第一章 戦場にふたり
第01話 颶風の愚者(上)
「一時方向、距離三〇〇、レンガ造りの外壁の陰に機関銃陣地を確認。
「発見――狙撃手準備よし」
「観測手、弾着評価可能です――撃ってよろし」
今のところ最長の相棒であるクララ・フェイギナが、双眼鏡を覗き込みながら囁いた。
四倍PEスコープ、ジャーマン・ポスト・レティクル。交差点が消失したT字ワイヤーのほぼ中心に見えるのは、重機関銃の射手。自らの命を贖うために弾丸をばら撒き、破壊を行使している。そうすれば、何者をも自分の命を奪えないと信じるように。
ヘルメットのまびさしの陰には、殺すのにしのびないほど若いドイツ兵の顔があった。
それでも、心はさざ波ひとつ立たない。距離三〇〇。零点規整、ずれはなし。呼吸するときですら照準を微動だにさせず、折敷いたフェオドーラは引き金を絞った。
銃声とともに床尾が肩を打ち付ける。視力に優れたフェオドーラは、今にも降り出しそうな湿度のなか、銃弾が水蒸気の尾を引くのを見た。
それは、死の曲線弾道だ。
確殺の意思が宿った弾丸には、疑いようのない手応えがあった。
「ど真ん中。頭部へ命中。機関銃手、倒れました。さすがです、
「次の標的は?」
「必要ありませんよ――上級軍曹の一撃のあと、旧式重機関銃にビビってた歩兵たちが肉迫。土嚢を乗り越えて、
「狙撃位置を変える」
クララの賞賛と愚痴の言葉に応えず、フェオドーラはモシン・ナガンの再装填をすませつつ言った。ボルトを操作すると、小気味良い金属音とともに空薬莢が排出される。
次弾を薬室へと送り込み、油断なく狙撃姿勢を解く。
ここはもう大丈夫だろう。壁の裂け目から外を覗きみ、相棒に頷く。先導するのはいつだってフェオドーラの役割だ。経験の浅いクララは精一杯、健気についてくる。
ふたりは篭っている建物から抜け出し、次の狙撃位置へと移動を開始する。距離を置いてライフルの発射音が響いた。
ナジェージダだと直感する。
狙撃をいつもの通り、いつものようにすませると、世界を置き去りにしていた集中力が途絶え始めていたのがわかった。
酸鼻を極める市街地戦へと移行した、戦場の喧騒が耳朶を打つ。
感情というものが戦争のうねりのなかで摩耗し、痩せ衰えても聴覚は昔のままだ。
命令伝達の怒声と、炸裂する迫撃砲と、男達の悲鳴と、鬼火のように襲来する未だ沈黙しない重機関銃弾の光の奔流のなかで、戦友ナジェージダのモシン・ナガンの発射音はやけにはっきりと聞き取れた。
考えなしの射撃。そうフェオドーラは断じる。
「あたしが行くから。あたしが殺るから。やめて、ナジェージダ。重機関銃に拘るな。お前はもう、同じ場所から四度も狙撃している。位置が露見しちゃう」
冷酷なまでに死をばらまく狙撃手である上官の、懇願するような呟きにクララが息を呑んだ。
フェオドーラの位置からは廃墟に阻まれ、最後の重機関銃が見えない。次の狙撃場所に移動せねば。風が肌を強く撫でつけると、街のどこかで砲撃により寸断された電線が震え、鞭のような唸りを立てた。
あらゆる要素が心を急き立てているようにすら思えた。
逸る気持ちをしいて落ち着かせる。瓦礫の破孔部から周囲を観察し、敵兵がいないことを確認する。
「こっちへ。ついてきて」
「待ってください、いま――」
射界を確保するために急ぐ。通りを越えようと走った瞬間、ふたりの前方に迫撃砲弾が叩き込まれた。
衝撃と爆発に視界が揺れ、クララが小さく悲鳴をあげた。
