第19話 ヤクートの血族(中)
ヴィカが説明を続ける。
「国共内戦のもう一方の主役。かつてのドイツと中華民国は蜜月じゃった、機関銃は戦前の輸入品か、あるいは中国での現地生産品じゃろう。そして今のあやつらは、赤化を防ぎたいアメリカからの支援を受けているからの。チグハグな装備の説明がつく」
「国民党の軍隊? いま撃ってきてるあいつら、分隊に毛が生えたくらいの人数しかいないけど。なんであたしたちを襲うの?」
「わしが知るわけなかろ。ただ」
「なに?」
「北満は共産党の勢力圏内じゃ。日本人民間人の帰還のためにアメリカがハルピンに空路を使い使者を派遣し、仲介に入ったのがしばし前。帰還のために共産党と国民党が一時休戦中の今、ここにやつらがいるのは不自然じゃというのだけはわかる」
説明になっているようでなっていない推測だった。当然なんら事態は好転しないまま、ヴィカは黙った。
丘から顔を出せば、その瞬間に薙ぎ払われる。圧倒的な弾幕でもって国民革命軍らしき兵士たちは致死性の射撃を繰り返している。それに、機関銃の援護を受けながら歩兵たちも接近してきているはずだ。
可能ならばとんずらしたい。でも状況が許さない。ヴィカはユズを見捨てては逃げ出せない。
待っていてもジリ貧になる。いずれ追い込まれる。
さて。どうすべきか――ゾーニャは考えをまとめる。
以前ドイツ軍に追い詰められたときは、援軍が間に合った。圧倒的な火力支援のなか、冷静に機関銃を潰せた。今回は援護はなし。絶望的な状況だが、別に悲嘆に暮れるつもりもない。絶望は死んだあとでもできる。ヤクートは死んだあとにはすべてが小さい世界に逝く。別に消えて無くなるわけでもない。
恨みつらみはその時言える。
かといって、正面切っては戦えない。
ならば――搦め手を使おう。
ベルトに下げた革製の弾薬袋から、新たな弾丸を取り出す。通常使用の
フロアプレートを開いて弾を固定弾倉から吐き出す。ボルトを操作し装填済みの軽量弾も外した。代わりに徹甲弾を押し込みながらヴィカに話しかける。
「ヴィカは、ユズを追いかけたいんだよね?」
「そうしたいのはやまやまじゃが。しかし、こう銃弾が降り注いでおっては丘を下ることもできんぞ」
「あたしがなんとかすると言ったら?」
ヴィカは匍匐で移動し位置を変え、果敢にもフェドロフ自動小銃で反撃しようと足掻いていた。歩兵たちを押し止めようと必死だ。だが弾幕が激しく、頭すらろくにあげられていない。
銃弾が篠突く雨の如く降り注ぐ。
「できるのか?」
「できると言ったら?」
はたと見つめ合うふたり。
ヴィカが見つめ、口を半ば開き、いったん閉じる。想像もつかないと言いたげだ。
ゾーニャは口の端を持ち上げる。頬にも達しない、口の端だけの幽かで控えめな笑み。だが、自信はこの上なくあった。自身の技量は過信していないつもりだ。
職人ができると言ったら、できるものなのだ。相棒の観測手とともに、この類の任務は幾度もこなしてきたからだ。
「あたしの目測だと、機関銃まで六五〇メートルぐらい離れてる。べつに遠い距離じゃない。あたしなら、やれる」
ヴィカが目をしばたたく。
「ぐらい? おぬし、双眼鏡で見たじゃろ」
そこを突っ込むのかい。疑問にゾーニャは口をつぐむ。内心傷つけられた気さえする。さして重要でないところに注意をむけないでほしい。
「双眼鏡の、右の凸レンズ。
秘密を覗き込まれた感覚。ゾーニャは恥た。以前は、そんなふうに感じなかったというのに。なぜなら、あの戦争は、どんな秘密すらもわかちあわねば生き残れなかったから。
