第四章 千々に乱れて

第18話 ヤクートの血族(上)

 狙撃陣地キツネ穴から見上げると、灰色に沈んだ空を背景に機関銃弾が翔けていった。曳光弾の赤い輝きが、夜空に落ちる星々の奔流を思わせる。

 過去の記憶。ただ銃弾だけが赤い、色褪せた時間が流れている。

 一九四四年かそこらの、ごくありふれた戦場の光景。たぶん、そんな感じだ。


 軽機関銃代わりに乱射されるMG34の援護を受けながら、ナチス・ドイツの歩兵たちが前進しつつある。数十分とかからずに、彼らはふたりの眼前に立つだろう。


 位置が露見したふたりは、追い詰められつつあった。


「ねえ、知ってる? フェーディシュカ」


 うずくまり、顔面を両手で覆ったクララが傍らで震えている。指と指の狭間からはただ揺れる瞳が覗いていた。まるで顔を隠せば、心と身体に鎧をまとえるとでもいうように。誰にも我が身を傷つけられないとでも信じるように。


「ソ連邦英雄の狙撃手、タチアナ・バランジナはレイプされたあとに殺されたんだって」

「知ってるよ」

「かわいそうだと思わない?」


 愛用のモシン・ナガンに新しい弾丸を装填しながらフェオドーラは「ああ」とも「うん」とも聞こえるように曖昧に答える。自分の作業に集中し、相棒の顔は見ていなかった。迫りつつある歩兵たちを迎撃しなければならないのだ、狙撃兵の最期について相棒と問答をしている猶予はない。

 死を身近に感じたことがないといえば、嘘にはなるけれど。


「わたしは、タチアナみたいになりたくない。トカレフ拳銃トトシャがあれば、七発撃って七人のドイツ兵フリッツを殺して。そのあと薬室に残った一発を、自分に撃てるのに」


 熱に浮わついているように、あるいは躁病を患っているように上ずった声。今にもタガが外れそうな音色。

 固定弾倉に五発押し込んで、ようやくフェオドーラは相棒に顔を向けた。キツネ穴のなかでは、誰も彼もが道路に落ちている軍手のような色をしている。フェオドーラも例外なく土と汗と煙に汚れている。


 でも、クララはとびきりの美人だ。畔に咲いた一輪の花のように艶やかで、香しく、儚げで。汚れた軍手のようなフェオドーラとちがい、どこにいても目を惹く少女だ。

 いたぶれば、きっと良い声で啼いてくれる。その囀りは雲雀よりも美しいだろう。彼女の危惧はもっともだ。


「わたしは、そうはなりたくない――ううん、ならないんだ。そうはならないんだよ、フェーディシュカ。だってわたしたちは」


 ソ連の女性狙撃手は必ず手榴弾を二個、持ち歩く。一個はできるだけたくさんのドイツ兵が死にますようにと祈りながら放り投げ、叶わなければ、もう一個は自分に使うからだ。

 不幸な結末をむかえないように。


 視線を合わせてゾーニャは問う。


「死ぬのがいやなんじゃなかったの?」

「死ぬのはいや。でも、そこにいたるまでの苦痛はもっといや」

「……たしかにね」

 

 見上げれば、機関銃の弾丸が宙を翔けている。

 曳光弾が束の間の蝋燭のように輝き、それが人に触れふっと消えるとき、命の灯もまた消失することをフェオドーラは知っている。よく知っているのだ。

 でも、怖くはない。

 スラヴ人のクララと違い、フェオドーラは違う視点から世界を見ている。光を帯びた銃弾は恐ろしい物だが、この三層世界のどこでもない場所、別の世界アトゥン・ドイドゥに属し人に危険な霊魂ウエルではない。銃弾はしょせん、実体を持ち経験と技量で対処可能な物体だ。


 無表情のまま、フェオドーラは続ける。


「まあ、万事あたしに任せてくれていいよ。機関銃潰しは、得意なんだよね」


 機関銃の弾幕は猛烈だ。とても接近できたものではない――ようは、近付かなければいいのだ。


 これはヤクートサハ族の狩りではない。

 撃つのはけものクィールではなく、人間。だから、けものを人の世界オルト・ドイドゥにもたらす豊饒の女神アイーシットが遣い狩猟の主バイアナイに聖なる火をもって祝福儀礼アルグスは捧げない。