自分たちを狙ったものではなかった。爆発は危害半径よりも、ほんの少し遠い。それでも轟音とともにアスファルトと建材の破片が飛び散ってくる。
左手でクララの裾を掴み、強引に引き寄せる。
「わ。わ。あ、ありがとう」
もごもごと礼を言う。寄せた肩と肩とが触れ合い、フェオドーラの黒髪がクララの鼻先をくすぐる。吐息と鼓動を感じたのか、頬を赤く染めるクララ。いっとき心を支配した恐怖を落ち着かせるため一度深呼吸をすると、改めて口を開く。
「たすかりました、上級軍曹」
「いいよ」
フェオドーラは鼻をひくつかせる。獣が鼻先で熱を感じるように、風の流れを読む。
戦場の混乱を反映するように、大気状況が不安定になりつつある。
一度沈黙し、相棒に説明する。言葉に出すと、自分でもさらに状況をよく理解できる気がする。
「戦闘で発生したたくさんの熱が、上に上に向かってる。けど空は冷え切っていて、大気に蓋をしてる。互いが互いを押しのけようとしてるから、街の上で風が激しく乱れてるんだ。迫撃砲弾は速度がおそいから、上層風に流されて狙いを外れ、あたしたちのほうに落ちてきた」
「ええ、はい」
「だから、まわりをよく見てね。あなたはあたしの観測手だから、風を読んで。あたしが狙撃するときに、大切だから」
期待ととったのか、クララは頬を紅潮させる。短く頷いた。
ふたりは自分たちの幸運のみを頼りに、飛来物の中を走った。目星をつけていた三階建ての建物に転がり込む。ひしゃげたシャッターをくぐる。倉庫だったのだろうか。放置された木箱と焼け焦げた書類の残骸が、かつて人々が働いていた痕跡を残していた。
砲撃が地を揺らすたび、頭上から壁の欠片がぱらぱらと落ちてくる。
見上げれば。天井はとうの昔に落ちて、曇った空が地上を這いずり回るふたりを憐れむように見下ろしていた。
どこにでも飛んでいける羽虫のほうが、よほど自由に生きているだろう。
建物は例外なく無人だ。いまだ街のなかに残っている数万の市民は、まるで神隠しにあったかのように姿が見えない。必死に隠れ潜んでいるのだろう。
出会うのは、敵か味方のいずれかだ。
フェオドーラは遅れがちなクララがぎりぎり付いてこれるだけの速度を保つ。破片だらけの階段を駆け上り、吹き抜けの上階に陣取った。
額にかかった泥を手の甲で拭う。フェオドーラは焦る気持ちを静めるのに必死だった。動揺は死を招くことを承知しているからだ。
それでも。戦友の無謀な連続狙撃に胸中でしか警告できないことが、ひどくもどかしかい。
砲弾孔から視線を送る。家主のいない商店。ナジェージダが遠くに見える。ヘルメットも略帽もどこかに落としたのか、豊かな赤毛を汗と血で張り付かせた女。
ナジェージダは観測手のニナを従え遮蔽物から頭を出し、ライフルをかまえスコープを覗き込んでいる。狙いを定め、一歩も引く気はないようだ。
ヘッドポジションが高すぎる。目立ちすぎている。あれでは狙ってくれと言っているようなものだ。
もはや勇気ではない。蛮勇だ。
あの娘は頭に血が上りやすい。射撃の腕はともかく、精神面では狙撃手に向いているとは言い難い。止めたくとも、拠点防御のための重機関銃を潰すために市街地に散らばり射撃している狙撃小隊の面々は、それぞれが孤立し連絡もとれない。
拳をにぎる。ふと見つめると、手の甲にこびりついた泥だと思っていた汚れは別のものだった。
死んだソ連兵の肉片だ。男か女かは知らないが、砲弾の直撃を受けたらしい。死は分け隔てなく、誰にでも訪れる。違いは、幸運か不運かだけなのかもしれない。
「突撃準備! 突撃するぞ! 総員前へ!
