第20話 ヤクートの血族(下)
ゾーニャはモシン・ナガンの引き金を絞り切った。
薬室に納まっていた一発目が雷管を蹴飛ばされる。肩に反動。弾頭が薬莢の拘束から解き放たれ、銃口に炎を蹴立て飛んでいく。跳ね上がった銃身が戻り、目敏い視力が飛翔の結末を追う。到達時間一秒強。弾丸は機関銃手の前方、依託射撃のために肩を貸していた男の上半身へと吸い込まれる。
違和感。手応えが妙だ。
完璧に致命的部位を捉えているが、弾丸の下降が予想より速い。高低差の射角への影響も風の強さも読み間違っていない。にもかかわらず、着弾点がやや右下だ。
距離を見誤っている? 頭のなかにあるものさし六つと半。間違えてはいないはず。
頬を微風が爽やかに撫でつける。
そうこれは。
丘の向こう側は、かなり渇いている。
大地が含んだ水気が違うのか。それに照りつけた太陽と丘に向かい吹き付ける風が、大気の湿り気を悉く追い払ったのだろう。湿度が下がり大気密度が濃くなり、そのぶん弾丸にかかる空気抵抗が増大し偏移がわずかに大きくなったのだ。
ゾーニャが悟った瞬間、男が電撃に撃たれたように痙攣する。赤い飛沫が散り、体躯がくずおれ始め。
必然的に、機関銃の銃口がずり落ちる。支点を失い狙いが狂い、銃口が放縦に暴れまわる。なにもない地面に弾丸が撒き散らされる。機関銃手はコントロールを取り戻そうと躍起だ。撃たれた男が項垂れ、がっくりと膝をつく。射撃もいっとき停止していた。機関銃が先端部からななめにかしぎ、前方への投影面積が広がり、ドイツの金属精密加工技術を駆使し設計された複雑な全体構造が露わになった。
「見えた」
ゾーニャの真の狙いは、機関部。ショート・リコイル機構。どこかの天才技術者が考え出した、対人間専用の肉挽き機械の動作軸。弾丸を自動装填し竜の息吹のように吐き出し続ける金属の呼吸の要。あるいは、鉄の竜の心臓そのものといって良い。
人も機械も、心臓を撃たれれば致命傷にかわりはない。
思惑通り。これで、射線が通った。
ボルト・ハンドルを操作し空薬莢を排出。続けて薬室に収まったのは、さきほど押し込んだ徹甲弾だ。重量の違う弾丸と、初弾を放ち温まり、その形状を膨張させ変化させた銃腔。
射撃に与える諸条件が、無視できないほど変わっている。
考慮し、狙いを修正。
機関銃手が、死んだ戦友の腕から、銃身を持ち上げようとしている。
時間がない。スコープの
ゾーニャは二射目を放った。
反動。心のなかで舌打ち。着弾前に結果がわかった。機関部を掠めて過ぎた徹甲弾は狙いを外れ、射手の胴体を貫いた。徹甲弾の密度と速度が内臓を圧しひしぎ、人間には過大すぎるエネルギーをもって肉体を損壊させる。
外した。
貴重な徹甲弾を浪費した。臍を噛みたいが、それすらも時間が惜しい。
理由はわかっている――重い徹甲弾の落下量を過大に見積もり、少々上を狙い過ぎた。過去の記憶と記録からもっとも環境諸元が近いデータを選び取り照準を調整したつもりだったのだが。
軍を脱走したゾーニャは、弾丸の供給が絶望的だ。軽量弾ならまだしも、
それでも機関銃を操っていた人間は死んだ。
ゾーニャは息を吐く。沈黙を強いられていた血流が回復し、酸素が全身に満ちていく。
まだだ。まだ、終わりではない。この中断は一時のものにすぎない。別の人間が機関銃に取り付けば、また発射可能になる。だから。二度と撃てぬように、可能な限り機関銃そのものを破壊したい。
射手が倒れいく。機関銃を斜めに地面に突き立て、まるで漢字で言うところの〝人〟の字のように互いを支えつつ、いっとき停止する。