か細く答える。
「できないんだよ」
「なにがじゃ」
「あたし、距離の計算ができないんだ。狙撃手のくせにね。もちろん、経験則からざっとはわかるよ。ただ、掛けたり割ったり、高低差のついた射撃で、見かけの距離から実際の距離を算出するとか、そういうの、ぜんぜんわからないんだ。むかしは、ぜんぶ観測手任せだったから」
なにせ、国家によるいわばソビエト化がヤクートの地を覆い始めたのは一九三〇年も末のこと。教育もまたしかりだ。それまでは生きるのに忙しく、学校なんて幼少のころは知りもしなかった。
ゾーニャは無学だ。ソビエトの農村にある七年制の準中学校はおろかクソ田舎にある四年制の初等学校もまっとうに卒業していない。だから、狙撃手にとって必須なはずの、正確な距離の計算ができない。計算してくれる観測手がいないときは、いつも記憶と感覚に頼り撃ってきた。
「おぬし……」
告白に当惑したのだろう、ヴィカが言葉に詰まった。
ゾーニャは、戦時中ですら空いた時間に政治委員から基礎的な計算を、四年生がらくらく解く三年生の計算すら教えを請うほど、数字に理解がなかった。ついでに言えばロシア語の複雑な読み書きも教えてもらったくらいだ。
自嘲と自信が混ざりあったあいまいな笑みを浮かべる。
「でも、まあ。任せてくれて、いいんだよ」
狙撃とは数学ではある。だがそれ以上に経験と才能の研鑽の帰結だ。だから、やれる。使えそうな記憶を引っ張り出す。発射方向と発砲音、着弾までの時間差から機関銃の位置は、遭遇時と変化していないと判断。
太陽の状況は――順光。ゾーニャは背面に太陽をしょっていた。視界にあったのは、ただっ広い曠野。人間の感覚器はいいかげんなモノなので、こういった光源での環境下では目標までの距離を実際より近く判断しがちだ。逆光なら当然、遠くに見える。
だから、ただの歩兵は射撃を外す。
もちろん、ゾーニャは間違えない。
零点規正よりだいぶ間遠。向かい風は強く、やや左側から吹いている。弾種が違えば運動エネルギーの減衰は異なるとはいえ、この状況下では着弾点が照準点よりかなり下になる。
過去を思い出す。モスクワにあった女子中央狙撃学校の二期生だった以前の相棒は狙撃兵手帳に神経質なまでの几帳面さで射撃記録を残していたし、ゾーニャにも強く勧めもしたけれど、当のゾーニャは狙撃のことならたいがいは覚えている。
脳みそがじゃない、指先を始めとする全身を記憶媒介と化して、だ。
切った唇を舐め上げて、自分の血を味わう。
深さの差はあれど。今でも首筋に痕が残る斬り傷を含めて、ヴィカに流血させられたのはこれで二度目だ。変幻自在に刃を閃かせる彼女と戦ったのに比べれば、今回の狙撃に関して言えることはひとつ。
「機関銃潰しは、馴れてるんだ」
小さく、したたかに。間断なく飛来する弾丸の音に負けぬだけの声量で宣言してみせる。
「あたしが機関銃をなんとかしたら、すぐにヴィカはユズを追いかけて。残りの兵士もあたしが引きつける」
「しかし、それではお主が。衆寡不敵、寡戦になれば単純に不利じゃぞ。ひとりでは戦いきれぬ」
「迷えば、ユズはどんどん遠くに行く。そのうち捕まっちゃうかも。追うのと戦うの、あたしとヴィカ、どっちかがどちらかをやるしかないじゃん」
「そうではあるが」
「で、あたしがあいつらを受け持っただけ」
ヴィカは首肯しない。まだ受け入れない。
唇を噛む。
「お主ひとりを残していけと言うのか」
「じゃあ、ヴィカが機関銃をどうにかできるの?」
「それは、だが、たしかに」
言い淀む。ヴィカが眉を下げる。