 ただ、引き金を絞るだけ。


 頭を上げ過ぎないように注意しながら、狙撃陣地からライフルをかまえ、スコープを覗き込む。MG34をスリングで肩から吊り下げた機関銃手に狙いを定めて――。


★ ☆ ★


 機関銃弾は丘を駆け上がり、狙いを外し、斜めに横切り無駄弾を宙にばら撒いた。


「ヴィカ!」


 戦場での記憶も、傍らにいた少女の悲壮な願いも、前進を押し留めるために何人の敵兵を撃ち殺しのかすら、意識の表層を流れていったきりになる。熱い血が頬に張り付き、それを拭うことすら忘れ、ゾーニャは冷静さをいっとき失い叫んでいた。


「……大丈夫じゃ。直撃はしておらん。そう騒ぐでない、弾に当たって跳ねた石がすっ飛んできただけじゃ」


 掠れてはいるが、たしかに彼女の声だ。自信に溢れ、気高く、孤高で、理想と矜持に生きる者特有の気難しい少女コサック。彼女が失われていないことにゾーニャは安堵する。

 なぜと問われても。だって、そうじゃないか。まだ約束は有効なのだから。


 掃射射撃は外れた。運用次第ではさまざまな用途に使用できる機関銃MG34は、三脚に固定し地面にしっかりと接地させ光学照準器を装着すれば飛行機すら撃墜できる射程と精度を持ってはいる。だが、さすがに戦友の肩を借りる依託射撃方法は精度が落ちる。だから狙いを外したのだ。

 そう頭ではわかっていても。


「傷口、深そうだけど」


 ゾーニャは唇を結ぶ。

 ヴィカは左腕から血を流している。肘まで真っ赤に濡れそぼっている。跳ねた石ころが、かなり深く上腕部を抉ったらしい。痛くないはずがない。彼女の怪我を見ようと近付くために、邪魔な荷物をすべて外す。しかし、ヴィカは視線でゾーニャを押し留めた。ゾーニャは無言のまま頷きを返すしかなかった。


 それがなんだか、ひどくもどかしかった。


 ヴィカは流れる血と傷を超然と無視し、立ち竦んでいるユズに言う。不運な一撃をもらったヴィカとは相反するように、立ったままのユズは奇跡的に怪我ひとつなかった。


「ユズ、そこは危ない。こっちへ」


 しいて務めて優しく言う。


 対応をヴィカに任せ、ゾーニャは機関銃の射手を警戒する。


 弾を撃ち尽くしたのか、それともトラブルが発生したのか。狙いを外してからの射撃はなかった。遠景で人影が機関銃に取り付き、わたわたと動き給弾部のカバーを開いていた。機械の腸捻転とでもいうべきか。連なった弾丸を連続供給し発射するための弾帯が捻じれ、給弾不良を起こしているようだ。機関銃の再射撃準備のために場違いな沈黙が訪れる。


 反撃するなら今が最大のチャンスではある。


 中断された機関銃に代わって、散発的な銃声がする。ライフルによる射撃。歩兵たちがそれぞれを援護しながら、前進してくる。いきなり出くわしたゾーニャたちを捕らえたいのか、殺したいのかは不明だが、平和的にとはいかないことだけは事実だった。


 ずいぶんと殺気立っている。いやこの浮足立った射撃は、殺気立つというよりも怯えだろうか。明らかに冷静さを欠いている。それに。ゾーニャは疑問を覚える。あの歩兵たちが使うライフル。

 一発撃ってからの、次弾発射の間隔が短い。


 今はまだ距離という防壁が守ってくれてはいる。このまま反撃せずに座していれば、それもいずれ失われる。


 まずは厄介な機関銃を沈黙させねば。ゾーニャは狙撃を決断する。

 しかし、状況を動かしたのは予期しない人物だった。


「ごめんなさい」


 もつれた舌から転がり出た言葉は、たしかにそう聞こえた。


 ユズは立ち竦んだまま、ゾーニャとヴィカを見下ろしている。両腕で自分自身を抱きしめて、全身が震えている。身体の奥底に渦を巻いた悪寒が顔を青ざめさせ、歯が耳障りに打ち鳴らされ、両目が揺れている。