芸術的なまでの人の死。夏の日差しに描かれる静止画。文学と絵画を愛した仲間のオリガが言う、イヴァン・シーシキンの夏の風景画を思わせそれは空間にとどまった。
機関部はまだ見える。
またたきし、網膜に焼き付こうとする銃口炎の残光を追い払う。息を継ぐ。再度ボルトを押し上げ、後ろにスライドさせ、空薬莢を排出。きらめきを浴びながら空薬莢が宙を舞う。工程を逆しまにやり直す。再装填。呼吸を止める。静まる鼓動を感じる。
再照準。
集中しろ。必要な分だけ、必要な角度を修正しろ。自らのみを恃め。
心臓の鼓動を感じ、その間隙を意識し、空白となった刹那の時間にあらゆる感覚が満ちていく。
光。音。硝煙の臭い。舌にざらつく焼けた金属の味。だがとりわけ刺激される五感は、引き鉄に触れたひとさし指にかかるライフルの機構そのものの感触だ。
それ以外、なくていい。
指先に力をゆっくりと込め、真後ろに絞りきる。モシン・ナガンの機関部の、あらゆる構造がカチリと嵌る小気味よさ。発射の反動。床尾が肩を打つ。銃口炎がぱっと広がり、大気に霧散する。
モシン・ナガンの咆哮が、広野を
満州の大気に、弾道を示す蒸痕は現れず。
でも火花が見えた。
遠くで金属同士が激しく擦れ合う。光の羽虫がぱっと飛びだったかのようだ。
三発目に発射した徹甲弾は、今度こそ、機関部を撃ち抜いていた。双眼鏡から目を離した指揮官が、絶句し動きを止めた。指揮下の者たちに、そして自分たちの攻勢を支えていた火器に何が起きたかを悟る。
それが、絶対の脅威をばら撒いていた機関銃の最期だった。
撃発機構が完膚無きまでに破壊され、ドイツからはるばる長い旅をしてきた機関銃は異国の地の、それもどことも知れぬ戦場で完全に沈黙していた。
がなり立てていた銃声が一斉に静まり返る。異様な
にわかには信じられない狙撃に、誰もが音を失っていた。
ゾーニャ以外は。
「走って、ヴィカ」
もはや、声を張り上げる必要はなかった。あたりはそれほど静まり返っている。二度は言わず、引き金を絞り切り、銃撃。ドイツの
これで、彼らは頭と主要な武器を失ったことになる。
動揺が伝播し、敵兵すべてが地に足を縛られ動けなくなる。彼らの時間もまた音とともに凪いだ。
丘を下るのに最適な機会だ。
だが、ヴィカはまだそこにいた。なにをぐずぐずしてるの。ゾーニャは眉をひそませ横を見る。
「おぬしは、まことの
とたんに、ひどくやわらかいものが唇に触れる。蜂蜜とバターで煮込んだ白パン粥みたいにあたたかく、あまやかな。
ヴィカにキスされた。
「な、なになになんなの!?」
混乱。零れんばかりに目を開く。理解する前に唇が離れていく。顔面が火炎放射器のごとく熱気をたてる。
かつて相棒だった観測手と戦場で交わしたそれはあまりにも無遠慮で無作法で、熱くぬめる舌という蠕動生物が捩じ込まれる感覚だったというのに。
ヴィカの唇は、彼女が母に抱かれてミルクを嘗めていたころからただの一度も荒れたことがないと思えるほど芳しかった。
思考がぶっ飛ぶ。顔面を真っ赤にして凝視。ヴィカもなんだか自分がやったことを信じられずにいるようで、わなわなと震えだし見つめ返してくる。視線が混じり溶けあうと、ヴィカも頬を紅潮させる。
またこの娘は他人に感情を同調させている。まるで光を反射する鏡。おかげで気恥ずかしさが倍増だ。
でも同時に、覆しようもない過去もまた陰を増す。ウラル山脈や大興安嶺山のごとく
おじいちゃんの死。人型に刻まれた、永遠の断絶。
ゾーニャの内心に気付かぬまま、ヴィカは甲高く叫ぶ。
「か、かんちがいするのではないぞ。接吻はわかれの挨拶なのじゃ。互いの武運を祈るにすぎん。ゴーゴリもそう書いておる。コサックはサヨナラとは言わんのでの」
