立つ必要はないからだ。今宵は雲がでているが、群れた水蒸気のささやかな抵抗に過ぎなかった。天候は良い。見事な満月ウルフムーンの輝きが薄雲を貫通し、月明かりのなかを軽飛行機は飛べるだろう。地上をひた走るスチュアートたちにとっても十分な道行きだった。

 ハンドルを握る伍長に、ナビゲーター役の軍曹が指示をする。今は亡き満州国が発行した地図を頼りに、〝航空便〟が届く座標に進んでいく。


 郊外をしばらく走っていると、伍長が舌打ちした。悪態混じりにブレーキを踏む。慣性に揺られ、体重の軽いリリアナが座席から浮きあがる。スチュアートは左手で彼女を支えてやった。肌に触れたのは、サテンのようにきめ細やかな触感。


「大尉は、いつだって紳士的」


 抑揚のない、朴訥な言葉。スチュアートはただ頷く。

 後部座席から軍曹に尋ねる。


「どうかしたのかね?」

「倒木です」


 巨漢の軍曹は、体に見合った大きさで不満げに鼻を鳴らす。

 座席の陰から覗くと、道の先に、たしかに倒木があった。宵闇に紛れた洞だらけの木は影そのもので、ヘッドライトを消していたので発見が遅れたらしかった。無限軌道を備えた車両ならば強引に踏み越えられる太さだが、普通自動車では乗り上げたならば立ち往生してしまうだろう。

 しかし、問題はない。道から外れて迂回すればそれですむ。


「いったんバックして方向転換を」


 軍曹が言いかけ、ふいに口をつぐむ。タイヤが固いものを踏みつけた感覚がし、車体がかしぐ。

 パンクだ。不自然なほどに唐突な。


「なにが起こって」


 言葉は最後まで続かなかった。リリアナの静かな、だが確信を持った囁きが遮ったからだ。


「囲まれてる。前に四人、うしろに二人」


 スチュアートは唇を結ぶ。自分も、前席のふたりも気が付いていなかった。ただリリアナの明敏な感覚だけが、襲撃者を察知していた。

 何者だ。今夜の行動がどこからか漏れていた? 最初に危惧したのは情報漏洩。だが、このやり口はいささかスマートさを欠いているとも感じる。


 人影が、木陰から這い出てきていた。指摘通り、前方に四人、後方に二人。包囲するように陣取っている。月明かりでも彼らが無精髭を生やし、やつれて萎びた男たちであるのがわかった。

 空気が漏れたタイヤで強引に突破すべきか、伍長は判断しかねたようだった。


 ツルハシや鋲を打った棍棒が武装の過半だが、うち二人は旧式のライフルをかまえていたからだ。がたつきながら走れば、追撃は避けられまい。二挺のライフルは脅しの道具でないことを示すように使い込まれた形跡があった。

 三十年式小銃。アリサカ・ライフルと呼ばれるもののうち、もっとも古く前世紀の日本軍が開発した火器だ。


 彼らは飢えているがそのぶん剣呑で、ただならぬ気配を放っていた。


 スチュアートは中国語の普通話のレクチャーを受けた程度だ。地方語や、少数民族の言語はまるで知らない。男たちは理解できない叫びをあげていた。だが、友好的とは言い難い雰囲気だけはよくわかる。


「満人の言葉です。手を挙げて、車から降りろ。まずは食いものを。車と金目のものも寄越せ、妙な動きをすれば撃つ。そう言ってます」


 伍長が枯れた声で通訳する。


 スチュアートはため息をついた。情報漏洩は杞憂か。国民党の監視員を撒いて出発したのだが、別のトラブルに巻き込まれるとは。襲ってきた一団は統率もろくにとれていないし、武装も貧しいものだ。おそらく国民軍でも共産党軍でもあるまい。戦前に満州を跋扈した馬賊ですらないだろう。

 食い詰めた野盗だろうか。倒木も彼らの仕業か。


 伍長がスチュアートの想像を捕捉する。


「アリサカ・ライフルを持った男は、擦り切れてますが、満州国軍の軍服を着てます。こいつら、くだんの東北輔車団の一派かもしれません。おそらくは、国民革命軍にさんざんに打ち負かされて逃げてきた」


 嘆息する。規律を失った軍隊は、賊と変わらんということか。それは洋の東西を問わず同じなのだろう。


 筆舌に尽くしがたい困難を幾多も乗り越えてきたスチュアートにとって、敗残兵程度は恐るるに足らない。野良犬に吠え掛かられたようなものだ。いやむしろ、ゲシュタポに飼われた犬のほうが忠誠心に富むぶん、よほど厄介だ。追いやられた獣どもに情はわかなかった。

 左脇に手を伸ばす。目立たぬそこには、ブレイク・アウェイスタイルのホルスターが吊ってある。ヨーロッパで窮地を何度も救われた、三二口径のコルト・オートが鎮座している。