「……無理じゃ」
逡巡する一方だったヴィカを理屈で黙らせた。ここまでくれば、彼女はかってに納得する。追い打ちで覚悟を決めさせるためゾーニャも口を閉ざす。無言の圧力というやつだ。途切れのない銃声なぞこのさい関係なかった。
一瞬だが永遠に続くかと錯覚しかねない、重い沈黙。
その末に。
「……わかった。すまぬ」
ヴィカが、ようやく頭をさげる。
彼女が目を伏せ声を震わせ頼んでくるのは、これで二回目。なかなか、良い気分だ。なんとなれば、気高い鷲をとまり木に繋ぐのにも似ている。
「大丈夫、心配無用」
答えてゾーニャは息を吸って吐く。ここからが、大事だ。
「じゃあね、その前に連携しようか。あたしの背嚢から、傘を取り出して」
「傘? 傘なんぞ何に使うんじゃ」
「いつか使うかも、あたしは昨日そう言ったよね。今がそのときなんだ」
得意げなゾーニャに訝し気な表情をするヴィカ。だが、策ありと見なしたのだろう。言われたとおりにする。投げ捨てたゾーニャの背嚢からぶら下がっていた、みすぼらしい傘の残骸を引っ張り出した。失くしても惜しくない、ミンスクで拾ったいちばんボロいやつだ。
機関銃弾が飛来する危機的状況にもかかわらず、ヴィカがなるほどなと呟く。判断に迷う精神状態を脱し、ようやく、いつもの快活さを取り戻しつつあるようだ。
「おぬしの考えがわかったぞ」
意図を組んだ彼女は、傘の骨組みに冬服を引っ掛け、帽子を先端に乗せる。むにむにと形を整える。これで、遠目には人影に見えないこともないだろう。特に、銃撃の着弾と硝煙がけぶる戦場では。
この手の囮を、ドイツ兵はよく使った。赤軍兵士は間抜けな奴も仕事熱心な奴も、引っかかって位置がばれて死んだ。真似したところで今更ドイツ人は著作権を申し立てはすまい。
「名付けて
それはゾーニャの知っている祭りではない。ヤクートが
ロシアでスラヴ人が冬の終わりと春の始まりを祝う祭事が、マースレニツァ祭だ。本当は一号にも祭りに使われる人形のように顔をつけ、
視線を合わせ、タイミングを合わせ、頷く。ヴィカは負傷した左腕をものともせず、両腕で案山子を高く掲げた。
彼らは引っかかった。不用意に頭を出した人影に照準が変更され、機関銃が薙射される。さしものヴィカも身を強張らせる。熱い飛礫が繰り出され、彼女の頭上で気の抜けた姿を曝す案山子は、瞬時に引き裂かれた。
狙いが相棒の案山子に向く前から、ゾーニャは行動していた。
弾幕に曝され、砕け、でこぼこだらけになった丘から顔を出す。全身の体重を地面に分散し、ごく自然な体勢で臨む。銃床を肩付けし、銃身は雑嚢代わりのガスマスクケースを下敷きにし重量を依託する。ライフルをかまえ、利き目でスコープを覗き込む。
朧な人影たちがレンズのなかで像をなす。MG34を操作する一団が見える。
思考する。だが迷いはない。照準にかけられる時間はわずかだが、慌てて引き金をガク引きするようなヘマはしない。
そのとき案山子がバラバラになり、いっとき攻撃が止んだ。研ぎ澄まされた集中力のなか、残骸がやけにゆっくりと落着していった。自らの発砲炎と着弾煙で標的がよく見えない機関銃手に代わり、傍らで双眼鏡を覗いてた指揮官らしき男が新たな標的を探し出す、その寸暇。
ごくわずか、鼓動が二跳ねする間。心音と心音、その終わりと始まりが重なることのない短い時間に決断する。
狙撃手という呼び名は、自身の鼓動に耳を傾けることができる者のみに許された証なのだ。
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