「知らないよそんな作家! だからって今する? まだ敵は残ってるけども!」
「わかれの挨拶だというておろ。今やらんでいつやるんじゃ!」
怒鳴り声が遠ざかり始める。気まずさと気恥ずかしさが入り混じった雰囲気のままヴィカは駆けだした。無駄遣いなほどフェドロフ自動小銃を牽制射し、残った歩兵たちを威嚇する。
ありったけの声を集めてヴィカが叫ぶ。
「死ぬのではないぞ、ゾーニャ――旅が終わればおぬしを斬って捨てて良い、その約束をわしは忘れておらんからの。おぬしを殺すのはわしじゃ」
「そっちこそ死なないでよ。さっきヴィカにぶん殴られたことは覚えてる。一発は一発だから、忘れないからね――理由は知らないけどあの子を助けてあげると決めたんだ、ちゃんとやりとげなよ。かかわったのなら、責任をもつ。〝骨をあげるまで見守る〟ってやつだね」
「なんじゃそりゃ?」
「
「ならば。わしはおぬしに、聖アレクセイの加護を祈ってやるのじゃ」
すぐに声が聞こえなくなる場所まで疾走するかと思いきや。
斬り殺すと言っておきながら、次にはゾーニャの無事を願うとは。ほんとうにヴィカは感情をころころと変化させる。まるで晴天に湧き立つ鉄床雲、雷雨を引き連れる夏の空が、降り止めばからりと晴れるさまだ。
赤軍に属していたときには頼れる下士官として慕われはしたし、ただならぬ感情を向けられたこともあるが、部下の少女たちのなかにこんな女はいなかった。
ゾーニャの気持ちは別として。まあ、ヴィカならユズをうまいこと守ってやれるにちがいない。
「アレクセイ? わかんないよ、だれ?」
「わしらザバイカル・コサックの守護聖人じゃ、覚えておくがよかろ」
声は遠くなっていく。砲金色をした髪の毛の輝きだけを、鱗粉のごとく宙に描き残して。
ゾーニャは火照った顔面の熱を心とともに鎮める。狙撃よりも努力が必要だったが、わるくない気分だ。甘いキスの味を思いつつ独りごちる。
「
ユズを救うべく、ヴィカは走り去っていった。
指先にわずかに残る嫌悪の感触を、ゾーニャは思い出す。
ふ、と息が漏れる。
「あたしはあの子に嫌われているけど、ヴィカはそうじゃないからね」
真っ先に追撃しよとした歩兵を、固定弾倉内の最後の一発を使い容赦なく射殺する。機関銃を狙い撃つのに比べれば、容易な射撃だった。
――どうかどうか、
ゾーニャは我知らずに願っていたことに、一瞬遅れて気が付いた。口の端を歪めると、こんどは笑みが頬にまで達した。
戦争に征ってさ。
ヴィカは行った。蒋介石の兵士たちは何名かが逃亡を始めたが、残った者たちは立ち直りつつある。仲間の仇討ちに燃えているようだった。
ゾーニャの嗅覚には、相棒の体臭と血と、そのほかには焼けた鉄と硝煙の臭いが纏わり付いている。ほのかに香る蜂蜜とバターの白パン粥の感触は、忘れたり上書きされたりせずにすむ大事な部分にしまっておくことにする。
痩せさらばえた感情、枯れた人間性という大地に慈雨のごとく降り注ぐあまやかさ。いつからだろうか。あたしに、そういったものが枯渇し始めたのは。
だが生じた断絶に、すべてが零れ落ちていく気配もある。
ごく至近で、弾丸が、地面を穿った。
息咳きって、兵士たちが、斜面を駆け登る。
距離という優位性が、遠からぬうちに消える。狙撃よりも、ずっと面倒な事態だ。ゾーニャはライフルを握り直した。
さて。ここから先は、ほんの少し――骨が折れる戦いになりそうだ。
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