大地が揺れ、鼓膜を劈き、目を眩ます銃撃と砲撃の嵐。五感を失うほどの激しい戦火のなか、ロシア語の大声が木霊する。覚悟を決めた前線指揮官の声に、呻きと抗命の声が重なった。
抗う兵士をだまらせたのは、鋭い女の舌禍と空に向けて放たれた拳銃弾だった。
「アーニャ、早すぎる。まだ機関銃は健在だ。今突撃すればみんな殺されるぞ。勝っても死ぬ人間の方が多い。あたしの狙撃を待て」
吶喊を指揮官に進言しているのは、強力な権限を持っている政治担当副官――いわゆる政治将校というやつで、四二年に廃止された
まだら模様のアンナ・イリイーニシュナ・クラーゲンシュトリヒ、ロシア人としてはいささか変な名前の彼女は、悩める兵士に啓示を与える教導師であり、共産主義という人造神話における聖職者であり、そして若者たちを死地へ送る執行人だった。
破れかぶれで飛び出した下級兵たちが、重機関銃の火線に薙ぎ払われる。彼らは一瞬のうちで、元が何人いたかわからない肉片と化して砕けて行った。
五度目のライフルの発射音が聞こえ、戦場に破滅の音楽を奏でていた重機関銃はそれきり沈黙した。
「ナジェージダが狙撃に成功したみたいです。これでドイツ野郎の機関銃は全部潰して」
クララが報告した瞬間、フェオドーラの鋭敏な視覚は何かが飛来するのをはっきりと捉えた。
銃弾。そのさきにいるのは。理性が結末を予測し、感情が拒絶しようとせめぎ合う。
それでも、現実は変わるはずがなかった。
遠方にいるナジェージダの頭ががくんと揺れ、後頭部から緋色の液体が迸る。即死したのが見て取れた。
死んだよ、ナジェージダは。
だから。
やめて、すぐに身を隠すんだ――フェオドーラは自身の位置が露見することを恐れ、叫べなかった。叫んだところで戦場の喧騒にかき消され、ニナには届かなかっただろうが。
友達のいないベラルーシ人で、気の弱いニナは押しが強いナジェージダに懐いていた。
いや、そんな甘えた関係ではなかった。心底依存していたのだ。たとえ眼前にいても、ニナの思いを止めようがなかっただろう。
糸の切れた人形のように、ナジェージダが倒れ込む。
孤独なニナはまたひとりぼっちになった。その場に突っ伏した保護者であり絶対者でありすべてであったナジェージダに庇護を求めようと、ニナが手を伸ばし。
もう一度飛来した弾丸が、小柄な観測手の喉を貫いた。一瞬の間を置き炎が吹きあがり、ニナの皮膚と骨と声帯が木っ端のように爆ぜた。ぐずぐずに飛び散ったかつて自分だった破片を見て、彼女は世界が揺らいだように全身を震わせる。
即死できなかったニナは抉られた箇所をおさえ幽鬼のようによろめいた。
とめどなく血が溢れ、そうして麗しい銀髪の残光だけをなびかせ、くず折れる。
「
人体を欠損させる弾丸の名を、クララが呟く。炸裂弾が人間をいかに壊すかよく知っている彼女は、吐き気を抑えるように口元を手で覆っている。
オストラント
けっきょくニナは、ナジェージダの亡骸にはたどり着けなかった。
小隊でもっとも小さな観測手は、永久にフェオドーラの視界から消えてしまった。
「わたしはいやだ、あんな死に方」
クララの悲痛な声は、もうフェオドーラの心に波一つたてなかった。
狙撃に意識を集中すれば、感情は瞬時に沈黙する。なぜなら、生まれながらの狩人であるフェオドーラはそう形作られていたからだ。狩る者が騒げば、獲物に遁走されるのは道理なのだから。
つぶさに、凪いだ水面のように内面を保ちながら状況を分析する。
今の精密射撃は、凡百の歩兵によるものではない。確信があった。ハーグ陸戦条約に参加していないソビエトの兵士に、人体に残虐な結末をもたらす炸裂弾を使う連中はひとつ。
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