 恐怖に怯えている。

 ユズは、ヴィカの再三の警告にも身を伏せようとしない。現実を見ていない。声が届いていない。突然の銃撃以上に、なにかに怯えている。

 もっともっと、遠く過去のものが、もうないはずのものが、見えてしまっているのだ。


 ゾーニャは悟った。ああ。この子もまた――古傷を負っている。体に、ではない。

 目の奥底に。記憶のなかに。心の内に。悲しいものを、ひどいものを、忘れられないものを、見てきたから。


 だから、機関銃の給弾不良という幸運を。狙撃の機会をゾーニャは失った。


 ゾーニャはユズと似たような反応を何度も目の当たりにしてきた。

 轟く銃声が掘り起こした、記憶の揺り戻し。かつて体験した恐怖に再び圧倒されている。不意に現れた過去という幽霊に、心と体を突き動かされようとしている。


 トラウマや心理的ショックからくる古傷を抉られた痛み。パニックの兆しだ。


 ごく近くに、ライフル弾が着弾する。はじけて散って、魂に溶けて混じって、もう分離できない音色。

 ユズはひときわ大きく慄いた。喋り方を学んだばかりの小鳥みたいに、同じ言葉を繰り返す。


「ごめんなさい」

「ユズ――」

「くる、そらから、ひこうきが。たくさんのたまをおとして」

「落ち着いて――」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ぜんぶ、ぼくがわるいんです! くるくるくる、ひこうきが、くる! ごめんなさい、おかあさん!!」


 それは、錆びたナイフで喉の奥から抉り出されたような悲鳴だった。


 泣き叫び洟を垂らし、混乱の最果てに達したユズが駆けだした。負傷したヴィカは反応が遅れた。リスのように素早い彼女もユズを捕まえられなかった。伸ばした指先が虚しく宙を掴む。ユズが斜面を下っていく。正体不明の歩兵たちも、ゾーニャたちも、誰もいない方向へと。

 視界のなかに映る、幽霊のいない方向へと。


 運動不足の子供とは思えないほどの速さで、どんどんと遠ざかっていく。


「ユズ!」


 つい先ほどとは冷静さの有無が逆になる。


 背嚢を捨て、傷ついた腕も気にせず起き上がろうとするヴィカ。彼女は周りを見ていない。銃撃の只中にいることを忘れている。

 ゾーニャはとびかかり、体重の差にものを言わせた。小柄な彼女に圧し掛かりひれ伏せさせる。ヴィカが踏み込もうとした地面がはぜた。どんという衝撃が重なった。地面がぐらぐらと揺れる。

 給弾不良を解消した機関銃の弾丸の嵐が、再び丘のてっぺんを薙ぎ払ったのだ。


 ユズを追いかけていれば直撃していた。機関銃の恐怖を冷静なヴィカならば理解して当然のはずなのに、彼女は体の下で激しく藻掻く。ゾーニャより一回りは小さな体なのに、かなりの力だった。いまだ止まらない血が、ヴィカだけでなくゾーニャの上半身をも赤く汚す。

 顎にがつんとした衝撃。口内にじわっと感じる鉄錆の味。歯で唇を切った。ヴィカの右手の甲で殴りつけられたのだ。ゾーニャはそれでも体を離さない。


「はなせ! はなさんか、ユズが行ってしまう!」

「落ち着きなよ」


 なんでそこまであの子を気にするのさ――痛む口内からは、心のなかとは疑問とは違った言葉が出た。殴られた恨み言を述べる気もおきなかった。今はそれどころではないから。はぜる地面に、巻きあがる土煙。着弾音とともに地形が削られていくのだ。狙いが最初の射撃よりも正確になっている。

 ヴィカの拳よりも危険な物が飛来してくるのだから、殴打ごときを気にしてはいられない。


「二人、ユズを追いかけるのが見えた。どう考えても子供だから、捕まえるつもりなんだ。ユズを殺すのなら、もう撃ってる」


 そう諭すと、ヴィカの抵抗が弱弱しくなった。嘘ではなかった。ヴィカを伏せさせたとき、影が二つ、隊伍を離れてユズが駆けだした方向に移動するのをゾーニャは確認していた。

 ヴィカと争っていても仕方がない。正体不明の射手たちを素早く退ければ、ゾーニャたちの脚の速さならユズには追い付ける。


 もっとも、雲霞のごとく押し寄せる弾幕をなんとかせねばならないのだが。

 機関銃の激しい着弾に、ライフルの発射音までも混ざり始めた。


「……ド素人どもめ。好き放題撃ちおって」


 ヴィカが毒づく。舌打ち混じりの台詞は、精彩を欠いてはいるが落ち着いたものになっていた。


 首肯する。たしかにそうだ。射手たちは出鱈目に撃ってくる。撃てる限りの速さで弾を垂れ流しにしている。


 猛烈な射撃だ。並の聴力では銃声が混じり合い、ひとつの濁流となって耳を劈くほどの。だがゾーニャの聴覚は、雪中を逃げる小動物の足音すら聞きつける。狐よりも明敏だ。銃弾の交響曲のなか、特定の音階を耳聡く聞きわけるのごく簡単だった。