 射撃の腕は衰えていないはずだ。兵士もスパイも最後にものをいうのは銃なのだ。


 スチュアートの行為を見咎めたのか、棍棒を持った男が怒鳴る。まずはそいつを射殺して――。


 無骨な右手を、細い指先が押し留めた。月光に照らされ、青白い肌が仄かに輝いている。

 髪と同じ、白銀の色彩を帯びて。


「ねえ大尉」


 そっと、リリアナが告げる。大戦中からいささかも変わらぬ美声。その可憐な音が転がる舌には勇気も憎悪も猛りもなく、ただ空虚さだけがあった。

 哀れみか、うしろめたさか、はたまた懺悔か。度し難い感情が沸き上がった。スチュアートは唇を湿らせる――私は、彼女になにを与え、なにを奪うことになったのだろうか。

 だがリリアナは、とあるスパイ監督官マスターの罪の告白を一時も許さなかった。


「命令して。私に。そうすれば、撃てるから」


 ぎょっとしたように軍曹が振り返った。なんと正しき資質を備えた男なのだろう、スチュアートは年若い彼を評する。黒々とした瞳が、リリアナの身を案じるように見開かれている。

「待つんだ」軍曹が臍を噛む「君が危険を冒す必要は――」


 彼女は聞いていなかった。スチュアートはリリアナの姿を見なかった。幾度となく命じた言葉を、また発せねばならない。死中に活を求めろと言えば聞こえはいいが、単に命を散らせと言うだけだ。そう若者たちに、なんども命じてきた。

 そして誰もが死に、生き残ったのはリリアナだけ。


 けっきょくのところ、彼女はまた生き残るだろう。

 ハンドガンを手に取る代わりに、中折れ帽を目深に被り直す。鉄面皮のなかですら、唯一感情を現わさずにはいられない双眼を隠すために。


 息を漏らすように呟く。


皆殺しにしたまえノー・ブリズナーズ

了解、承諾ラージャ、ウィルコウ


 気が付けば、リリアナは車外にいた。敵味方の誰もが、ドアが開いたことすら察知できなかった。まるで幽霊のように車体をすり抜けていた。


 男たちの反応は、遅きに失した。


 彼女の右手にはライフル。いまだ使っているのか、呟かずにはいられないが、それとてリリアナをスチュアートが連れ回している理由だ。列車のなかでは引いたカートにしまい、わざわざイギリスから持ち込んだのだ。その希少なライフルは、時代が少女に与えた唯一無二のもの。彼女の愛銃。戦争が生んだ徒花。着ぶくれした外観はおよそライフルとは思えない。

 リー・エンフィールド・ライフルの機関部と、切断されたトンプソン・サブマシンガンの銃身と、四五口径コルト・オートの弾倉が組み合わさった、いびつで精緻で、奇怪で奇形で奇抜な合成獣キメラ


 デリーズル・コマンドゥ・カービン。


 暗殺者の火器だ。


 リリアナの右手が踊る。人差し指でトリガーを引き、ついで中指へと移行される。目で追うのが困難な速度でトリガーとボルト・レバーが操作される。妙なる技に昇華された早撃ち。十秒と少しで全弾撃ち尽くす。手動装填だというのに、ほぼ機関銃並みの発射速度だった。発砲炎は夜の闇のなかですら生じず、ただアルミニウム製の一体型減音器サイレンサーで減衰された風切り音が喘鳴めいて聞こえただけだ。


 死は無音で忍び寄り、血生臭さをもって顕現した。


 アリサカ・ライフルをかまえた男を含む四人が、亜音速弾サブソニック弾に貫かれた。つぎつぎに倒れ伏す。いずれも即死だった。音もなく死んだ仲間たちの身にどんな災厄が襲い掛かったか、理解できず硬直する後方の二人。彼らもまた捕食される存在にすぎない。リリアナは猫のように獲物に寄り添った。

 月明かりを刃が切り裂いた。反射を抑えるための黒い刀身だった。左手に把持するのはスマシェット。幅広の刃身をもつそれは、マチェットとボロ・ナイフの中間のような武器で、重量と振り抜きの速度を乗算しドイツ兵の鉄兜を苦も無く叩き割ってきた。


 悲鳴をあげる間も与えない。頭蓋が砕ける音が、二度、夜に響く。


「私を、褒めて。もうそうしてくれるのは、大尉だけだから」


 血の手形がリア・ウィンドウにべったりと張り付いた。可憐な花びらを思わせて。まるで呪詛じみた、底冷えする囁きすら追従させながら。

 希代の殺し屋。デリーズル・カービンと、二挺の銃剣付きコルト45オート。恋でもドレスでも化粧品でもなく、四五口径弾に彩られた人生。


 それがリリアナ・シェラーだ。


 彼女を殺せた者は、ヨーロッパにはいなかった。

 では、かつて満州と呼ばれた地には、いるのだろうか。自分がリリアナの思いが成就されることを願っているのか、それとも、永遠に生き延びてほしいと卑しくも感じているのかは――生きてくれれば若者たちを死なせた罪から一歩だけ遠ざかれる――スチュアートにも判断がつかなかった。

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