 一定の間を置いて発射されるライフル弾。やはり、この間隔は。最後に、金属が跳ね飛ばされるような甲高い音が風に乗ってきた。


 弾丸の装填に使う、装填匡エン・ブロック・クリップが排出された音。


 ゾーニャが知るライフル、SVT‐40スヴェタとは違う。ガス・ピストンとボルト・キャリアーではなく、オペレーティング・ロットが直接関与して給弾が行われている。ロッド/アーム、フォロアーが複雑に絡まり合う機構だ。弾丸が尽きれば、オペレーティング・ロットがオートマチック拳銃のスライドのように後退したままホールド・オープン状態になる。

 つまりは甲高い金属音は、機関部が空っぽになり、板バネの力によりクリップが強制排出された音だ。


 おかげで、充分推測することはできた。


「ライフル、ライフルは。発射から再装填までの時間が短く、一定で、機械的だ。見る限り、射手がボルト・ハンドルを操作してる動きもなかった。つまりは、半自動の装填機構」


 自分の考えを口にするために、いちど息を呑む。


「たぶんM1ガーランド」


 零した台詞に、ヴィカが静止する。身体を重ねたままなので、逸る心音を直に感じる。

 彼女は結論を急くように密着したまま言葉を継ぐ。


「アメリカ軍の小銃じゃぞ。それに、ドイツ製のMG34じゃと言うておったな。先進的で、精密。どちらも一介の野盗や馬賊風情が運用できる火器ではないぞ」

「たぶんだけど――ううん、まちがいない。リュドミラ・パヴリチェンコが訪米したとき、シカゴ射撃協会で触ったレポートを読んだことがある。ウィーバー社のスコープがついてたやつ。いま撃ってきてるアレは、ぜったいに、M1ガーランドだ」

「諸外国入り混じった、ずいぶん雑駁な装備といえるの」

「心あたりは?」


 ヴィカがはすに見上げる。身動きし辛そうにもぞもぞする。どいてほしそうだった。ヴィカが完全に落ち着きを取り戻したと判断し、ゾーニャは身を離した。

 小動物のような彼女のちいさな体躯とあたたかな体温が、離れていく。


 言葉を続けようとしたヴィカは、眉間に皺を寄せた。傷口を眺めた。伏せった姿勢のまま取り出したナイフを巧みに扱い、袖を切り裂く。裂いた布を使い、右手と歯で傷口を縛り止血する。当て布はあっという間に血に濡れる。すぐに止まるとは思えないが、無駄な流血はいくらか防げそうだ。

 ゾーニャも、自分のライフルを準備しながらヴィカの言葉を待った。


「撃つのか?」

「撃ってきたのはあいつらだ。悪い?」

「いや……そうじゃな、たしかにそうじゃ」


 逡巡し、言い淀む。ヴィカも今回は止めなかった。


 彼らがいきなり攻撃してきた理由は不明だが、こちらを殺すつもりで撃ってきているのだ。たとえ誤解や誤認に基づいての攻撃だとしても、なし崩し的に戦いになったのだ、反撃を躊躇するつもりは微塵もない。

 数でも装備でもゾーニャたちは劣っているが、少なくとも、地形上では比較的マシだ。丘を陣取っている。高さがあれば広く視程もとれるし、地形が盾にもなってくれる。彼らは迫撃砲の類は持ってないらしく、ライフルと機関銃だけを使っている。地形を遮蔽にし丘向こうにいるこちら側への間接的な攻撃方法がないのだけは、幸いだった。


 わけがわからないが――身を守るのは必至なことだ。


 止血を終えると、ヴィカは背嚢に固定していたフェドロフ自動小銃を外しだす。左手は動かすだけで痛むのか、汗を額から滴らせ、始終歯を食いしばった表情をしている。

 ヴィカは彼らの正体についての推測をようやく口にした。


「やつらは、蒋介石の国民革命軍グオミィンヂュィンじゃ」

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